第151話 真実は霧の中。3/4
「——縄ですか。首括りの」
確かにアルキラルの足下、折れ倒れている樹木の幹に弾む事も無く重みを感じさせぬままサラリと堕ちたのは自然由来の物では無い光沢のある人工繊維で編み込まれた細い縄であった。それを首括りに使うモノだと一目で分かったのは、霧が魅せる幻影のこれまでの性質と——やはり縄の形状が故の所業。
拾い上げて状態を確かめて見れば縄先に括られて創り上げられた輪は、酷く伸びていて反対側の縄先もまた荷重に耐えかねて引き千切れたような状態。
「妹と一緒に自殺しようとした時のもんだな……体重差を考えてなかったのか、そもそもの結びが甘かったのか俺の分だけ……途中で千切れちまった。今となっては何もかも思慮の足らない馬鹿な嗤い話だ」
進むべき方角を見誤らないように先んじて向かわせた巨大な剣の侵攻の難から逃れ、僅かに斜めに生えている樹木の下を腰を低くして
「妹……イミナは拒食症になっててな。最期の時は、ずいぶん軽かった……いや——どうだったかな、もう
白霧に包まれる森の木々に実るように連なる影、ぶらりぶらりと木の枝らに吊り下がり——木々が軋む音が微かに、しかし確実に複数と耳を突いてくる。
「存じております。罪人様が何故に罪人であるかは、監視等の業務で関わりがある以上っ……把握しておりますので」
更にイミトを追って彼が辿った樹木の下を潜ったアルキラルも目にする事になる宙吊りになった女の両足。
時を
「人様のプライバシーを何だと思ってんのかね、修学旅行の男子中学生の
樹木を潜り抜けて僅かに曲げていた腰を持ち上げて視界から消えていたイミトの背を探すアルキラル、声を頼りに見つければイミトはアルキラルを待っていたかの如く立ち止まっていて、そこらに吊り上げられる少女の遺体の幻影に取り囲まれていた。
——ただ、異常。異様。
「……心中はお察しいたします。現在の状況も踏まえて」
建前、或いは社交辞令の様相で乱れた執事服を整えながら言葉を紡ごうと、実際の所アルキラルには目の前で
嫌悪も、畏怖も、憑りつかれているはずの過去の幻影に何一つの動揺も魅せはしないイミトの様子は、天使として様々な人物を見届けてきた目にも異端に写り込むのだろう。
或いは単に、動揺を表に見せぬ
「必要ねぇさ、そんなもん。俺はアンタらの言う通りの罪人だ、結局は苦しんでる妹の死に様を……動かなくなるまで眺めて何もしなかったんだから、現在の状況とやらもその報い——自業自得なんだろうさ」
しかし縄と木々の枝が
「自殺に意味も同情する価値も無いだろ。何の関係も無い生ごみ清掃業者に大した金にもならない利率の低い面倒な仕事を増やして不動産価値を
世間様に対する運頼り、善人マウント取りたいだけの人間用のサンドバック製造法。賃貸マンションかなんかの大家が嫌いなら効果的な報復だろうけど、後は世間体を大事にするパパママにも効くか、はは」
ただ虚しい、世界の無情に打ちひしがれ、風も吹かぬのに嘆きの波音が押し寄せてくるような情景。
男は嗤っているのだろう。
狂ったように嗤って、しまえているのだろう。
「……あまり、耳心地の良い話ではありませんね」
「
やがて首吊りの森を抜け、足下の茂みを押し潰して積み重なっていた縄の幻影をカサリと蹴り退かせる音が響くと、イミトの背を追うアルキラルは何に阻害されるでも無く円滑に前へと進み——それ故にか、イミトの横へと追い付くに至る。
いや、彼は立ち止まっていた。少し先の道筋を静かに見据え立ち止まったイミトの横顔を確認した後に、男が見据える先に視線を流すアルキラル。
「——次は身投げ。罪人様の母君の最後の記憶ですか」
そこに在ったのは、飾り気のない薄水色の簡素な服を纏って血に染まる女性の死体。遥か高所から硬い地面へと水風船でも叩きつけたかのように飛散した血の跡は、救いようの無い絶望的な致命傷を容易く想わせて。
「まるでゴミ袋でも投げるみたいに積んでいきやがるな……全く以って趣味が良い、奇跡的にギリギリ意識が残ってる所まで再現してやがる」
たとえ目の前に仰向けに転がる女性の体の一部——指先がピクリと動こうが、もはや細胞の条件反射、本人の意志の及ばぬ動きに思えてならない。縄に吊るされた遺体が軋ませる木々の音を背後に、次々と地面に叩きつけられる震動のような
「足下、木の根が盛り上がってる」
「——気遣い、感謝します」
ふと振り返った彼の表情は、霧に隠れていた。先導すべきだっただろうか、彼が足を止めて横並びになった時点で立ち位置を入れ換えて己が先に往くべきだったか。横並びになった理由は僅かでも垣間見せた彼の動揺——いや、単に言葉の通り、進行方向で今か今かと息を
様々な思考がアルキラルの脳裏に過ぎる。
するとそんな折、思い出させるかのように——
「……容赦の欠片も無い暑い夏の日の高い蒼空、温まり切ったコンクリートが血を蒸発させて噎せ返るような臭いを運ぶ」
唐突に思える程、イミトは淡々と言葉を紡ぎ始める。次々と集積場へと荷を降ろすが如く空から降る生ゴミの音を片耳に、小首を傾げて小気味よく言葉を紡ぐのだ。
「俺は……、どんな顔をしてたんだろうな。この救いようもない程に宗教に
飛散してくる血飛沫を頬に浴びて、親指でそれを拭う仕草を朧気に隠す霧の中で魅せしめながらの問い口調。己の中に問うている事は、或いは明白でもあった——誰に
「本当に記憶を再現しているようですね。気温まで、高まっている」
故に問いに答えを返す義務は生じず、アルキラルは応えに困る問いから目を逸らすかのように冷淡な眼差しを歩みを止めぬままに流すに留まる。夏場のコンクリートに
あるはずの夜の暗がりが最初から無いモノであったかのように此処に無く、まさしくと蒸された鉄にも似た血の臭い、けたたましい
「こうなると、いよいよ次は俺の最期か? あの人の死に様は面会謝絶で身内以外は看取ってないはずだし、穏やかな葬式だった記憶がある」
人々の雑踏、言語の残滓、信号機の広報、至る所から路面を走る自動車の排気音、
——日常だった。いと懐かしき日常。
耳を突いてくるのは、肌を舐めてくるのは今や非日常であるはずの日常。
気が狂いそうになる程の平穏で、欺瞞に満ちた日常であった。
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