第151話 真実は霧の中。2/4


バン、ボン、ダン。


「——聴こえるか? 霧の中、どんな音だ」


明らかに近づいていた。いや、離れても行く。はてさて、そのような耳の奧で木霊こだまするような寂しげな音響が認識を同じく出来るものかと問うように、薄暗闇の黒化粧に彩られた白霧の壁の奧に目をらしながら漆黒の魔力で創られた衣を纏うイミトは風にあおられているのではないころもの蠢きを強めて警戒を滲ませる。


バン、ボン、ダン、ダダン。


「……聴こえます。柔軟でありながら平らな——そうですね、しっかりとした木造建築の分厚い床板に大きな弾力性のある球体を幾度も弾ませ続けているような、そんな音です。数は一つ……いえ、増えましたね、二つ……三つでしょうか。ボールでは無い、ボールを追い掛けているようにゴム製の靴裏を同じ床に擦り付ける音も」


 とても、寂しげな音だった。真夜中の静寂に馴染めぬまま際立つ人為的な音響、誰かが居ると明白に暗闇の奧から伝えて来る。未だ人の手にゆだねられぬ森の中では決して聞こえる筈の無い音が、確かに天使アルキラルの耳にも届いている。



「幻聴では無いらしい……クソ懐かしいだな。色んなものを忘れても、こんな音は懐かしく思い出せる状況が腹だったしいったら無い」


。そのような想いで溢される小さな溜息、見通しの悪い視界不良の霧の中から響く音の正体と対峙しなければならないと考えているのか霧の向こうを目指すイミトが辟易と項垂れながら面倒げに頭を軽く掻いた。


そして——バン、ボン、ダン、ダダダン。


「——方角の確認は『【一借断絶リコル・サティルータ‼】』——不要のようですね」


尚も続いた寂しげな音と己を気遣うような天使の流し目に明確に『』と宣うかの如く、イミトが自らの進むべき方角に掌を突き出して黒き魔力を盛大な勢いで放出すれば、創り出されるのは霧を先んじて突き破り果てしなく伸びてゆく


霧の中の進行方向にあったのであろう木々らの全てを薙ぎ倒し伸びたその剣は、全ての静寂と数多の雑音を掻き消す破壊の轟音ごうおん、森に悲鳴を響かせてイミトらの背後遠く——夜に休んでいたのだろう鳥の群れ群れを驚かせて旅立たせる。



「初めは様子見で、ゆっくり行くぞ。出来る限り、この剣から離れるなよ……何があっても」


こうして大巨人の振り下ろした一刀の如く森に突き刺さった剣の腹に片手をあてがい、撫でるように剣の刃先に向けて沿うように彼は歩み始めた。


 剣の乱入で慌ただしく蠢き立つも散る事の無い霧の中、不気味な音も再びと懲りもせずに弾けゆく霧の中、そこに在るものをきっと——と思うのだろうと思いながらに。



とても寂しげに、寂しげな背中で付き添いの天使の手を引くが如く。


***


バン、ボン、ダン。

音は暫くと霧の中に踏み入り、歩いても尚も続いた。むしろ続くばかりであった。



「……実態は掴めませんね。音ばかりで何をしてくる訳でも無い」


視界不良の霧のせいもあってイミトが繰り出した巨大な剣の乱入に対応できずに無惨に倒れた樹木の数々を乗り越える最中も、近づいてくるようでもありながら離れても行くような一定のリズムと距離を保ちつつ、霧の中を進むイミトらの様子をうかがうようにその音は聞こえ続けていた。


だとは思ってたがな——俺の記憶に対する悪戯いたずらが、なんでアンタにまで見えてんのかが謎だ」


纏う黒衣が渦を巻き風を起こして周囲に漂う霧を払う。倒れた樹木を踏み付けて進む足取りは淡々と手持ち無沙汰で予想外の平穏で生まれた退屈を埋めるが如く、イミトは会話のキッカケ、或いは独り言と想われても問題を生じさせない言い回しの無難な話題を口ずさむ。



「我ら天使には過去も未来も現在も無い。ただ知識と力と人格のみが存在しているだけですので感情が希薄な私には影響が薄い……或いは単純にくみしやすい対象のみに焦点を当てているのでは?」


予想に反して牙を剥き出さず不気味な静観を続けてくる霧の様子に、些かとしびれを切らしていた事は否めない。張り詰めたような警戒と緊張が続く状況に今か今かと異常を期待する矛盾、心に掛るもやも、さもすれば視界不良を生じさせる霧の影響とも言えるのだろう。


ただ——、

だよ、どうやって俺の記憶を引き出して——」


 「……」


彼らは冷静であった。気を紛らす為の会話を始めた直後、自分に目を逸らした彼らの注意を再びと惹く為に周囲に充満する白い霧は、その牙を僅かにき立たせた。


 転がってきたのは、森にあるはずの無い——ましてや、この世界にあるはずの無いような人工物。丸い球体、良く跳ねる両手には収まりきらない程の大きめなボールがカサリカサリと枯落葉を踏み付けてイミトの足下、森の落ち葉にバザリと沈む。



「——……さわれるか?」


すればイミトはそれを僅かに周囲に警戒の気配を向けながらも慎重に拾い上げ、両手に収まらない大きさの材質を確かめて背後へと振り返り、これも幻覚では無いのかと天使に問うのだ。


使ですね。罪人様の、かつての私物か何かをした物で?」


ああ、。実体が確かにそこにり、天使アルキラルは正確にそれを両手のひらで挟み抱えて受け取った。古びていると一目で分かる色褪いろあせたバスケットボールだった。


「中学バスケの部活のボールなんてそんなもんだよ。新品が湧いて出てくる訳じゃないし、道具は出来るだけ長く大切に扱うのが薄ら寒い道徳者から叩きこまれるスポーツマンの精神って奴さ。大量生産の拝金主義はいきんしゅぎ蔓延はびこる世界でな、新しい道具を買う金が潤沢じゅんたくに回って来ない事を示すような全く以って愉快痛快な話だ」


「……」


この世界にバスケットボールなど存在するのか、或いはそれに類する球技がさかえているのだろうか。受け取ったボールを軽く放り返すアルキラルに対して、慣れ親しんだ様子で片手を操り器用にボールをもてあそぶイミト。


此処よりと別の世界——文化文明、歴史やそもそもの構造が違う世界で、何故なにゆえに今さらと触れる機会が有ろう筈の無いと思えていた物質に再会する事が出来よう。



違和感は多々とある、むしろ違和感しかない情景が広がり続けていく。


「まぁ、とはいえ俺も——新品のバスケットボールよりコッチの方が好きだった。弾みも悪いし空気も直ぐ抜けちまう感じがあるから捨てる手前だけど、良く手に馴染む……そうだった、投げ方をさ。こう投げれば良いって残ってた気がしたんだよ、擦り減った表面の凹凸おうとつに、誰かの頑張りとかが残ってた気がした」


森であったはずの霧の中が、いつしかと輝かしいばかりの木目調に整った体育館と表せるだろう無機質で清潔感のある広い空間と相成って、バスケットボールの球技で用いる白網しろあみが垂れ下がっているゴールポストが彼らの前に現れる。



さぁ——その受け取ったボールを、いと愛おしい平穏を懐かしむように投げて来い。



 霧が暗に、そう語らうようで。



「——新品はどうも、ドヤ顔の新品面が傲慢ごうまんに思えて気に入らねぇ。強めにドリブルしたもんだ……はは、まるで老害みたいな事を宣ってるな」


しかしながらと、今のイミトが履くのは蹄鉄ていてつの如き足裏の靴。滑り防止のゴム靴裏では無いと木製の床を踏みにじってもキュッとゴムが擦れる音も生まれず、光沢を帯びるワックス塗りの床を硬く削ろうとするばかり。


彼はわらった。実に嗤った。


過去には戻れぬ郷愁も、過去より進んで尚と身に染み付いた技術感覚も心に——背筋を正し、両手で掲げたボールを穏やかに打ち放し、高々と放物線を描かせて霧の誘いに乗るようにゴールポストを目指して放った。


そして、すとり。


何かにさえぎられるでも無く待ち構えた——まさしくバスケットと呼ばれるような編み込みの白網を微々と揺らすばかりでゴールを綺麗に通り抜けるボール。



床板に叩きつけられるボールの落下音だけが、その後に虚しく響き渡り——ダン、ダンと一定の規則性のある反響を虚しく繰り返す。



「お見事です——が、を忘れないように先を急ぎましょう」


布地の白手袋から放たれる拍手は二回。ボールを見事に狙い通りに打ち放った男の背に向けて称賛しつつ、天使アルキラルは不謹慎な行動だと諫言を淡と吐くに留める顛末。



「分かってるよ……今や昔、竹取のおきなふ者ありけりだ」


感傷に浸る暇などない——転がって遠ざかっていくボールの行方を眼で追いながら、ダラリとぶら下げた両手にボールを追おうという気概は無く、彼の口からも大した意味も無い意義も無いのだろう自嘲の軽口が溢されるばかりで。



彼は再びと己が創り出した巨大な剣の腹に手を当て道案内を再開し始めるのだ。


「記憶の残滓を基にした物質の再現……模倣、複製。俺の内側をいじらないと出て来ない筈のもんを、良くもまぁ、こんなに精巧に——があるもんかね」


考えていた。きっとこれはに過ぎないのだろう。


その対処と対策を、さもすれば覚悟を整える。意図せずに踏んだ地に堕ちていた枯れ枝がパキリと音を鳴らす。


気付けば、いつの間にか再びと霧深い森の光景。体育館のようとも言えた無機質な情景は霧が瞬く間に晴れるが如く過ぎ去りて、幕間の白霧——映像を投影する為の白布スクリーンのような景色へと回帰する。


近づいたり離れたりしていくゴムが擦れる足音も、ボールが跳ねる音も映像が遮断されたかのようにもう今や聞こえてこない。



「……何処かに穴が空いているのでは? 欠損部分を魔力の物質化で無理矢理に固めているとはいえ、滲み出てくる物を全て押さえられている訳でも無いのではないですか」


次は何が来る。次は何を魅せて来る。まるで嵐の前の静けさが、再びと訪れて殊更に浮き立つ警戒感。驚いてなどなるものか——ましてや不意など突かれてたまるものか。


「気遣いどうも。ほら、が来たぞ……


そうして淡々と、平坦と、平然と歩んでいく道中。

視界不良の引き起こす白霧が周囲全てに満面と揺蕩たゆたう中で、彼らは互いがそこにる事を確かめる為にも言葉を続けても往く。


やがて飽き飽きと、次なる演目を見つけたイミトはその時——唐突に腰を落としてあるものを拾い上げ、またしても少し振り返りながら背後を歩いているだろうアルキラルの足下へと——ボールでは無いそれを投げ捨てた。



きっとそれも、彼の記憶の中にある彼自身を責め立てる過去からの追走に違いない。

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