第148話 地に堕ちた羽根。1/4


ほとばしる事も無い。何一つ轟く事も無く、誇る事も無く、まるで夜中に水道の蛇口から垂れる水の一滴のように彼は堕ちた。


静寂の中の不吉な一音の如き存在感で降り降りて、引き連れる黒き闇が夕焼けの赤を遮りながら膝を曲げる事も無い着地で硬直も魅せないままに風を斬るように平静に歩き始める。



「さて——取り敢えず、カトレアとクレアを見逃し……見逃されたなんて言ってたら殺されそうだな。戦わずに生き残ってくれて有難うと言っておきましょうか、ギルティア卿」


そうして戦いを傍観していた観客に感想を求めるような出で立ちで歩み寄り、白黒の髪を揺れす小首の動きで微笑みを投げ掛けて。



「イミト・デュラニウス……貴様——」


世界に夕の到来、夜への備えの必要性を告げる冷たい風にはためく人の身の丈には決して合わない大きさの黒衣——迫る死神の如き男の微笑みに、いかつい睨みで応えながらツアレスト王国の将官ギルティアは握る剣の柄を些かとひるがえしてつばを鳴らし、いずれ国に仇名すであろう悪逆の徒たるイミトへと刃の鋭さを煌かせる。


だが、その前に——


「アド姉様を……ガル、アル、メルちゃんを……」


 「返せぇぇぇ——……‼」


「——……【飢歯きば】」


為すべき事後処理が残っていた。イミトの背後で盛り上がった巨大な影の咆哮、しかしイミトは振り返る事も無く残されていた雑務を早々に片づけるように言葉を一つ呟くのみでそれを処理するに至る。


「っ……イミト‼」


彼の背後で盛り上がった巨体を喰らう巨大な骸骨の頭部。すれば何事も無かったかのように事は運び、ギルティアの背後で静観を続けていた若き騎士が無情なイミトの行動に対して批判混じりに彼の名を呼んだ。


さもすれば、それ以上——人の道から外れないでくれと祈るような叫びだったのかもしれない。


「——あのまま、次の場所に移動しても良かったんだけどな。と、まぁ一時的とはいえ、一緒に戦ったアンタらにくらいはと思ってな」


けれどイミトはそんな若き騎士の叫びに耳を貸さぬまま、役目を終えて溶けていく骸骨の頭部から溢れる黒い濁流に手をかざし、流れに手を突っ込んで黒く淀んだ魔石を一つ濁流の中から引き摺り出して話を一方的に進めるばかり。


そして——全ての作業を終えて、彼は親しげに言った。


「そんな困った顔すんなよアディ。たかが魔物が何匹か死んだだけだろ?」


歩むのは己であって、お前では無い。他が抱えてるかもしれぬ痛みを勝手に想像し、さも己の痛みのように過大に評価する物では無いと暗に述べて突き放し進む一幕。


「……そんな顔をしていないのは君だろう、イミ——『』」


しかし全く以って取るに足らない友情劇を繰り広げ始めても可笑しくはない状況も、ある意味で切羽詰まっている大人の焦りと苛立ちを前に風前の灯火となって激しく揺れ動く。


安穏と話していい状況では無い、イミトと親密な雰囲気で融和的な会話を試みようとし続ける若き騎士アディの言葉に剣と共に割って入る熟達の騎士ギルティア・バーニディッシュ。


「我らがデュラハンを見逃したのは貴様を捕らえるを残す為だ。頭目である貴様を仕留めれば、如何な企みであろうが瓦解するが必然——ツアレストの安寧の為、全ての企み……ここで暴かせて貰うぞ」


己の双肩に掛かる、今や罪深き存在と成り果てた怪物に対して目の前で対峙した者としての、ツアレストという数多の臣民が控える国家を守る砦の一角としてのが彼を駆り立てる。


強大な巨悪と成り得る暴力の化身——今しがた目の前で繰り広げられた惨状の後であろうが、彼の矜持は微塵と揺らいでは居ないようで。


たとえ己の命を犠牲にしようとも怪物の足の一房でも捥ぎ取って、これ以上の凶行を止めてみせようという確固たる覚悟と信念が、そこにはあった。


「俺を止めた所で、ツアレストの危機は去らないですよ。それで誰もがにっこり世界が平和になるんなら、俺だって何処ぞの森で引き篭もって猪肉ししにくとキノコのスープでも煮込んでるって話です」


そして、そのギルティアの覚悟と同じものを彼の背後に居る老兵ラディオッタも滾らせている。抜身の刃三本の輝きは夕木漏れ日に真っ赤に燃えて、対峙するイミトの肩を凝らせていくばかり。


どうしたものかと辟易と吐いた息は重く、掛けられた疑念の払拭を如何に面倒に思っているかを匂わせるイミト。


それでも、イミトは彼らに敵意を向けなかった。


たばかるな‼ 貴様が用いた骨の力、アレは封印されていた魔王の力‼ 貴様は我々を謀り、罪を他になすり付けた挙句、魔王石の力を我が物とした、違うか‼」


ギルティアが解き放ち続ける熱意も虚しく、温度が変わらぬイミトの態度。風に揺れているのか、それとも力を制御される抑圧を嫌って暴れているのか分からぬボロボロの布切れのようでもある黒衣の揺らぎ。


口元を隠すように僅かに俯き、彼は黒衣の端を指でつまんで少しだけ持ち上げる。


「……俺はアナタが好きですよ。そんな決めつけにも等しい様子で疑いを抱きつつ、まだ話を聞こうとするアナタが」


小馬鹿にしていると感じさせたくはなかった。恐らくと如何な弁明も無意味であるのだろうという諦観の最中、それでも希望があるのではないかと思わせてくる公平にして厳格なギルティアの風格を称え、彼は敢えて口角の持ち上がる口元を隠したに違いない。


そして再びと一息、瞼を閉じる事も併せて呼吸と表情を整える。


「残念ながら否定する証拠を持ちません。語れるのは後の結果のみ、以前お話させて頂いた通り、いずれロナスの街に失われた魔王石が戻る。それだけです」


冷静に、精悍せいかんに努めよう。ギルティアに対する礼節を保ちつつ、己の意志に反して鋭さを作り上げようと、にわかに激しく蠢き始める周囲の黒衣を掴み抑えつける密やかな動き。


「……大人しく回収したバジリスクの魔石と貴様自身の身柄を引き渡す気は無いか」


 「勲章が欲しいなら街に戻って職人に作ってもらってください」


ギルティアの剥き出しの威嚇に反応する黒衣を握りながら、時の目減りに僅かに頬を流れていく気がする冷や汗。


今か今かと戦いを欲していたような剣たちの輝きが、待ちくたびれたかのように暖色を失い始めて黄昏の終わりを容易く想起させる。


暗い昏い森が、夜に沈んでいく。もうじきに、黒衣すらも判別できぬ程の黒き夜が来る。


だが、その時だった。


「何が目的だ……仮に魔王石の力を用いていないとして、貴様は何故にバジリスクと相対し、倒した敵の魔石を集めている。魔の力を集め、貴様はこの先でのだ‼」


遠方より火薬が弾けるような発砲音が響き、まるで太陽を裂かせるような軽い爆発音が世界に続いて響く。弾けたのは眩く世界を照らす白い光、人が創り出したと人ならば分かるような照明の


来る筈だった夜が一転と退しりぞけられて、周囲の森を含めたイミトらにも光が差すように降り注がれる。


「——……無粋な光だ。折角の夕焼けを台無しにして」


けれど、所詮は人が作った疑似太陽。自分たちに都合よく事を進める為だけの偽善、綺麗事。影が際立つ紛らせの光。


一気に明るくなった空を見上げて見たものの、森の天井から垣間見える白光に心惹かれる素養は無い。イミトにとっては黒衣と化している悍ましい怨讐たちの感情を逆撫でさせるような不都合なものでしかなく。


「答えろ‼ イミト・デュラニウス‼」


よくよくと耳を澄ませば、遠方より敵を欲して迫る軍勢の足音の群れが僅かに大地を揺らしても居て、答えを急かすギルティアの怒号の様相も相まって語らえる時間もそう多くは無いのだろう。



「何百回と聞かれようと、俺は俺の平穏の為に生きているだけだってのに。逆に問いましょうか、なぜを渡さねばならないんですか? 魔石を集めて、どう為されるおつもりで?」


無論、当然とギルティアらと敵対するつもりが無ければの話でもあるが。しかしギルティアに突きつけられた問いの答えに波及する事柄の事を考えれば、そうも行かないのがイミトの事情。


「問いを問いで返すな‼ 聞かれた事の答えだけ述べよ‼」


黒き翼は開かれる。果たしてその翼に、飛翔する力が在るか否かは置いておいて威嚇の意義は存分に有るのだろう。


「前提なき回答に、説得力などありようがない。大義や正義を宣って説明を求めるならば尚更、自らの潔癖を証明する手間を省くべきではない。ギルティア卿……ツアレストの危機。それをもたらすのは俺じゃないし、他の勢力でも無い、ツアレスト自身かもしれませんよ。これはです」


仰々しく黒き翼を広げた際に無数に舞い散る羽根が、攻撃への牽制か逃走の手段かはギルティアらの視点から見れば不透明——イミトの一挙手一投足に増々と強まる警戒感、容易くイミトの今後の行動を断じて彼を捕らえる為に動く事も出来ないだろう。


そうして彼は去る。自らに掛る嫌疑を晴らす事も無く。

次々と堕ちて来る黒き羽根の、揺り籠の如き動きで翻弄させながら小さく嗤って去っていく。


「悪い者ばかりが世の中を悪くする訳じゃない」


 「例えば、アナタの正義がそうであるように」


その言葉を紡ぐ声には、不思議な響き——僅かな名残惜しさと共に確信めいた凶兆が確かに込められていた。


——。

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