第137話 魔女の虚空。2/4


 激しく水流に押される水車の様相で、或いは風車の如く彼女のめくりめく視界のように世界は回る——襲い来る轟炎の灯が背後にある氷壁に押し寄せて、燃え盛る飛沫しぶきを解き放つ中で煮立つ蒸気が憎しみを以て炎の勢いを殺す音響を放った。


放射される炎から生じた視認できぬ熱で溶けた吹雪の積み重ねが森の地に吸われ、更には熱で炙られた腐葉土が湿った臭いを増々と膨らませる。


そして着地の際に飛び散る水気の多い泥とも言える土砂や木の葉は、あたかも彼女の被る漆黒の仮面の下から流れる汗に成り済ましての清まし顔。



「っ——大丈夫なのか、ユカリ——何か異変が」


それでも、そんな些末な汚れの嫌がらせに気を取られている余裕はカトレアには無く、着地したその瞬間から自らの体を回していた剣を握り直し、刃先を敵が佇む方向に向けて追撃に警戒を巡らして。



『別に……アンタが気にする程の事は無いピョン。黙って、あのガキの相手でも……しとくピョンよ』


「…。もう時間が無いという事ですか」


赤紫に変色し、痙攣けいれんする左腕に生える本来の彼女の物では無い兎の体毛が——他者からは視認し辛くはあるが、まるで毛一本一本が意思を持つかの如く小さく蠢き、成長を続ける。


徐々に違和感から始まっていた感覚も、いつしかと感じなくなり握っているか否かすらも曖昧あいまいに感じて痛覚が消え失せ始めている事を自覚するカトレアであって。


——けれども剣は確かに握り締められた。


「すまないユカリ。もう少し耐えてくれ……直ぐに片づけて、イミト殿の下へ」


『……』


頬を伝う汗も、胸の——彼女が潜む位置から直ぐ隣の心臓の鼓動も、脈々と伝わって——


「——本当に面倒‼【炎蛇連舞エルデュラ・プロテット‼】」


「【睡蓮アルノレス・レコッタい‼】」


うなむちの如きほむらが赤蛇の少女の姿をした敵から放たれて、それに立ち向かうべく猛烈な水流のように腕をしならせる幾重の剣撃にきしむ骨と千切れていく筋肉繊維の感触も音が聞こえる程に身近に感じてしまう。



『……ひとつ、名案があるピョン』


故に徐、苦痛に脂汗を滲ませるような声色で、或いは朦朧と襲い来る睡魔に意識をかすませるような不甲斐なさで、それでも神妙に、或いは自慢げに彼女は妙案だと言葉を紡ごうとするのだ。


だが、けれど、しかし——


‼ 言葉など無くとも、馬鹿な私でも、今のアナタが考えそうな事は分かる‼」


『……』


掲げられようとした提案は二つ返事で敵の炎の無知と共に憤怒の蒸気を放ちながら切り裂かれる。

振り返る事も無く、省みる事も無く、ただ真っ直ぐに未来を見据える強い眼差しを白い角の生えた漆黒の仮面の裏でたぎらせて、背中にすがり付いて来るような心を抱き寄せるカトレアの咆哮は、この時——森の何処にまで響き渡ったであろうか。



「もう戦わなくてもいい、ただ私の中に居る事だけを考えろ‼ アナタを、私がアナタを救う術を見つけるまで‼」


赤い炎と蒼き水が入れ代わり立ち代わりと踊る中で、周囲で踊らされて軋む白銀の森は、もう止めてくれと泣き叫び、或いは啜り泣くように積雪を枝から堕とし、許容量を超えた水滴を溢す氷柱を数多と各々と枝下に作り出そうとしていた。


それでも——


「誰と話してるって、気持ち悪い‼」


 「だと——言っただろう、バジリスク‼」


止まらない。止まらない。たとえ幾本の樹木が倒れようと、蒸気に煽られ、せ返るような腐葉土の薫りが巻き上がろうと——向けられる嫌悪や、誇り高い矜持や信念が揺らぐ事は無い。


『……そういう臭いセリフは、好きな男にでも言ってやれ、ピョン——‼』


間に挟まる彼女が辟易と——冷気と熱気の入り混じり刹那の状況で、やがて世界が何事も無く調和していくように平熱に戻る事を見据えた声色で彼女の体を炎水の演舞の隙を伺って無理矢理にと動かす。


兎の短い体毛の生え揃う赤黒く腫れた手が向かうのは、

そこに秘められた命。


だが、それを彼女がみすみすと見逃すはずもない。

己の体でもあるのだから。


「——惚れた男はとも、他の女に夢中なのでな——‼」


襲い来る鞭の如き炎の群れを盛大に水を纏う剣で退けたのも束の間、次の連撃が波寄せてきているにもかかわらず唐突に空へと向けて何故か剣を軽く手放し、自身の胸を自身の意思を介さずにまさぐろうとする赤黒い左腕を押さえつけた。


‼」


そして彼女は手放した首を回し、体を回し、鞭の如く掛ける炎の攻撃を剣から溢れる水流の圧で尚も押し退けながら、或いは炎を浴びる事も厭わずに突進し、やがて剣の刃は宙に浮く敵の首元に届く。



「——。口に咥えて剣を振っても私を斬れるわけないじゃん。もう死ねよ、ウザイから」


されどまぁ、重さで断ち切る形状の剣は充分に力の入らぬままに振られても、なんの恐れも無く首で刃を受け止めた赤蛇の少女の言い分も間違いはない。


しかし、だ。


何の脅威も無いからと敵に首元を晒して近づけさせるのは些かと慢心が過ぎるのではなかろうか。


「殺させて、堪るものか‼」


 「——え?」


肉が焼けた後のような肌に油が吸い付くような感覚が僅かにくゆる中で、それでも尚と噛んでいたつかを離し、胸で抑えつけていた赤黒く腫れる掌を腰裏の鞄に突っ込ませてカトレアは叫ぶ。


そして肉を貫く感触と共に、或いは貫かれる感触と共に、その光景は理解が及ばぬままに進む。


——私のような馬鹿者に、感謝致します叔父様」


 「熱っ⁉ 水が——傷口からピァアアアア⁉」


赤蛇の少女エルメラの眼球に突き刺さる蒼白い輝きを帯びるその短剣は、噴き出ると思われる魔物の黒き血潮を押し退けて噴き出るのは麗しき水流。燃え盛る炎の蛇が皮肉な事に、まるでかれるが如く——短剣から高圧で噴射される特殊な水流は穢れを押し流し、中和する作用で赤蛇の少女エルメラの短剣が突き刺さった瞳から猛烈な白い煙と蒸気も吹き荒れた。


不意を突かれた少女の悲鳴は、はてさてと森の何処にまで響いた事であろう。



「諦めるな——イミト殿は、。忌々しいが、殿で創られたが存在している事が何よりの証拠だ‼」


「通りすがりの出会いだったかもしれんが、それでも——私と共に生きろユカリ‼ 私の友で居てくれ、‼」


『……』


決死の覚悟で不意を突き、生を掴み取ろうとするカトレアの決意は、はてさてと森の何処まで響いた事であろう。

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