愚鈍編

第130話 意味も無き爪痕。1/4


背景は白く、しかし相も変わらず姿だけは明瞭に見えている。風の音も気配もない、ただ静寂ばかり燃え尽きゆく世界。


「——何故に溢すか、ミリス。貴様のお気に入りは確かな勝利を得たろうに。その一筋は嬉しさでは無いように見えるが」


その空間で巨躯に合わぬ椅子に座りて腕を組む豪快な佇まいの男は隣に座しながら目を拭う動作を密やかに行って居た貴婦人に横目を移し、出来得る限り無機質に問い掛けた。


すれば然して鼻を啜る様子もなく、無意識に頬に零れていた汗を拭き終えただけのような平常な声色で彼女は言葉を返すのだ。


「私は常に等しく子らを見ているの。それに、勝利の定義は人ぞれぞれ——あの子は、また負けたの。負け続けているのよ……勝者など居ない。だからこそ、心苦しい」


涙など溢していないと気丈に振る舞うように穏やかに微笑み、女神の慈悲は未だ世界の全てに注がれているのは揺るがない。


「……貴様の涙など久しく見た。すまんな、あまり茶化す物では無かったか」


そんな女神の細やかなたばかりに、豪気な男神は目を瞑るが如く普段よりも神妙に瞼を閉じて思わしげに言葉を紡ぐ。片手に持つ絢爛けんらんに装飾されたガラスのさかずきの中で揺らぐ酒、心の波間——いと切実に謝意を込めて、四つ横並ぶ椅子の事など気にも留めずに交わした会話。


「気にしなくても良いわ。私は少し——席を外します、生じてしまったの調整をしなくては」


女神ミリスは椅子から立ち上がり、ふっと微笑みを返しながら身なりを少し整える。


その最中、


「……ふん。あのような——奪えば苦労も無かろうに」


男神ディファエルの隣から杖を突き直す音と共に老人の、しゃがれた声色が怪訝に嘆く。余の不満を吐露するが如き愚痴の様相で、恨みがましい鋭く、厳格な眼差しは老人のが滲んで。


しかしすかさずと更なる隣、


「クスクスks……安直だね、相変わらずのギリク爺さんだ。そんなの退屈極まって欠伸あくびが出るって」


事細かい神経質な老人な物言いを茶化すように、或いは老人の愚痴の矛先をあわれんだが如く軽快で後ろ頭に両手を回す少年の指摘。対照的な二人の神もまた、ディファエルとミリスの会話の終わり際を見計らった様子で話に参入するに至るのだ。


話の主導を握ったのは最後に言葉を重ねた、この中で最も若いと評せる身なり風体をした少年神。


名を、スペヴィアという。


「それに——アレ自体を優遇された力というのはさ、流石に難易度が尋常じゃないでしょ。裏技チートはあったにせよ、ボタン一つで出来る事じゃないさ……犠牲あっての代物だ」


睨みを効かす隣の老人神ギリクを尻目に後ろ頭に回していた手を解いて、やや前傾の姿勢に移り変わる最中に見据えるのは何処とも分からぬ世界の一幕。


少年らしからぬと言えば些かと語弊があるが、配慮に満ちた慈悲深き面差しと、警戒から一転した深みのあるその声色は、この時のスペヴィアの情感を如実に表していた。


——ただ、感嘆。


「「「……」」」


他の神々に共感を呼び、黙させるほどの意味深げな物言い、たった今しがた起きた奇跡にも等しい事象を思い出して、更にその奥の代価代償を重んじる。


それ程の事が、起きていた。

起こされてしまったのだと、考えるべきだと宣うような口振り。


非難にせよ、称賛にせよ——ギリクが溢した愚痴などにかまけている場合ではないのだとスペヴィアは言いたいようであったのである。



こうして、話は戻る。


その皮切りに豪気な男神、ディファエルの指が顔の辺りまで掲げられ擦り合う指が盛大に音を鳴らした。


「——ともかく、戦いは続く。儂の天使は魔王諸共に脱落しよったが、もう暫し見届けさせて貰おうか。酒も飲み直すとしよう——乾杯くらい貴様も付き合え、ミリス。びの地酒よ」


背景は白く、姿だけが明瞭に見える途方もなく遮蔽など存在しない広い空間——音の反響は無く、しかしそれでも動きはある。


指を鳴らしたディファエルの背後で、指示を待っていたかの如く唐突に現れたのは、酒を飲まぬ者が阿呆と宣うに躊躇ためらわぬ酒狂いの産物か——巨大すぎる酒瓶、それが傾き——共に現れる赤い漆塗りの盃に丁寧に酒を注ぎ始めて。


かと言って盃から溢れ零れなかった訳ではないが、こぼれたしずくは重力など存在しないかの如く球状に浮いてディファエルの口元に運ばれ、味見がてらに喰らわれる。


「ふふ……侘びの酒より、祝いの酒を頂きたい所ね。ディファエル」


するとディファエルの無作法とも言える天衣無縫の豪快さに微笑みを贈りつつ、冗談交じりに言葉を返し、そして注ぎ終わった酒の入った盃を両手で丁寧に受け取ったのは女神ミリス。


「ん……ふん、子らに祝福を。いずれ来るであろう魂嵐の過ぎたる安寧を願いて」


そんな女神の——些細なワガママに、まんざらでも無く鼻で笑い返すディファエルもまた、自身の分の酒を手に取り、これ見よがしに掲げて魅せて。まるで泡沫うたかたの夢の中で舞う蝶に見惚れた己を嗤うように瞼を閉じて、些かとぶっきらぼうに笑うのである。


だが、一人で見る夢も寂しかろうか。


「貴様らも、たまにはどうだ。酒はおろか、祝詞のりとも久しく唱えておらんのだろう」


或いは滑稽を己一人で被るのも苦痛かと、彼なりの祝詞を唱えた直ぐ後に願いを叶えた女神の顔を見る前に、サラリと横目で隣の席の者たちへと彼は勧めた。


巨大な酒瓶から注がれる酒を受け止めるべく宙に浮く盃も、いつしかと二つ三つと増え——さもすれば、死なば諸共の勢いで器を満たしていくといった佇まい。


けれども、怪訝に眉をひそめた——あからさまに不機嫌を気配で語る老人がそれを受け取るであろうか。


「……要らぬ。まだ俺は貴様らの規約違反に納得しておらんのでな。祝詞を唱える気にも成らん、俺の言は貴様ら程に安くは無いわ」


答えは否であった。八つ当たりに椅子の前に突く杖を改めて突き直し、捨て台詞の如く斜め下に振って言い放つ。近寄って来ていた盃も言わずもがな、手ではえでも払うように見もせずに。


一方、その老人神とは様々な意味で対照的な少年神はと言えば——


「クスクスks——良く言うよ。でも僕もジュースで良いかな? 酔うと後でやろうと思ってる子供たちが作ったゲームのエイムが狂うからさ」


対照的ではありながら対照的な否定で和やかに嘲笑じみて見えてしまう笑顔で老人神ギリクと同じく軽く手を振ってディファエルのしゃくを拒む。


しかし少年神スペヴィアはギリクとは違い、手を振って酌を拒んだ後で己も指を鳴らして蓋ストロー付きのタンブラーのようなコップを一つ呼び出して盃の代わりとするのだ。


「でも愉快なノリは好きだからね——子らに道楽と愉快な物語があらん事をってさ」



「「「乾杯」」」


こうして、鳴り響くのは三つの祝杯。その神々の祝詞を唱えさせたのは、一人の男の細やかな犠牲が生んだというであったという。



——そこから時を僅かにさかのぼり、彼は呪っていた。


さもすれば違う未来があったのか、滅びゆく肉体が剥がれ消え失せていく感覚を——時間から真っ先に吹き飛ばされたような状態を永劫に感じながら彼の王は呪っていた。


刹那であるはずの、刹那であるべきはずの終末が、ゆたりと赤子の歩みのように訪れてくる。


何故に、何故に。

死の自覚を抱きながら見上げさせ続けられる——もはや光なき天を呪う。


恨みは無いのだろう、されども些か物足りなくもあって。

最後に見た男の顔も、或いはそうだった。


何故に、何故に。


「イミトよ——次に巡り合うのは、いつになろうか。その時も貴様は、答えを持たぬのであろうな。しかし——それでも貴様は……余の前にまた、懲りず再びと立ちはだかってくれるのだろう」


何故に、何故に。


絶望の王は問い、何処か清々しく世と彼を呪う。

それが、本来であれば誰も知り得ない——彼だけが存在する時間軸における一つの結末であった。

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