熱狂編

第120話 静の思惑。1/4


 その激動の一日の始まりは、朝焼けの光景と見聞きして容易たやすく思い浮かぶ絵に描いたような静やかさであったという。まるで何も変わらぬ日常のような——しかし確実に滅びへと時の針を進めているような白日の色合いがにじむ。


「カトレアさん、体の調子はどうだよ」


湿原の湿しめり気が侵食する大地の境界、暫くと長い時が流れゆくだけで人や獣すらも踏み入った形跡の無い波打つような草原の小高い丘の斜面の岩場にて、白黒の髪を頂く青年イミトは片膝を立てながら岩の上に腰を落としつつ、時を経る事に見る見ると紺碧を切り裂いていくのだろう朝日の予感と闇深い森の入り口を見下げながらにかたわらの騎士に問うた。


「……調は問題ありません。問題があったとしても、アナタに私を止める資格はありませんが」


美しき銀髪が後頭部で馬の尾の如く纏められる裏で漆黒の仮面が朝の先兵の如き光の粒子をこばむ中、唇に短時間だけ預ける心積もりでくわえた髪紐を約束通りに指を使って取り戻し、女騎士カトレアは静かに睨むように傍らのイミトへと言葉を返す。


閉じられていた仮面の裏の蒼い瞳は、確固たる決意で朝焼けより一足早く燃えているようで。



「へっ、そいつぁ上々——置いてけぼりにされてゴール手前で情けなさに涙する運動会の小学生にならない事を祈るばかりだよ」


それでも比喩と、燃えぬ瞳に熱など感じる訳も無いと青年は相も変わらずといった佇まいで女騎士カトレアの皮肉を鼻で笑い飛ばしながら嫌な味のする言葉をひとつまみと世に溢すばかり。


——まだ、時ではない。


「言っている意味が分かりません」


待ち切れぬのか、或いは時が来る事を恐れているのか女騎士の腰に帯びられる剣の鍔が音を立てる。振り返るかかと、ここから先——延々と続くであろう未だ遠目に見える深く広大な地平まで繋がる森の入り口を背に、カトレアが問うのは何に意味も無いのであろう嫌味な発言の意味か。



「エリート貴族のメダカの学校にゃ、マラソン大会が嫌過ぎて情けなさに泣き喚くデブは居なかったかい。才能に恵まれた頑張り屋が勢ぞろいって自慢かね、世の中この先、明るいったらない」


「……まだ私は、納得していないんですが」


或いは——、長き旅を振り返り辿ってきた足跡の違和感。のらりくらりと、あわや転ぶかとフラリふらふらと動く玉乗り道化の如き飄々ひょうひょうとした青年イミトからの薄ら笑いにも似た眼差しを、鉄剣で弾くが如き視線を動かすカトレアである。


彼女にはがあったのだ。


「ツアレストとのの事か? それともアンタが弱ってる間に他の女にかまけて添い寝してやらなかった事か? 納得が行ってない部分ってのは具体的に何処だよ」


彼女が病に伏しておぼろげな意識の最中に過ぎ去った空白の期間に行われた会談が、彼女にとって不本意な結果と主張される。


されども当の会談の行く末を左右した男は、さも当たり前の結果であったように彼女にうそぶくのだ。


まるで何を疑問に思い、何をいきどおっているのか理解出来ぬと言わんばかりの白々しい素知らぬ顔で茶化しながら。



「決して、はアナタ方にとって悪い物では無かったはずだ。ジャダの滝での戦い以降もツアレストと綿密めんみつな協力体制を敷く事に何の異議があるのか私は問いたい」


「別に何の異議も脈絡もねぇよ。それに関しては気分の問題で、何となくアイツが嫌いだなぁって思ったから提案を蹴っただけで」


過ぎ去った会談を結果論でいさかう二人の影が昇る朝日に濃く際立ち始める情景、今さら悔いても戻らぬ過去と——立ち会えなかった己の責任もあると理解しつつも、本来であれば国に仕える女騎士カトレアはイミトの回答に仮面の裏に隠された眉根をしかめる。



「そんな子供みたいな理屈で——いえ、アナタの事だ。何かしら深い思慮を隠していると願いたいのですが」


されど割かしと短気との通説がある彼女がイミトの一国の王子に対する不敬に激昂しなかったのは、道化の化粧けわいのような飄々ひょうひょうとしたイミトの表情の裏に様々な思惑があるとの確信があったからであろうか。


例えば、相手を怒らせて話題を逸らし、有耶無耶に本題の本質を流してしまおうなどという策謀など、これまで彼女が容易く引っ掛かってきた経験が今、辟易と彼女の喉に怒りと共に込み上がる息を抑えさせてユルリと重く溢させたに相違ない。



ねぇ……オーケイ、じゃあか」


現に、胸ぐらを掴みかかられなかった自他ともに認める程に悪辣な性格を持つイミトが、そんなカトレアの対応に面倒げな息を吐き、小首を傾げながら朝に焼かれ始める明星みょうじょうに目を向けたのも、適切な対応であった証左であったのかもしれない。


そしてイミトは、今後も詳細な出来事を語る事は無い数日前の会談の結末について想いを馳せて語りゆく。



「まず今日から始まるジャダの滝での戦い以降、ツアレストと手を結ぶ事で俺達が得るだろうってのは何だろう」


まず初めに取り掛かるのは、について。南の途方もない森の向こうから流れる冷たい風を感じつつ、岩の上から立ち上がりつつ彼は説くように、或いは解かせる為に問う口調。



「……国の後ろ盾を得る事で、今後の動きが容易くなり、得られる情報の質もそれなりの物になる。金銭面や生活面では言わずもがなです」



「つまりそれは、今後の俺達の行動をえさで釣って制限したり誘導したり、になるって事だ。ツアレスト側のメリットのが大きいな、それ……ツアレストの国土は野生の資源が豊富で広い土地だし、金銭面は元々、表立ってじゃないなら関係も無い。生活面で援助を受ける程に致命的に生活力も無い訳じゃないからな」


黒い布地越しとはいえ尻に敷いた岩の復讐か細やかな抵抗か、この時の為と積んだ塵芥ちりあくたでイミトの服を汚すが、軽々と手でかれて何事も無かった様子で時を進ませられる哀れ。


——男は、悪魔のようであった。


「……ツアレストと我々が争う事は不毛です。口裏を合わせる事で、不要な誤解や争いを避ける事が出来る。連携が取れれば、優先すべき敵を追い詰めるのも容易いはずだ」


「——例えば、国防上で大きな抑止力的な意味を持つ鎧聖女との戦いを避けられたり、リオネル聖教とツアレストの内部の何処に潜んでいるかも分からない内通者に誤解を与える事も無くなる訳だ。だな」


「……」


邪知でありながら暴虐に甘んじ、何者をも容易に信じず、朝の光が薄らと満ち始めて世界の姿が露になる最中に浮かべる薄ら笑いは、常に人世の光通らぬ影の暗がりを想起させてくる。



「これまでの実績、世間様に名が売れているのは鎧聖女メイティクス・バーティガル。それを失う意味をツアレストの姫君の護衛騎士だったカトレア・バーニディッシュ殿は国防上どう考える?」


「実は鎧聖女は半人半魔の怪物で、ツアレストの国家転覆を狙う勢力の一員でした。そう民衆に説明する意味と、それに対する反応を……どう考える?」


青年真っ盛りの若さながらにと言わんばかりのウンザリとした面立ちで、国に仕えるカトレアに対して現状の己らを含めた世の流れを説こうとするイミト。



彼は相も変わらず——、ひとつひとつと希望を摘んでいく悪魔にとても、よく似ていた。

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