第118話 月は何事も無いように。4/4


***


そして月は、何も責めずに輝いていた。

相も変わらず月のまばゆさに押し退けられた星々の哀愁が滲む夜の静寂、湿原に吹く風は些かと寒々しく。



「ずいぶんと、素直に語ってくれるじゃねぇか。嬉しい限りだけどな」


しかし風が冷たく感じるのは彼の掌に溢れんばかりの湯気がくゆるから。両手に熱を通さぬ黒い篭手こてよそおい、黒い布地で布に包まれた何かを絞り白い液体を黒い器に落とし込んでいく。


豆腐を作っていた。


そのもととなる豆乳が今、ようやく完成へと至って布地の包みの中に残りカスであるオカラだけを残してゆく。



『何の事は無い気まぐれに相違ない、貴様と旅に出た時と同じようなものだ』


「——守ってくれよ、約束。俺ぁ、約束を守らねぇ奴は大っ嫌いだからさ」


残る豆腐作りの工程は繊細な作業が幾許いくばくか、それを前にして豆腐作りに挑む男は、あたかも戦地に向かう面立ちで心の中で会話するなどという奇行を続け、一段落に肩を落としながら遠い彼女へと冗談交じりの笑みを零すのだ。



『ふん。貴様に嫌われる方法がそれであるなら、これほどもあるまいよ』


対する彼女も辟易と、相も変らぬと辟易と息を溢す様に言葉を返して。



「……お前が泣き叫びながら嫌いと言えるなら、俺もお前を想って何処かに行くさ。嫌いって、言ってくれるのか?」


すれば彼は絞り出した豆乳を新たな鍋に移し替え、僅かに世侘よわびの如き火を灯す。まだ温かい豆乳がもう少しだけ熱を帯びれば、傍らに置いてあるにがりの代用に塩を入れて、化学ばけがくの如く水と物体をかしていくのだろう。



『……くだらぬ。誰が泣きなぞするものか、後者を貴様が聞きたいのならば今すぐにでも言ってやろうか。それに我がそう言わずとも、貴様は今宵のように勝手に思い悩んで我らから離れていくのであろう』


両手に塗れる白の残り湯と茹でられた豆の薫りを嫌うように黒き鎧の篭手を外し、彼女に触れる掌を入念に真白の貴重な布巾で拭い清めて、近場の水筒から水を垂れ流して更なる手洗い。


「へっ、痛いね……痛い所を突いてくれる」


彼は嫌われる事を自覚しながらも彼女との会話を片手間に作業を進めていた。けれど相反するようにも見える確信もあったのだ。


だからこそ、皮肉交じりの薄ら笑いを浮かべつつ、今度の彼は何も悪びれる様子もなく飄々と彼女に告げる。



「ま、俺はお前に約束を守らせて、目にハートマークを浮かばせて大好きって惚れさせるをまだ使ってねぇからな……余裕綽々よゆうしゃくしゃくと、のんびり行かせてもらうとするさ」


何者も、己すらも信じぬと宣う男の確信——性悪な目論見は言葉からも見え透いて。


『……有り得ぬ事を。気色の悪い虚仮脅こけおどしは辞めておけ、貴様ごときに我がそのような醜態を晒すものか。今しがたグチグチと些事に悩みあぐねておった小僧が』


しかし、タカを括っていた。幾つかと彼が思い付きそうな道化の芸を脳裏に巡らせながら、心内で彼と語らう彼女は反吐を吐くように先んじて不快を言い返す。


すれば、思惑通りであったのかもしれない。



「——あるさ。お前だけは離したくねぇから、ずっと考えてた秘策だ。なんなら試しに少しだけ撃ってみようか、今日は月が……良い天気だからな」


冗談めいて額に滲んだ汗を手洗いで使ったばかりの布地で拭い去り、不敵に笑う彼は徐に清々しい表情で阿呆面を浮かべていそうで今にも欠伸あくびでも放ちそうな月を見上げた。



『ほう……貴様はつくづく我の興味を引くのが上手い。ならば魅せてみよ、我の力を用いてなんぞそこらの湿原の一つでも消し飛ばすか』


そして——月光が照らす暗がりの湿原の、黒い厨房を構えている小高い丘を登る足音の要因に目を向けた彼は、溜息を吐くようにカクリとこうべを垂れるのだ。


「ちょうど客が来たから、それでも良いけど——お前の心を撃ち抜くのに、お前の力を使うのは滑稽だろ。俺お得意の、口軽な御言葉ので十分さ」


ふと振り返り、作業途中の名残惜しさをややと噛みしめ、雑草が踏まれてこすれる音に耳を澄ます最中——その来客は首を振り、咥えていた手土産を乱雑に彼の下へと放り捨てる。


「グルるるるるるぅ……」


喉を鳴らす威嚇の呻き、足下にゴロリと転がる別の獣の死骸は、勇猛で雄々しい二本角が折れた形跡のある無惨な首が一つ。


しかし、とても見覚えのあるものだった。


「——血抜きも知らねぇケダモノが、それで飢えてりゃ世話もねぇ……猫は流石に食った事はねぇが——肉食獣は正直、基本的に口に合わねぇんだよな」


『昼に見掛けた魔獣の牛を喰らったか……イミトよ、まさか今の台詞が我を満足させる言の葉ではあるまいな』


——魔獣。魔力に秀でた獣は、世界各地に稀に存在していた。今や無惨な死骸となった牛の群れの長であったも——小高い丘の中腹で怒りに満ちた表情で己の縄張りを主張するような巨大なネコ科の——獅子の如きたてがみを妖しく揺らす獣もまた、そのような自然の摂理が生む魔獣なのであろう。


「当たり前だろ。文脈を読めよ、これから二行でお前を俺から離れられなくさせるから耳かっぽじって聞いとけよクレア・デュラニウス」


されど自然の猛威の一つであろう野生が牙を剥き、睨みつけてくる魔獣に対する恐怖は彼に無い。刺々とげとげしい威嚇の魔力圧を肌で感じながらも微動だにもせず、心内での会話を弾ませるばかりである。


それは——

「——ガラァァアア‼」


夜には似合わぬ獣の、けたたましい咆哮が放たれても変わらなかった。月が良く見える小高い丘の一等地を訳の分からぬ臭いを漂わせながら占拠する男に飛び掛かる獅子に似た魔獣が、先ほどと仕留めたばかりの牛の魔獣のように首を掻き切るべく駆け出して尚も変わらない。


分かっていたのだ。獣の勘で。


「【食卓テーブル・視線マナー】」


「ガ⁉」


決して油断していた訳ではない——男がかもす、ただならぬ気配も足下に広がる違和感も感じ取ってはいたのだ。だが獅子は、それでも幾重にも悪意を持って突き出してくる足下からの檻に追い詰められて、やがて獅子は微塵も体を動かせぬ程に捕らえられる。


男は——、一歩も動きはしなかった。


「あ、今のも違うからな」


『分かっておるわ、さっさと言え馬鹿者』


すべからく、掌の上の児戯——昼日中ひるひなかに見る幻の如く。柱の檻に全ての動きを制止された魔獣は、まさしくはりつけにされた様相で迎えるであろうから逃れようと足掻いていた。


そんな最中に、そんな状況を背景に、月明かりの下で彼は彼女へと告げるのだ。


「へいへい——例えお前が体を取り戻したとしても、


『……——』



「だってお前、俺よりももう——もんな」



ギシギシと獣が暴れてきしむ柱の音を煩わしそうに見上げつつ、贈る告白に皮肉な自信は満ち満ちて。


「【黒砲ブラック・キャノン】」


「ギュギャ——‼」


やっとこさ柱の檻の隙間から顔を出した獣へと掌を魅せつけて放射状に噴き出すような闇にて隠す。


「——……どうだ? 素敵な愛の告白だろ? クレア・デュラニウス」


首など、血飛沫もろともに何処ぞへと消えて——役目を終えて崩れた黒き柱の檻は倒れ落ちる魔獣の肢体を労い撫でるように黒い煙へと回帰する。


そして何の事は無い無情、男は未だ道半ばの作業に戻るべく雑草を踏み越えて静かに歩き出していた。


月と彼女だけが、闇の中で起きた真実を知る。



『……ああ。なるほど、悪くは無い。悪くは無いな……イミト・デュラニウス』


遠く、遠く——同じ空の下の向こうで、途方もない巨大な気配が唐突に膨れ上がり、嵐の到来を告げるように世界に警鐘を鳴らすような風の駆け足、一走り。



——嗤っていた。笑っている。


「そう興奮すんなよ、メインの薫りを嗅がせただけだ。涎を拭いて、まずはオードブルを愉しむ事にしようぜ。他の客に迷惑だろ、御客様」


未来には、暗き物ばかりではない可能性が燦爛さんらんきらめいていると、薄らと月光を遮るべく再び集まる暗雲の脇にて星は輝き——月光が僅かに震えた気がした。



「まずは蛇と神様の盛り合わせからだ。そろそろ使う食材の話をしようか、出来上がる頃には腹が空いて仕方ないくらいに——食前酒として」



『ふふ……良かろう。ゼリーとやらも固まっておるが、このような軟弱なデザートではどのみち腹の足しにもならんからな。貴様の言う……面白い味付けに期待するとしよう』


「天然ものさ……いつだって俺は、素材を活かすだけなんだから」



 「さ、料理の続きと行こうかな。そろそろ豆腐も仕上げが近い」


ただ——回る世界で役目を与えられてそこにあるだけの月は、やはり何事も無いようにそこで輝いている事しか出来ない。


時が満ちて己が主役と誇らしく輝いていたはずの満月は、今や虚しく嘆きを叫んでいるようにすら思え、悪寒が走るような感情のうごめく物語を見させられ続けていくばかりの囚人でしかないのだろう。


少なくとも、すい無粋ぶすいも己で決める彼らにとっては。


——。


断頭台のデュラハン11

【悪寒編】


~風のはやりと煩悩の魔人~ 完。

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