第117話 或いは月が喰らっているのか。1/4
話の区切りに——或いは踏み出した会話の助走に、パチリと焚火の薪が音を立てた気がした。
「マリッジブルーって言葉を知ってるか? 人間が夫婦になる時に、新婦が
やがて閉じられた瞼が開かれて、視界に映る世界は暗黒に満ち満ちていた。地面に突き刺さる枝に吊るされた魔石照明の灯りに当てられる湿原の小高い丘以外、世界が闇に食われてしまったような光景の中で、徐にイミトは隣で静寂に酒を
「ふぅ……いや、知らんな。察するに、そのような状態に貴殿が陥っているという話か」
酒の
「まぁ、きっと似たような感じなのかも知らねぇ。我ながら気持ち悪い話だ……まだ抱けてもねぇ上に、たった一回……抱いた所で結婚して夫婦にならなきゃなんて決め事の固定観念に囚われて色々と考え悩んでいるとかな。馬鹿馬鹿しいったらねぇよ」
今も尚と月の光を奪い去っている厚き暗雲ではあるが、喰らい尽くせぬ光が零れて縁取られた雲の端をリクライニングな椅子の肘掛に頬杖を突いて視線でなぞる。
まだまだと長い夜に有り余る時を感じての暇潰し——されど些か、頬杖に
「……ふむ。人の心か——貴殿の産まれた世は夫婦一対が社会の常識であったようだ、染みついた倫理観に相違はあるまい」
「ん。くだらねぇ呪いだよ……けど、平等なんて有り得ない話だって信じれば、平等じゃないからって適当な法秩序、道徳で誤魔化しで不要な
魚を肴とし、時折と
「とはいえだ……そんな前置きを置いといて、単純に俺は怖いんだと思う。今の自分の……先行きって奴が見えない現状を考えれば尚更な」
ふと振り返る背後の闇、背中から刺されやしまいかと嗤いながら安堵の息を無理矢理と吐いて椅子の背もたれに再びと自重を掛ける。
「——ふっ、ずいぶんと開けっぴろげに語るものよ。その見えぬ先行きの不安の種が真横に
すればその冗談めいた言い回しを愛らしげに笑いつつ、ガラルは飲んだばかりの黒い器を口から離したままの状態で僅かに手首と共に傾けたまま、横に居る豪胆な
一応——今は戦意が無いとはいえども、彼の者の首を狙うは己も同じ——しかしてそれを分かって居ながらに真横の若者は己の存在を意にも介して居ない様子で他の不穏を杞憂ばかりしている。
そんな態度に、ガラルの胸の内にもあろう矜持や自尊心が
だが——無論と、
「かっ、ヤル気があるなら今からだって『よーい、ドン』は要らねぇぞ。コッチはアンタの尻の下でもう終わらせてるかも知れねぇが」
若者は密やかに鋭く横目を流したガラルと目を合わせるように鼻で嗤いつつも視線を動かし、そして老人の足下に目を僅かに配る。少なくとも、そのイミトの眼差しには酒に酔う老人の
「話、戻して良いか?」
「……うむ。好きにせい、タカを
互いに目で語らった後に飲み物を啜る——牽制し合った僅かにひり付く一幕は、取り敢えずと無事に互いの瞼と共に幕を下ろして横並びの椅子が向く闇の中へと再び視線は戻されゆく。
そして——月光を奪われた夜に相応しい陰鬱な話も変わらずに続いた。
「俺も正確な知識じゃないから正しくないかも知れねぇけどマリッジブルーってのは、結婚っていう人生における重要な選択を前に、本当に間違っていないかって迷う事が原因なんだと思う。相手への不信感とか、子育てとか周りからの視線、これから起こり得る環境の変化とかか割合として大きいんじゃねぇかとガキなりに察する訳だ」
「俺みたいなもんが言うのも何だけど、人生ってのは一回きりが当たり前だからな。誰だって間違いたくはないもんだ」
月の演舞を奪われて、何処か物寂しげな夜の一間——
「俺は——たぶん、格好つけて言うけどさ。俺は、アイツらに間違って欲しくないんだよ。後悔されたくねぇんだ、呆れられたくねぇし、失望されたくねぇ。勿論、逆もまた然りでもあって」
「……」
あまりお行儀が良いとは言えない
「性欲こそ満たせやしないけど今の環境が、あまりにも心地よくてな。ホントに大した事のない事で一目置かれて、たまたま上手く事が運んで尊敬みたいな眼差しで見られて、頼りにされてるって実感がある」
「でもその実、疑心暗鬼で不安に震えているだけのロクでもない人間なんだ……無神経な所もあるって自覚してるし、世の中に革命を起こせるような圧倒的な才能に溢れた人間でもない、小賢しい小器用さで誤魔化してるだけ」
それから安穏とした雰囲気で過去を思い返しては、ふっと微笑み
啜られる紅茶——そんな彼の横顔に、ガラルもまた二杯目の酒を一気に飲み干した。
「——己に自信が無いと? 我らや世界を相手に見事に立ち回り、騒乱の中心とも言える貴殿がその発言——
やがてイミトが酒瓶に気を回すのを今度は先んじて掌の身振りで制止しながら、これ以上の世話は余計と暗に示しながら手酌にて三杯目の酒を己の手で注ぎて問いと、これまでの感想をツケ勘定を払うが如く一つ。
「そう思わせねぇと、コッチの不利が補えないからだよ……面倒くせぇ身の丈に合わない事ばっかさせやがる」
すれば一休み、互いに再びと状況は落ち着き——けれどガラルの酒を注ぐ為に僅かに身を起こしたイミトの体は勢いを持て余し、先ほどから時折と嘶く焚火の相手でもしようかと動き出すのだ。
少し強い風に崩れた積まれた薪火の形を黒い細長い棒で
「それに——戦争みたいに、相手へ口八丁手八丁で喧嘩を吹っ掛けるだけの……やろうと思えば誰でも出来る事で褒められてもよ。女の子一人、家族ひとつ、幸せに出来やしないだろ」
「戦いってのは幸せを守る為の手段であって、幸せを創れるわけじゃねぇんだから。スポンサーよろしくの小綺麗な格闘家なら、いざ知らねぇけど」
度し難い世に悩み、凝り固まった体を屈んでいた体を立ち上がらせるついでに必要以上にグイイと背筋を伸ばそうと、
作業が一つ終われば、また次の作業が待っている——ガラルの視界に映る楽天的に努めようとする彼の背には、そのような哀愁ばかり漂っているようであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます