わたしたちの22秒
松樹凛
第1話
わたしとリコの間には、二十二秒の時差がある。
リコが遅れているのか、わたしの方が進んでいるのかはわからない。わたしと同じ時間を生きている子が多いから、こっちの方が正しい時間だって思いそうになるけれど、それだって絶対とは限らない。あらゆる時間は相対的なのだ。
アインシュタインもそう言った。
たとえば、わたしが教室に入って、窓際の席に座ったリコに「おはよう」って言ったとする。彼女からの「おはよう」が返ってくるのは、きっかり二十二秒後だ。彼女は読んでいた本から顔を上げて、わたしに向かって「おはよう」と言う。まるでたった今、わたしに話しかけられたばかりのように。
そのあとは、こんな感じで会話が続く。
「ねえ、卒業文集の作文、もう書いた?」
二十二秒経過。
「え? 今日が締め切りなんだっけ。やだ。全然考えてないよ」
「ううん。締め切りは来週。何書くのかなと思って。リコ、作文得意だし」
二十二秒経過。
「わかんない。〈十年後のわたしへ〉なんてさ。せめて五年後ならいいのに」
「何で五年後?」
二十二秒経過。
「だって、五年後なら十七歳でしょ。それなら高校生だし、想像しやすいじゃん。でも、二十二歳の自分なんて、何やってるんだかさっぱりわかんないよ。死んでるかも」
「さすがに生きてると思うけど」とわたしは笑う。「でも、死んでるなら書きやすいかも。それでいこうかな。ああ、わが魂よ、安らかに眠りたまえ、とか」
それからきっかり二十二秒後に、わたしの言葉を聞いたリコが笑いだす。薄いグレーのカーディガンにつつまれた肩をふるわせて。
彼女とのおしゃべりは、とても楽しい。
ただ一つの問題は、時間がかかりすぎるせいで、あっという間に休み時間が終わってしまうということだ。十分という時間は二十二秒の時差の前ではあまりに短い。
わたしは席に座り、引き出しから淡いブルーのノートを取り出して、ページを破る。
〈二十二秒後のリコへ〉
メロンシロップの香りがするインクで文字を流し書き、ページの切れ端を四つに折って彼女の教科書の上に置く。
リコがわたしの人生に入ってきたのは、三年生のときだった。
転校生としてわたしたちの教室にやってきた彼女は、先生に紹介されてから二十二秒後に自分の名前を黒板に書き、歓迎の拍手を受けてから二十二秒後におじぎをして、わたしの後ろの席に座った。
「どうして、すぐに座らなかったの?」とわたしは聞いた。
正直に言うと、あまり良い気分はしなかった。彼女のチリチリのくせ毛がうっとうしかったし、細い腕からは真夏の土の匂いがした。それに何より、わたしの後ろに座るのを渋っているように見えたのだ。
けれど、彼女はわたしの言葉を無視して、黒板の前に置かれたゴムの木の鉢植えをじいっと見つめた。
「すぐに?」
二十二秒後、ようやく彼女はわたしに言った。「うーん。それ、前の学校でもよく言われたんだけど、たぶん、時差じゃないかと思うんだ」
「時差?」
意味はよくわからなかった。時差という言葉自体は知っている。東京とマレーシアの時差は一時間で、ロンドンとの時差は八時間だ。地球が丸いせいで、そういうことが起こる。
とはいえ、この場合に使う言葉として適切なものだとは思えなかった。わたしと彼女の距離は、ほんの五十センチほどしか離れていないのだ。
「そっか」とわたしは言った。「わかった」
意味はわからなかったけれど、わたしは彼女の言葉を信じることにした。そうしなければ、何も始まらない気がしたから。
もちろん、中には彼女の言葉を信じない子たちもいて、そういう連中はリコのことを「のろま」や「うすのろ」という言葉でからかった。
「おい、うすのろ女」
一部の男子からそんな風に呼ばれても、彼女は表情ひとつ変えなかった。当然だ。二十二秒が経たないと、彼らの言葉はリコの心に届かない。
そのたびに、わたしはからかった男子に飛びかかって、二十二秒が経つ前にひどい言葉を取り消させようとした。耳元で「取り消しなさい!」と大声でさけぶと、大抵のやつらは顔を赤らめて取り消しの言葉を口にしたけれど、それでもやっぱり意味はなくて、最後にはひどい言葉が彼女のもとに届いてしまって、その大きな両目が涙でにじんでしまうのだった。
実際のところ、リコはまったく「のろま」な人間ではなかった。何事につけ、てきぱきと動く子だったし、それに足だって速い。長距離も短距離もお手の物で、五十メートルを七秒台で走った。
ただ、運動会の徒競走だけは大の苦手で、なぜかと言えばピストルの音が鳴ってから二十二秒が経たないとスタートできないからで、彼女が走り出す頃にはクラスで一番遅い坂野さんでさえ、とっくにゴールし終わっていた。たとえば、マラソン大会だったらそれくらいのハンデは何でもなくて、ゴールが近づくころには他の子たちを追い抜かしてしまうのだけど、さすがに五十メートル走では無理がある。
そんなわけで、転校してきてからの三年間を、彼女は万年ビリで過ごしてきたのだけれど、今年の運動会ではついにルールが変わることになった。わたしがホームルームの時間に訴えたからだ。
「不公平だと思います」とわたしは言った。「みんなで、彼女に合わせてスタートするべきです」
「そんなの、ズルだろ」
誰かが言った。
「ズルしてるのはあんたでしょ。彼女より、二十二秒も早くスタートしてるくせに」
わたしが言うと、その誰かは黙り込んだ。結局、先生たちもわたしに賛成してくれて、今年の徒競走では特別のルールが設けられることになった。リコといっしょに走る五人だけは、スタートの合図から二十二秒後に走り出すのだ。
運動会の当日、わたしはリコのとなりのレーンに並んだ。言い出しっぺの責任を取らされたわけだ。ピストルの音が響いてから、走り出さずにそのままの姿勢で待っているのは、何だか不思議な気分だった。煙の形がゆっくりと崩れて、青空のなかに消えていく。今まで生きていた世界から取り残されていくような、そんな気がしたけれど、なぜか悪い気はしなかった。
そのときはじめて、わたしたちはリコと同じ時間を生きていた。
ようやく二十二秒が経って、わたしたちは同時に走った。リコは当然のように一番になって、「一等」と書かれたリボンをもらった。
「おめでとう」とわたしが言うと、彼女は二十二秒後に笑って肩を抱いた。
二十一秒だったかもしれない。いつもよりほんの少しだけ、わたしたちの時差が縮まったような、そんな気がしたんだ。
彼女がもっとも嫌いなのは、音楽の授業だった。
歌が下手なわけではない。ただ、合唱というものができないのだ。音痴ではなかったし、リコーダーもそつなく吹くことができたけれど、どんなに頑張っても、みんなと声を合わせることだけは出来なかった。
越えられない、二十二秒の壁だ。
「どうして、音楽の時間って、合唱ばっかりなんだろう」
机の天板に突っ伏しながら、やりきれないように彼女は言った。「合唱とか、合奏とかさ。みんなと合わせるものばっかり。いいじゃん、ソロだって」
わたしは何も言えないまま、机にあいた大きな穴を鉛筆の先でぐりぐりとほじった。
今年の合唱祭のテーマは、「心をひとつに」だった。
歌声がひとつにまとまれば、心もひとつにまとまるはずだという、あきれるほどに単純なメッセージを考えた人間が誰なのか、わたしは知らない。知っていたら、ただじゃおかない。
六年四組が「怪獣のバラード」を歌い終えたあとで、リコは体育館を出て行った。合唱の出来については触れたくない。ただ一つ言えるのは、心をひとつにしたって、どうしようもないことはあるってこと。
北校舎の外側についた非常階段の踊り場に、彼女はいた。
「優勝、二組だってさ」
「……そう」
わたしの言葉に、リコはつまらなさそうにつぶやいた。寝ぐせのようにカールした首回りの髪の毛が、北風にあわせて揺れ動く。どこからか、川の匂いがした。
「くやしいな」彼女は言った。「くやしいよ、未來」
ふるえる指先が、まつげに乗った涙をはじく。
最後の合唱祭は、そんな風にして終わったのだった。
その日の夜は、リコの家で映画を見た。
彼女のお父さんは大の映画好きで、部屋にはたくさんの古いDⅤDが並んでいた。わたしたちはたびたびその部屋に忍び込み、面白そうな映画たちを片っ端から二人で見たものだ。
映画のジャンルはいろいろで、アニメやコメディを見ることもあったけれど、一番のお気に入りはホラー映画だった。「トレマーズ」とか「エイリアン」みたいに、おっかないモンスターが出てきて人間を襲う話だ。
「もう少し、女の子らしい映画を見たらいいのに」
リコのお母さんは時々そんなことを言ったけれど、身体に寄生したエイリアンもろとも溶鉱炉のなかにリプリーが身を投げるシーン以上に、女の子らしいものなんて思いつかない、とリコは答えた。
そんな映画ばかり見ていたくせに彼女はすごく怖がりで、それはわたしも同じだった。
「こういうとき」とリコは言った。「時差があって助かるよね」
「ほんとにね」
時差のおかげで、わたしとリコは怖がるタイミングがずれるのだった。わたしが怖がってから、彼女が怖がるまで二十二秒の時間がある。その間、わたしは彼女のうでにしがみついて、二十二秒が経ったら、今度は彼女がわたしのうでにしがみつく。
その繰り返しだ。
わたしたちはそんな風にして、おたがいの恐怖を乗り越えていった。透明なプラカップで麦茶を飲んで、少しだけ湿気てしまったスナック菓子を、口の中に運びながら。
もしも、この瞬間に世界が終わったら、とふいにわたしは思った。
たとえば巨大な隕石が落ちてきて、六千六百万年前の恐竜たちと同じように、世界中の人間がいっぺんに死んでしまったとしたら、リコだけは他の誰よりも長く生き残るのだろうか。
きっかり二十二秒だけ長く。
最後まで生き残った二十二秒の世界のなかで、彼女は何を見るのだろう。そのなかに、わたしはいるだろうか。ここにいるわたしが消えてしまったその後でも、彼女の中にいるわたしは生き続けてくれるだろうか。
時間って、不思議だ。
アインシュタインが言ったみたいに。
* * *
今、わたしは体育館のなかにいる。
空気は冷たくて、セーターを着ていてもまだ寒い。体育館の壁は紅白の横断幕で覆われていて、礼服を着た大人たちが後ろの方に並んでいる。
卒業式は終わりに近づいていた。
長い先生の挨拶も終わったし、卒業証書も受け取った。あとは、六年生全員で歌う「旅立ちの日に」の合唱だけ。わたしたちは立ち上がり、ピアノの伴奏に合わせて口を開く。
斜め前にリコの首と背中が見えた。やっぱり二十二秒だけ遅れているけど、本人も気にしているのか、その声は小さい。
歌が続いているあいだずっと、わたしはわたしたちのことを考える。ほんの少しずれている、わたしたちの思い出のことを。遠くから眺めると、その小さな時差はほとんど目に映らなくて、ぴったりはまったパズルのピースみたいに見えた。
最後の一小節。
この歌が終わると同時に、わたしたちは卒業する。同じ小学校の生徒でも、クラスメイトでもなくなって、別々の学校に進んでいく。それは前向きなことだけれど、前向きなことはいつだってさびしい。
ピアノの最後の音が消える。
伴奏をしていた先生が立ち上がった。終わりを告げるようにきっぱりと一礼をし、壇上からゆっくりとした足取りで下りていく。その歩みが、ふいに止まった。わたしたちは顔を上げ、先生の歩みを止めたものを探す。
リコだった。
張りつめた冬の空気のなかで、たった一人彼女の声が響いていた。ほんのわずかに遅れた世界で、最後の六小節を歌っている。
わたしたちは顔を見合わせ、小さくうなずく。だれもが同じことを考えている。
まだ、終わりじゃない。
訪れたはずの終わりの手前で、わたしたちはほんの少しだけ足踏みをする。
冬の冷たい空気のなかに、みんなの息の形が見える。心をひとつにして、思い出を交わしながら、最後に残ったわたしたちの二十二秒に、そろって耳を傾ける。
わたしたちの22秒 松樹凛 @Rin_Matsuki
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