くまに似顔絵を描く方法

松樹凛

第1話

 豆の木テラスって名前のくせに、そこには一本の木も生えていなかった。あたしに言わせれば、作った人は嘘つきだ。それが大工さんなのか、設計士なのか、それとも父さんと同じ「デベロッパー」なのかはわからないけど。

 テラスの真ん中には鏡を捏ねて作ったようなオブジェが立っていて、どうやらそれが豆の木の代わりらしかった。二本の柱が絡み合い、空から降ろされた縄梯子みたいな形を作っている。きっと、クリスマスになったらサンタクロースが使うんだろう。

 ともかく、そのオブジェの下に座って、イーゼルの上のカンバス(本当は二九八円のスケッチブックだけど、あたしはそう呼んでる)に似顔絵を描くのが、放課後のあたしの仕事だった。

「だれかに許可をもらっているのかい?」

 その日のお客さんは口うるさいおばあさんで、コピックを握ったあたしにそんなことを訊いてきた。髪の毛は真っ白だけど、首に巻いた赤いショールがすごくきれい。鼻に乗った眼鏡は銀色で、大きな釣り針みたいに見えた。

「あそこのアイス屋さん、パパのお兄さんなの。あたしの家、六時まで誰もいないから、ここで遊んでなさいって言われてて」

 これは、あたしが用意している三つのお話のうちの一つだ。相手が真面目そうな人のときには、大抵これを使うことにしている。今のところ、疑われたことは一度もない。

 あたしは鉛筆でおおまかに作った下書きの上に、コピックで色を重ねていった。学校で使っている絵具と違って、コピックはすぐに乾くしずっと使いやすい。十分もしないうちに、さっそく似顔絵ができあがる。

「こりゃ、なんだい」

 おばあさんは素っ頓狂な声をあげた。はじめてのお客さんは、みんな同じような反応をする。つまり、あたしの似顔絵は、似顔絵じゃないんだ。なんて言うか、想像をふくらませるの。

 画用紙の上に描かれていたのは、一匹の金魚だった。背中側が赤くて、お腹が白い。大きな尾びれはショールのようで、水の流れにしたがいながら、優雅にねじれた姿を見せている。

「魚じゃないか。これが似顔絵だって?」と彼女は言った。

「だって」あたしはすました顔で答えた。「あたしにはこういう風に見えるんですもの」

 それは本当のことだった。釣り針みたいな形をしたフレームのせいで、あたしにはもう目の前の彼女が魚にしか見えなくなっていたし、真っ白な頭と澄んだ赤色のショールは金魚の姿を思わせた。これが、あたしのやり方なんだ。目で見たものじゃなくて、心に映ったものを描くの(なんてね)。

 あたしの言葉に、おばあさんはもごもごと口を動かしていたけれど、最後には何となく機嫌を良くして硬貨を二枚、握らせてくれた。百円玉だ。

 もちろん、当然のなりゆきだ。だって、あたしの描いた金魚ときたら本当にかわいくて、今にも泳ぎだしそうだったんだもの。

 とにかく、これがあたしの仕事だった。次の七月で十一歳になる、あたしの。


 その人がやってきたのは、五月に入って二度目の月曜日だった。人っていう言い方が正しいのかはわからない。何しろ、その人は大きなくまの着ぐるみを着ていたから。

 実際、それは遠くから見ると本物のくまみたいに見えた。黒っぽい毛が全身を覆っていて、その奥に小さな二つの目がかくれている。鼻の周りと胸のあたりにだけ、ふさふさした真っ白な毛が生えていた。ツキノワグマだ、とわたしは思った。

 ツキノワグマはぼてっとした足取りでこっちに来ると、向かいの椅子に腰を下ろした。はみ出たおしりをもぞもぞと動かしながら、あたしに小さな袋を差し出す。いちご味の飴玉だった。

「キャンディかぁ……」

 心のなかでため息をつく。そりゃ、似顔絵の代金には決まりがあるわけじゃない。百円玉で払う人もいるし、鉛筆とかコピックをくれる人もいる。でも、飴玉っていうのはいかにも子供っぽくて、なんだか軽く見られている気分になる。

 とはいえ、仕事は仕事だ。あたしは鉛筆をにぎって、いつものように想像をふくらませようとした。ところが、どうも上手くいかない。目の前にあるふさふさの毛皮が気になって、ぜんぜん集中できなかった。

「ねえ」と聞いてみる。「あなた、どこから来たの?」

 ツキノワグマは、だまって駅の方向を指差した。ふーむ。ということは、電車でここまで来たのだろうか。あたしは大きなクマがつり革につかまっている姿を想像した。正直言って、かなりおかしい。

 それで、あたしは頭に浮かんだその絵を描き始めた。画用紙をたて向きにして、めいっぱい大きくクマの身体を描いていく。前足をまっすぐ伸ばして、爪の先を小さなつり革の輪っかに引っかけている。茶色のコピックは持っていなかったから、赤と青の二色を重ねて、長い毛の色を表現した。

「はい、どうぞ」

 あたしが画用紙を差し出すと、ツキノワグマは二本の腕で挟むようにしてそれを受け取った。ひっくり返したり、回したりして、しげしげとそれを眺めている。

 その様子を見ているうちに、あたしの中に何となく苦い気持ちがわきあがってきた。イマイチだったかもしれない。上手に描けた気はするし、電車に乗ったクマなんて普段なら面白がるところだけど、でも目の前にいるのはクマなのだ。クマにクマの似顔絵を描いて渡したって、面白くもなんともない。

 ツキノワグマは何も言わずにのっそりと立ち上がると、あたしにぺこりとお辞儀をして背を向けた。首のあたりに、大きな傷みたいなものが見える。あたしは肩をすくめて飴玉を口に入れると、立ち去っていく大きな背中を見送ったのだった。


 次にそのクマが現れたのは二日後だった。

 すごく天気の悪い日で、今にも雨が降り出しそうだったから、あたしはそろそろ店じまいをするつもりで、イーゼルをたたんでいるところだった。

「ごめん。雨が降りそうだから」

 のそのそとやって来たツキノワグマにそう言うと、クマは大きな頭を横に振った。心配しなくても大丈夫って言うみたいに。

 すると、とつぜん雲が切れて、薄いセロファンみたいな光がその隙間から差し込んできた。

「どうやったの?」

 あたしはびっくりしてそう聞いたけど、クマはだまって首を傾げるだけだった。大きな身体の半分だけが太陽の光に照らされて、ホタルのおしりみたいにぼうっと浮かび上がって見える。あたしはたたんだイーゼルを元に戻すと、カンバスに線を引き始めた。

 このクマは魔法つかいなのかもしれない、とあたしは考えた。魔法で動物に変身したり、天気をあやつったりすることができるんだ。胸のあたりにある月の形が、その証拠。魔法の力と月の満ち欠けには関係があるって、何かの本で読んだ記憶があるもの。

 でも、どうして魔法つかいが、あたしみたいな女の子に似顔絵を描いてもらおうとするんだろう。単なる気まぐれ? それとも目的があるんだろうか。

 ひょっとしたら、これはテストなのかも、という考えが頭に浮かんだ。そうだ。きっとそうに違いない。あたしに魔法つかいの才能があるのかどうか、試してるんだ。つまり、見た目にとらわれず、心の目で物事を見られるかってこと。そして、才能があるとわかったら、あたしを弟子にしてくれるはず。

「よし」とあたしはつぶやいた。「やってやろうじゃん」

 それから、いつもの倍の時間をかけて色を塗った。背の高い、銀色のひげを伸ばした魔法使いの絵だ。古びたパジャマみたいな服をきて、三日月型の首飾りをかけている。そばには可愛らしい女の子を一人描きこんだ。長い髪をおさげにして、手には絵筆を持っている。つまり、あたしだ。

「どう? 合格?」

 クマは何とも言えない表情であたしを見た。喜んでいるのか、がっかりしているのか、区別がつかない。(そもそもクマってうれしいとき、どんな顔をするんだろう?)。どうやら、今すぐ合格ってわけじゃなさそうだ。

 それでもクマは、あたしの手にキャンディの包み紙をにぎらせると、ペコリとおじぎをしてくれた。そのときを待っていたみたいに、急に強い風が吹いて、ぽつりぽつりと雨が降り出す。

「また来てよ!」とあたしはクマに手を振って、それから雨の中で飴玉をなめた。むらさき色のぶどう味だった。


 ツキノワグマ(それとも魔法つかい?)はそれから何度も豆の木テラスにやって来た。姿を見せるのは、決まってテラスにだれもいない時で、正体を隠すように縮こまって椅子に座った。

 あたしはたくさんの絵を描いた。ある時は若い魔女の絵を描いたし、別の時は森に住む妖精の姿を描いた。操縦席に座ったネズミの絵を描いたこともある。(実は目の前のクマがロボットで、中から小さなネズミが動かしてるんじゃないかって思ったんだ)。一人のお客さんに、これだけたくさんの絵を描いたのは初めてだ。いつの間にか、ツキノワグマはあたしの一番のお得意様になっていた。

「あなたが言葉を話せたらいいのに」

 あたしの前に座っているあいだ、クマが言葉を話したことは一度もなかった。でも、それで良かったのかもしれない。あたしたちの間に流れている沈黙には、どこか特別な響きがあった。「沈黙」が「響く」なんて変な話だけど、でもそうなんだ。あたしは、クマの長い毛が風になびいている姿を見るだけで満足だった。その小さな動きのひとつひとつが、あたしの心に直接語りかけてくるような気がしたから。

 ただ一つ残念だったのは、いつになっても、クマが飴玉以外のものをくれないことだった。

「別にいいんだけどさ」

 あたしは出なくなった赤色のコピックをくるくると回しながら言った。

「でも、コピックだってタダじゃないんですからね」

 クマは聞こえないふりをして、メロン味の飴玉をくれた。

 彼がくれる飴玉は、いつも違う味だった。いちご味、ぶどう味、レモン味、みかん味。ところが、何度ももらっているうちに、袋の裏に書いてある材料がまったく同じだってことに、あたしは気づいた。それに、いちご味のはずなのに、いちごの名前が書いてない。

「ぜんぶ同じ飴なんだよ」

 あたしの話を聞いたパパは、そう言って笑った。

「そこに香料って書いてあるだろ。同じ材料で作った同じ飴に、香りだけ違うものをつけてるんだ。それで、いちご味とかぶどう味って名前にする。そうすると、なめた人は何となく、いちごっぽいとか、ぶどうっぽいって感じるわけさ」

 何それ、ひどい。

 あたしはほほをふくらませて、メロン味の飴玉を口に入れた。両目のあいだに力を入れて、うんと気持ちを集中させると、なんとなくメロンの味を感じた気がした。


 土曜日のことだった。

 あたしはパパについて、駅の方に買い物に出かけた。新品のコピックを買ってもらうためだ。クマにはああ言ったけど、自分の力だけでコピックを買うのは、やっぱり厳しい。だって、すごく高いんだもん。

 買い物のあいだ、あたしはずっとそわそわしていた。学校の子たちに見られたらどうしようって。親といっしょにいるところを見られるのって、ただでさえ恥ずかしいことだし、それにあたしはクラスでちょっと浮いてるから。

「学校はどうだ?」とパパが訊いた。

 なんてセンスのない質問だろう。せめて「最近どう?」とか「放課後何してる?」と訊いてくれれば、金魚に似たおばあさんと、不思議なクマの話をパパに教えてあげられるのに。でも、パパの質問はいつだって「学校はどうだ?」で、それ以外のことにはぜんぜん興味がないみたいだった。

「まあまあだよ」と肩をすくめてあたしは答えた。

 もちろん、ウソだけどさ。

 あたしたちはデパートに入り、パパの靴を見て、本屋さんに行き、アイスを食べて、もう一度パパの靴を見に行き、それからようやく画材屋さんでコピックを買った。

 デパートを出るともう夕方で、駅前の交差点はすごい人だかりだった。

「他に寄りたいところは?」

「ううん、別に」

 パパの言葉に、あたしは首を横に振った。腕から下げた紙袋には新しいコピックとスケッチブックが入っていて、あたしはそれで満足だった。

 もうすぐ梅雨だからか、空気はむっとする暑さで、折り曲げたひじのあたりが汗臭かった。信号を待ちながら、あたしはあのクマのことを考えていた。いったいどんな絵を描いたら、彼を満足させられるんだろうって。

 もっと基本に立ち返るべきかもしれない、とあたしは思った。ありのままに、あのクマを見て、心に浮かんだものをそのまま描くのだ。たとえばそう……お月様はどうだろう。銀色の大きな月で、ウサギの代わりにクマが住んでいるのだ。そして手にはお餅じゃなくて、大きな飴玉を持っている。

「お、見ろよリコ」

 パパの声で、空想が破られた。

「クマがいるぞ」とパパは言った。

 クマ?

 ぎょっとして顔をあげると、確かにいた。長くてきれいな毛並みで、胸のあたりに月の模様がある。ツキノワグマだ。クマは交差点の向こう側に立って、信号待ちをしている人たちに話しかけては、何かをしきりに配っていた。

 信号が青になった。

 あたしは渡りたくなかったけれど、他にどうしようもなくて、コピックの入った袋を隠すように抱えながら交差点を渡った。

「キャンディじゃないか」とパパが言った。「ほら、もらってこいよ」

 背中をたたくパパの力は、怖いくらいに強かった。魔法が使えたらって、今ほど思ったことはない。煙みたいに消え去る魔法でも、箒に乗って飛んでいくのでもいい。今すぐに、この場所から逃げられるなら、なんでも。

 でも逃げられなくて、あたしはパパに押されるようにしてツキノワグマの前に立った。テラスの外で見る茶色の毛は色あせていて、ビニールのような匂いがした。

 クマがあたしを見た。あたしもクマを見た。

 やがて、ゆっくりとした動作で、クマがあたしにビニール袋を差し出した。ノートくらいの大きさで、中には住宅展示場のチラシと、飴玉がひとつ入っていた。

 あたしは何も言えなかった。クマの着ぐるみは悲しそうにあたしを見たけれど、プラスチックで出来たその目には、もう何も映っていなかった。

「よかったな」とパパが言った。

 着ぐるみはあたしに背を向け、知らない親子に向かって飴玉を配り始めた。あたしは袋に手を入れ、黄色の飴玉を取り出して口に入れた。

 奥歯に挟んで、何度も噛む。

 何度も、何度も。

 目を閉じて眉間にしわを寄せ、ありったけの力をこめて集中する。

 まぶたの裏に、大きな銀色の月を描きながら。

 わずかに残っていたはずのレモンの香りが、どこかに消えてしまわないように。

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くまに似顔絵を描く方法 松樹凛 @Rin_Matsuki

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