Your Choice
胡桃ゆず
悲劇か救いか。
さあ、行こうか。
差し出された手を私は取った。よく知りもしない人。どこへ行くのかも知らない。でも、行くところなんてないし、どうなってもいいや。
そんなふうに、もう私は何もかも諦めていたのだろう。人生を、自分を、放棄していた。たぶんきっと、この先生きることになるとしたら、なんて馬鹿なんだろう、って、自分を呪うかもしれないけど。この手を取らなかったとしたって、何か明るい未来があったわけでもないだろう。
ろくでもない。こんなろくでもないものをどうにかしようとしているなら、ほんとうにしょうもないし、ばらばらにして処分しようっていうなら、それは正当にも思える。
ついて行った理由を、私はそう正直に話した。
「なるほど、いずれにせよ、俺が君に良からぬことをしようとしている、と思っているんだね。そりゃあ、怪しむのはわかる。そうだよね、こんな状況じゃ。でも、人生に対してそんなに悲観して、自分をぞんざいに扱うのは、こちらの責任じゃない」
そりゃそうだ。そして、私が自分への責任を放棄しているのだから、他人がどう扱おうと構わないだろう、そういう理屈である。
「悪い奴っていうのは、そういうぞんざいに扱ってもいい人間を嗅ぎ分けるんだ。雑に扱われて不幸な目に遭う人が、いつまでもそのままなのは、自分で権利を放棄しているからなんだよ。いわゆる、同じ匂いをかぎ取る、とでもいうのかね」
「それは悪者に都合のいい暴論」
と、私が吐き捨てると、彼はにやりと笑った。
「でも、君に限って言えば、暴論でも何でもなくて、正論でしかないでしょう」
「まあね」
本来なら、一生立ち入ることのないであろう、高級ホテルのスイートルーム。この男は、こんな部屋に泊まれるほど金持ちには見えないから、後ろに誰かいるのだろうか。
その人に私を売るとか、私を殺してくれと頼まれているとか。いや、でも、そんな金持ちに殺されるほどのことをした覚えは何もない。
おおよそ、私とそう違わない、雑なところに自分を落とした人という雰囲気でもないのは、なんとなく嗅覚でわかる。かといって、ちゃんとしているわけでもなくて、パーカーにジーンズというラフな格好ではあった。
もし、本当にヤバい人なら、上手く『普通』に擬態できる、余計にヤバい人間だ。
彼は、鞄からバタフライナイフを取り出して、これ見よがしにちらつかせてきた。
「じゃあ、あんたも、同じ匂いを私から嗅ぎつけたっていうわけで、同じように、自分を雑に扱ってるんじゃないの?」
「なるほど……」
ナイフの刃が、照明の光を反射して、てらてらと光っている。
「もし、今そのナイフで私を切り裂くんなら、自分を雑に扱うのは私じゃなくて、あんたでしょ」
「ああ、それは暴論じゃなくて、正論かもしれない」
説得されてどうする。私だって、説得したいわけじゃなかった。今、ナイフを突きつけられそうなこの状況が嫌なら、最初からついてこなければよかっただけ。
もう、うんざりだ。
それでも生きて行かなきゃいけないなんて。
「クソだ……」
ぼそりと呟いた私の声が、やたら大きく響く。ゆっくり男の目がこちらを向いて、視線をしっかり突き刺してくる。
「死んだら、本当はどこに行くんだろうね。どこにも行かないのかな」
そんな哲学的な話、私は興味もない。
「そんなの、生きてたらわからない話。知りたきゃ死んでみれば」
「生きてるのがクソだから、死んでみたら、その先もクソだったら?」
「それ地獄じゃん」
「ああ、なるほどね」
男は、一歩、二歩、と、ベッドの上に座っている私に少しずつ近づいてきた。やがて、距離が三十センチになると、ぬらりと光バタフライナイフの刃先を、そのまま心臓をえぐり取ってやるといわんばかりに、私の胸元にちらつかせる。
やっぱりそれでも、私は何とも思わない。よくわからないけれど、恐怖も悲しみも喜びも愉悦も、安堵もなかった。いってしまえば、無。
何が起ころうとも、もうどうでもよかったからかもしれない。
男は、皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「ほんとに、何とも思ってないんだね」
「うん。まあ、あんたの言った通り、自分の人生雑に扱う以外にないから。あんたもそうだから、こんなことしてるんでしょう」
「こんなことってなんだよ」
「底辺の人間を傷つける、底辺なこと」
今度は、刃先を私の鼻先にちらつかせた。
「俺が、君に何をするつもりだと思ってる?」
「殺すか、傷だらけにするか……」
「まあ、そうだよね」
だけど、その返事は肯定でも否定でもない。この男に対して遠慮なんてする必要は、何処にもないのだから、この際ずけずけ踏み込んで行ってしまおう。私にはその権利があるだろう。
「あんたは、こんな部屋に泊まれるほどの金持ちにも見えないから、誰かに頼まれてこんなことやってるのかと思ったけど……そんなことするしか生きる術がないんでしょ」
「いや。誰にも頼まれてなんてないよ。こんな部屋を取ったのは、どうせなら君の最期に花を飾ってあげようって思って、ちょっと無理しただけ」
そこはきっぱりと否定する。男は、私の隣に腰かけた。
「じゃあ、殺傷が趣味嗜好の、別の方向でヤバい人?」
「なるほど、噂の連続殺人鬼なんて、今時いたっけ?」
「さあ……ニュースなんて見ない……」
言葉の途中で、とん、と、肩を押されて、私はまったく無抵抗のままベッドの上に倒れ込んでいた。
何が起こったのか理解できるその前に、私の頭の真横、すれすれのところにナイフが突き立てられる。
とすっ。
意外と情けない音を立てて。その瞬間、どうしてだか、心臓の奥の方が音を立てて軋んだ気がして、私の目は、涙を流していた。涙が、頬を伝って落ちて、シーツを濡らしていく。
死ぬことが怖くなったわけじゃない。ただ、心に張っていた膜を突き破って行かれた感覚。
私を見下ろす男の目には、照明の明かりがゆらゆらと揺れていた。
「それって悲しいってことじゃん」
「そうなのかな……」
自分でも、よくわからなかった。それでも、涙はあふれてくる。
「そうだよ。はっきりしなよ。……生きたい?死にたい?」
男は、ベッドに刺さったナイフを抜いた。
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