その場旅部

やせうま

その場旅部


「では先輩」


 長く美麗な黒髪をたなびかせてこちらに振り向きながら彼女は言った。


「今日は記念すべきその場旅部第一回目の旅」


 俺は簡易な椅子に座り、彼女の姿を見ていた。


「シンガポールに行きたいと思います」


 その顔は、小さな子供が親とどこかへ遊びに行くときかのように溌剌としていた。



            ⭐︎


 その場旅部。


 それは、桜ヶ平さくらがひら 桃ももの言葉によって発足された部活動 ?だ。


 活動内容はその名の通りそのまんま。その場で、旅をするというもの。何かしらの映像やその土地の由来のあるものをふんだんに使い、旅気分をそこで味わうというもの。まさかその映像にVRを使用するとは思わなかった。


 部員は俺と桜ヶ平の二人だけで、部活なんてものは公式化してないし、なおかつ勝手にこの部屋を使っては、目の前の少女はその場旅部の部室としているのだから、横暴という言葉に尽きる。


 そして、そんないい加減な部活ではあるけれど、ルールが少なからず存在する。


 まず一つが、自分がその旅を実際にしていると思うこと。


 より良い旅がしたいのだ、というのは彼女の弁だ。


 二つ目が、交代で旅のガイドを行うこと。


 実はこの部活、部活費が支給されていて、それを駆使して旅の段取りを準備するというのが義務付けられている。


 最初が桜ヶ平で、次が俺。それを順繰りにし、行けるところまで行こうと意気込んでいたのはいつの日かの桜ヶ平だ。


 これらが数少ないうちの部の、守るべきルールとなっている。


            ⭐︎



「先輩。シンガポールって言えばどんなことを思い浮かべますか?」


 唐突にそんなことを問うので、少し考え、


「...結構いろんな人種がいて、中継貿易とか盛んな国、とか?」


 至極真っ当に答えたのだけれど、いやそのせいか目の前の彼女は落胆するように息を吐く。


「これだから先輩は」


 ジト目で俺を見る桜ヶ平の瞳には、まだ何かないのか、と言う訴えがはらんでいる。


「...ま、マーライオン、とか?」


 その答えに桜ヶ平はやれやれと言った感じで後に調子付き、「いいですか、」と続き、得意げに「シンガポールはナウいお洒落な国なんです」と言う。


 きょうび聞かないナウいと言う言葉には触れずに「お洒落」とおうむ返しをしながら、まさかそんなあやふやで広義な言葉が出るとは思わなかった。


 確かに前衛的ではありそうだけれど。


「では今からシンガポールがいかにお洒落なのか、旅に行って私が教えてあげます」


 と、こんなふうにして俺らの初めての旅が始まった。


            ⭐︎  


「さぁ、つきましたよ。ここがシンガポールです!」



 先ほどとは何も変わらない風景の中で言うので少し気後れしてしまう。


「先輩! ルールを忘れたんですか!? 真の旅たれ、が私たちのモットーですよ。」


 頬を膨らませるので、俺は慌てたように「...あ、あぁ、シンガポールだから心なしか日差しが強いな」と、取り繕う。


「何言ってるんですか。チャンギ国際空港に到着したのが日本で言うところの午後6時ですよ? もう夕刻で、日はそんなに強くないです。」


 しっかりしてくださいよ。フィーリングが足りてませんね。と、ダメ出しされ、心の中で時間なんて知るかよ、と愚痴るも到着時間がどこか現実的だから、真の旅たれという言葉に従事してるっぽく、「へーへー、それはわるーござんした...。」と言うほかなく、フィーリングが足りませんでしたよ、と諦めるように言った。


「じゃあ先輩。今からタクシーに乗ってホテルにチェックインです」


 彼女はそう言い放ち、俺の手を取った。高校生にもなる年と言うのに、そのまま口でブーンと言いながら、俺を引っ張って、この部屋を出た。


 そして、その出口脇には長机をエントランスの受付に模したようにして置き、その先には先生が座っていた。

 それを見て俺は素直にギョッとした。


「せ、先生が何してるんすか」


 微笑みながら、先生は「楽しそうだったから」と答える。

 このやりとりに、桜ヶ平は不服そうに「先生じゃなくて、ホテルマンです! 間違えないでください!」と、真の旅たれを遵守しようとしていた。


 なんとも律儀な事だとあきれ果てるも、最後まで付き合うと覚悟したのだから俺も先生の事をホテルマンだと思うことにした。


「ではお客様、チェックインののちにお部屋に案内いたします」


 結構凝った芝居に戸惑いながらも、俺も即興劇エチュードを崩さないために旅行客を演じた。


 そこからは目まぐるしかった。


 チェックインが終わり、荷物をホテルに置くと、すぐにディナーへと赴く。


 ディナーで驚いたのが、ちゃんとそこのレストランの料理を模したものを用意していたのだ。自身で作ったと言っていたが、その完成度には舌を巻いた。


 そしてディナーが終わると、ナイトサファリに行った。


 夜の動物園というのも新鮮だった。


 その次にはガーデンズ•バイ•ザ•ベイへと足を向けた。人工ツリーのイルミネーションは煌びやかで、幻想的だった。


 そして最後にと、俺たちは世界最大級の観覧車、シンガポール•フライヤーに搭乗している。


 VRのくせして、あまりに景色が鮮やかなので、この高さには少し恐怖が混じる。


「ふふ、先輩って高いところ苦手なんですか?」


 なぜ、バレたのか。


「いや、そんなことは.....、いや、うん。結構怖い」


 一瞬、見栄を張ろうとしたが、それが逆に情けないと思い、素直に肯定した。


「でも、よくわかったな。怖いって」


 VRのせいで、残念ながら視界には俺一人しかない。つまりは彼女も例に漏れず、そうなのだ。


「手が」


 そう言って、俺の手を少し強く握る。もしかして、


「手汗とか?」


「正解です!」


 瞬間、手を離そうとしたが、一層掴まれてしまい離せなかった。


「だめですよ、先輩。これはルールなんです!」


 ルール。それは新しく追加されたものだった。VRでその場の景色を堪能するのは良いものの、なにぶん景色はめいめい自分たちのものだけで、どこか寂しさを感じると、彼女は二人できているという意識を強くせんとして、VR中は手を握ることを提案したのだ。


 それは少し気恥ずかしくないかとやんわり断ろうとしたのだが、半ば強引にこのルールが適用された。


「ふふふ、それに私先輩の手汗なんか気にしませんよ」


「...俺が気にすんの」


「そうですか?」


「...うん」


「なら、我慢してください」


 語尾に♪がつきそうなリズムで言っては、どこか上機嫌だ。人の気も知らないで。


「ふふふ、」


「何がおかしいの?」


 そんなに手汗で焦ったのが面白かったのか。頬が赤くなるのを感じる。


「いえ、先輩にも怖いものあるんだなって」


「そりゃ、あるだろ。色々」


「そうなんですか? 教えてくださいよ先輩がこわいもの」


 怖いもの。そんなもの沢山ある。内奥に秘めているものを吐露するのには、楽しもうとしているこの時が損なわれそうで忍びない。

 だから、軽い、おちゃらけたものしか言わない。


「ピーマンとか怖いな。あの苦さは驚異的だ。」


 あと猫とか。そう呟くと、彼女は意外そうな声を上げた。


「あんなに人間に愛される形をしている猫ですよ!?」


 そこからは文句たらたらだった。猫の可愛さによる講義が始まったのだ。

 そんな講義の最後に彼女はこう言った。


「私が好きにして見せますよ。先輩が言った、先輩の嫌いなもの」


 どうせ自信満々の顔で言ってんだろうなと、どこか力ない嘆息をする。


「逆に...」


「お前の怖いものとかないの」


 俺だけ怖いものを喋るのは不公平だと思い、会話の一端にそう聞くと、彼女は平生な声で「絶滅、ですかね」と、そう答えた。


 絶滅。一体その言葉が、どんなことに意味するのか。


「知ってますか。先輩」


「今日行ったナイトサファリの動物の、1/4が絶滅危惧種なんですよ」


 多いなと、素直に思った。VRに写っている景色のどこかに、そのナイトサファリはあるだろうか。


「なんだか怖くないですか。私たちがさっき見てきたものが失くなる可能性があるんですよ。」


 確かに見てきたのに。存在するとわかっていたのに。それが消えたとわかってしまうことの喪失感を想像すると怖いと彼女は言った。


 淘汰されるって嫌な言葉ですね。


 いつもの彼女より、幾分か低い声だった。

 それはまるで私たちみたいだと言いたいかのように。


「それで先輩。次は先輩の番ですけど、どこに行くか考えてるんですか?」


 不意にそうきかれ、思考がクリアになる。


「あぁ、まぁ決まってる」


「楽しみにしときますね。私、楽しいことを想像するのは好きなんです」


 当たり前なことを言うなと思った。

 だけど、俺の手を握る彼女の手が暖かく感じられ、それが大切なことなんだろうなと、勝手に納得してしまった。


 彼女の見る景色は俺よりもよっぽど綺麗なんだろうな。

 この外に広がる夜景も、そのほか全て。





            ⭐︎





 そうして迎えたその場旅部二回目の旅。

 目の前には、目をキラキラさせながら、俺を見ている桜ヶ平 桃の姿があった。


 露骨に期待されると、どこかやりづらいが行けるとこまで行こう。過去の言葉が蘇る。


「俺たちは今日」


「ボリビアに行く」


 期待した眼差しは一変、よくわからない場所だったのか彼女は首を傾げた。


「ボリ、ビアですか?」


「そう、ボリビアだ。さて、ボリビアといえば何を思いつく?」


「私地理苦手なんですよね。全くわからないです」


 おいおい。俺はもう少し真剣に考えたぞ。

 と、だがまぁ確かにボリビアと聞いて、何かピンとくる物が何かと言われたら、無いだろうな。


 俺も目的のある場所が、ボリビアにあると言う感じで知ったのだから。

 まぁここは一種の意趣返しとして、言葉を選ぼう。


「これだから桜ヶ平は...」


 桜ヶ平の表情を確認してみると、刹那、どこか嬉しそうな表情を浮かべ、その延長線上に威厳のない可愛らしい様子で怒り顔を披露する。


「なんでもいいから早くしてください」


「お、おう」


 そのチグハグな様子に戸惑いながらも、俺は用意していた言葉を放つ。


「いいか、」


「ボリビアってのはな特殊な鏡を持つ国なんだ」


 できる限り得意げに。


「鏡、ですか?」


「あぁ、行けばわかる」


 逆に、いかなければ分からない。


「というわけで、はい、ここがボリビアだ」


「詳しく言えば、ボリビアのラパスって場所だ」


「で、特殊な鏡ってどこにあるんですか?」


 好奇心旺盛な表情で、逸る桜ヶ平をたしなめるために、俺はつばの長い麦わら帽子を鞄から取り出し座っている桜ヶ平の頭に乗せる。


「何ですかこれ?」


 麦わら帽子だ、と、つまらない返事をしようとしたが、思いとどめ説明をする。


「ラパスってとこは標高が高いから日差しが強い。暑さはないけれど、紫外線対策に必要な帽子だ」


 そう言って、俺は体よく真の旅たれを装い、自分も簡易なキャップを被った。ただ彼女の格好に夏景色が似合う麦わら帽は少しちぐはぐで、室内と言うこともあってかどこか変な景色だった。まぁ、俺もだろうけど。

 しかし、その流れるような黒髪に、麦わら帽子はとことん似合っていた。


「この帽子、くれるんですか?」


 純真な顔で聞いてくる。


「...おう」


 それを聞いた瞬間、彼女はうれしそうな表情を隠そうともせず、俺とは裏腹に素直に、快活に、澄んだ声でありがとうございますと言った。


「一生大切にしますね!」


 つばを両手で持ってはうれしそうに言う。

 気恥ずかしくなった俺は、少しだけ目をそらして、いいからいくぞと彼女に告げる。


「特殊な鏡のところにですか?」


「いいや、それは後だ。いまからラパスの町並みを一望しにいく。」


 そうやって俺たちが訪れたのは、市の交通機関となっているロープウェイ、ミ・テレフェリコ。地形の起伏が激しいラパスでは鉄道などの施設を広げるのは難しく、市民の足として、ロープウェイがラパスには広がっている。

 そこから見える異国の景色と、空に近い青空は少し興味をそそられた。高い景色は苦手だけれど、おそらく今回も大丈夫だろう。


 例の如く、俺たちはVRでそのロープウェイに搭乗する。横には桜ヶ平が、やはりこれも例の如く俺の手を握っている。

 ただ、桜ヶ平は興奮した様子で、立ち上がっていた。


「すごいですよ先輩。街は赤茶だし、奥になだらかな山もあるし、それに空が近いです!」


 感嘆の声を上げながら、おそらく周りをせわしなく見ているのだろう。握る手がよく揺れる。

 でも確かに、目前に広がる景色を見ていると、普段見ることのない世界だからか、この新鮮さに心が少し躍る。


「いいですね、ラパスって移動でロープウェイを使うなんて。今すぐ日本も地下鉄とかじゃなくてロープウェイを普及させるべきですよ」


 そんな日本を、桜ヶ平の言葉通りに想像してみると存外に悪くもなさそうだなと素直に思う。


 そこから数分この空の旅路を楽しんだ。


「ラパスの街を一望したし、今から昼ごはん食い行くか」


 ロープウェイから降り、伸びをしたあと俺はそう言った。


「何を食べに行くんですか?」


「うーん、何にしようと思ってたけど、身近なものでいいかなって。というわけでピザを食べに行こう。ここら辺では一般的にピザが食べられるらしい。」


「さすが先輩。保守的ですね」


 うるせー、とは言わずに俺は早く行こうと促した。

 そうして広げるピザ。


「うわー、すごいです。これって先輩が作ったんですか?」


「もちろん」


 早朝、慣れない手つきでここの厨房を貸してもらい、なんとか自分で作ってみた。

 自分で言うのもなんだけれど、なかなかにいい出来だと思う。


「ちなみに、ラパスの地域ってのはリャマ肉をよく食うらしくてな」


「まさか、リャマ肉を使ってるんですか!?」


「...残念ながらリャマ肉の入手方法がわからなくて、鶏肉を使っている」


 そう言うと、桜ヶ平は笑って先輩はまだまだですねーと茶化す。


「問題は味だ。」


 食ってみろと、促す。いろんなサイトを参考にして、ぱん生地から作った俺特製のピザだ。

 これでイマイチな味と評価されてしまえば、立つ瀬がない。


 桜ヶ平がピザを手に取ると、チーズが美味しそうに伸びる。


「うぉー、すごいです」


 ケタケタ笑いながら、目をキラキラさせながら、その伸びるチーズを見て喜ぶ姿は、どこか頑是無い。

 そして、彼女は口を大きく開けて、そのピザを口にする。

 またも伸びる姿に顔を綻ばせながら、彼女は表情豊かに「美味しいですよ! 先輩!」とそのまま一枚平らげてしまった。


 俺と桜ヶ平はピザを食べながら他愛ない会話をして、いつしかピザは二人で完食していた。


「私、ピザを久しぶりに食べました。確か最後にピザを食べたのって、小学校二年生の誕生会だった気がします。私、友達沢山居たんですよ? だから友達沢山よんで、お母さんが沢山のピザを用意してくれて...、ふふ。そのときお母さん友達呼びすぎだって少し怒ってたんですよ。」


 彼女の性格やその様相を考えてみれば、確かに友達は多そうだ。


「先輩はちゃんと友達、いるんですか?」


 友達。いったいそれがどんな定義付けになるのか分からないが俺の中での定義なら、一人しかいない。


 目の前を指さす。


「...私、だけですか?」


 会って話をする。そんな関係を、俺は友達と呼ぼう。

 俺は桜ヶ平の言葉に頷く。

 桜ヶ平はちょっと残念そうな顔をしては「友達はもっと作ったほうがいいですよ?」とダメ出しをして来た。

 でも少しだけ、ほんの些細な反応だけれど微細に嬉しそうに見えたのは俺の気のせいか。


「うるせー」


 お前が一人で、俺が一人ならそれで十分だ。




            ⭐︎



「よし、じゃあここからが本筋だ。俺たちは今からバスに乗って、その特殊な鏡を見に行く」


 と言うことでと、俺は彼女にVRを手渡す。


「付けといてくれ」


 彼女は首を傾げながらも、わかりましたと付けようとする。


「あぁ、そうだった。スリッパと靴下脱いどいて」


 そうして俺は準備に取り掛かった。一目さんに傍に置いたあった大きめの盥タライを引きずりながらこちらへ持ってくる。中には薄く張るように水が入っており、その中には多分に塩が含まれている。いわゆる塩水というやつだ。

 普通の水でも良かったが、気分は大事だし、何より真の旅たれが俺たちの守るべきルールだからな。


「桜ヶ平、足あげて」


 そのカモシカのような生足を、桜ヶ平は言われるがままにあげた。

 俺はその下に、先ほどの用意してあった塩水入りの盥を置く。


「普通にしていいぞ」


 ピチャッと音がした。


「ひゃッ...っ!、何ですか先輩これ!? み、水?」


 俺は寡黙に、VRを起動させた。


「...うわぁ...。」


 湧き出る水のように出た、その感嘆の声を聞いて今桜ヶ平が絶景をその両の目で見ているのだと直に感じた。

 俺も桜ヶ平の横に座って、静かにその足を水面につけ波紋が広がる中VRを着ける。


 そこに広がるのは正に鏡。地平線にまで広がる、空を映し出す大地の鏡だった。


 地面に広がる大空に今にも落ちそうだ。


「凄いです。...こんな景色が世界にはあるんですね。まるで空を飛んでると錯覚しそうです」


 空を飛ぶ。対極の考え方、感じ方に自然と笑みがで出た。


「ウユニ塩湖っていうんだ。世界の鏡って言われているらしい。この前ここの写真見てさ、綺麗だったから見せたかったんだ」


 そうやって説明をしていると不意に横にある手に、桜ヶ平の手が乗っかる。

 彼女の手は、いつも暖かい。


「いいですね。もっと見ましょ、先輩。沢山、たくさんこう言う特別で綺麗な景色を一緒に眺めて、それこそ飽きるくらい見たいです。私、楽しいことを想像するのは、好きなんです」


 そう言うと、桜ヶ平は俺の手を掴んだまま立ち上がり、水の上をピシャピシャとその水面を実感するように音を立てた。


「おい、危ないって。案外狭いんだから」


「大丈夫ですよ。私と先輩とのこの距離はおそらく無限ですから。私と先輩だったらどこへだって安心して行けるんです」


 そう言っては彼女は俺の手を強く握った。


 そのせいで、彼女の手の暖かさはより顕著に俺を包んだ。


 これは幻のようなものなのだろうけど、そのおかげで白いワンピース姿であの麦わら帽子を被った、満面の笑みの桜ヶ平がウユニ塩湖の水面に立っているような景色が見えた。


 青空に佇む彼女に、ただ俺は見つめるだけだった。


 そんな風にして、俺たちのその場旅部二日目の活動が終わった。


 おそらく俺たちはこれからも沢山、たくさん旅をするんだろう。
























































             ⭐︎





             ⭐︎





             ⭐︎






































 それから俺たちは沢山の旅をした。

 二日目の、あの桜ヶ平の言葉を体現するかのように、世界各地どこへだって。





 オーロラを見た。






 エッフェル塔を見た。





 万里の長城を見た。






 ナイアガラの滝だって見に行った。





 マチュピチュだって見に行ったし、ピラミッドなんかにも行った。



 その他にも、沢山。たくさん。飽きるほど見れただろうか。


 彼女との旅だったら、どこへ行っても何を見たってただただ楽しく、幸福を感じれた。


 飽きることなんて、なかったよ。多分これからもそれは変わらない。


「じゃあ、次は桜ヶ平の番だぜ。次は、どこへ行くんだ」


 いつものあの部屋。そこで俺の言葉は、静かに、響くこともなく開けた窓の風に流されるようにただ打ち消される。

 ただ単に、俺の言葉が小さすぎただけなのかもしれない。


 俺一人の部屋で、この部屋は静かな沈黙をして俺に答える。


 いつものように見て来た景色に一人の少女がいない。




 思い起こせるのは、淡い緑色のガウン姿の少女がこのホスピスの一室にあるベッドに腰がけて、その屈託のない笑顔を浮かべる姿だった。


 その場旅部の活動は、この場所から始まったのだ。初日から、ずっと、ずっと。




「俺はお前と、桜ヶ平と、もっと旅がしたい...」



 独り言だ。消えいると分かってて、無駄にも言った。本心だった。溢れるような、本音だった。






 桜ヶ平 桃は十六と言う若さでこの世を旅立ったのだ。




 そんな一人の部屋に、扉は音を立てて来訪者を告げる。


「先生」


 姿を表したのは、ここのホスピスの先生だった。何度か、その場旅部の活動を手伝ってくれた先生だった。

 彼女は、桜ヶ平の担当医だった。


            ⭐︎



 桜ヶ平と出会ったのは、俺が小学校六年生の頃だった。


 親の虐待によって入院を余儀なくされた時に、彼女に出会ったのだ。ひとつ年下の女の子だった。


 その時から彼女は底なしに明るい女の子だった。その反面、俺は底なしに暗かったのを今も覚えている。


「ねぇ、友達になろ」


「これして遊ぼう」


「この本、一緒に読も」


 きゃっきゃと、なぜ彼女はこんなにも楽しそうに過ごせるのか、謎だった。


 ただ、太陽のように暖かい彼女のおかげで、幾分か世界が明るく見えたのは錯覚ではなかったのだろう。


 俺が退院しても、彼女は入院し続けた。


 だから俺は、毎日のように彼女の病室に通った。何をするでもなく、ただ日常の他愛無い会話を広げていたのを今でも憶えている。


 彼女が何か重い病気なのは、薄々分かっていた。周りの反応や、対応から入院期間の長さとかで。

 けれど彼女自身からは感じ取れなくて。


 どこか実感が湧かずにふわふわしていた。


 曖昧模糊にしたかったのだ。


 けれど、彼女がこの病院を離れてホスピスへ行くと決まった時、やはりこの現実は意味もわからず非常で、クソなのだと思った。内奥から泥のように暗くドロドロとした感情が生み出される。


 それでも、彼女の明るさは変わらなかった。


『先輩って、呼んでいいですか?』


 中学校に入ってから、彼女はそんなことを言った。それまでは苗字で君付けで呼ばれていてそちらで慣れていたが、彼女が先輩と呼び続けるせいでそっちの方がしっくりくるようになっていた。


『先輩、私旅がしたいです。部活がしたいです。』


 息巻いて彼女はそう言った。やりたいことを二つ言うとは強情だなと思ったが、それが桜ヶ平なのだと認識していた。


『と言うわけで私は、その場旅部を発足したいと思います!』


 その表情は、この先楽しくなるぞと告げているようだった。


『先輩、だから...付き合ってくれませんか? 部活動を。行けるところまで、この旅が終わる、最後まで』


 何故かその時の彼女の表情は、心配の色を呈していた。


 俺は静かに頷くと、彼女はまた木漏れ日のような笑顔を、影を照らすように向けた。


『楽しくなりますね...! 私、楽しいことを想像するのは好きなんです!』





 あの笑顔は、もうこの世界のどこにだって存在しない。


 人は、太陽が消えたらどうなるのだろう。


 想像に難くはなかった。


 光は消え暗く、底冷えする冷気に包まれる。


 とても、生きていけるような環境では無くなる。


 静かな絶滅だ。





            ⭐︎





「とにかく、はいこれ。涙を拭いて」


 そう言っては、先生はポッケに入れてあったハンカチを俺に渡す。

 先生に言われて、初めて自分が流す涙に気がついた。


「ありがとう、ございます...」


「この時間に呼び出してごめんね。今から学校でしょ? 大丈夫?」


「大丈夫、です」


 ありがとうございましたと言って先生のハンカチを返す。


「...それで、渡したいものってなんですか?」


 渡したいものがあると言われ、今日呼ばれた。


「...はい。これ」


 手渡されたのは一葉の手紙だった。


「渡してくれって、モモちゃんに頼まれたの。貴方にって。大切な手紙よ」


 封をした手紙には、先輩へと真ん中に、控えめに書かれていた。


「ありがとう、ございます」


 目が離せなかった。この手紙に。実感なんてないが、おそらく最後の桜ヶ平の言葉になるであろう手紙。


「今から、読む?」


 先生を見て、俺は頭を振る。


「...そう。じゃあ、約束通り渡したわ。もう少し、この部屋に居る?」


 空いた窓から風が吹き込む。その風に運ばれた桜の花弁が数枚ベッドの上に落ちる。


 俺は、また先生を見ては頭を振った。


「そう。なら、さようならだね」


 恐らく、俺はもうここへはこないのだろう。先生の優しく響く言葉が克明とそれを告げる。


「はい。さようなら。それと、ありがとうございました」


 今まで、とまでは続けなかった。


 俺はそんな言葉を残して、この場を後にした。


 桜の花びらはどこかに飛ばされたのか、もうベッドには居なかった。








            ⭐︎ 














 桜ヶ平の葬式は、先週ひっそりと行われたらしい。最後まであの帽子を持っていたよと、桜ヶ平のお父さんが言っていた。


 荼毘に付され、純白のワンピース姿の彼女はちゃんと空に行けただろうか。


 あそこまで空が似合ってたあいつだ。きっと行けてると信じる。





 あぁ、だめだ。彼女がもうここにはいないのだと実感すればするほど、眼から出てくる涙が止めどない。


 彼女の存在を感じたくて、俺はしまってあった手紙を取り出した。


 桜並木の道を歩く足が止まる。


 桜ヶ平の字で、先輩へと書いてある。それは確かに見たことのある彼女の字だった。


 正直な話、この封を外すのがとても怖かった。


 この、桜ヶ平が綴った最後の手紙を、言葉たちを観測してしまった時、彼女はもうここにはいないのだと言う実感が強まってしまうのではないか。



 ただひたすらに怖い。


 けれど。



 それよりも怖いのは。



 桜ヶ平の言葉を、待たせることだ。



 そうだよな。手紙が来たんだ。読んで、返信をしなくては。



 彼女を待たせては行けない。


 封を解くと、二枚綴の手紙が入っていた。



『先輩へ。


 先輩がこの手紙を読んでいる頃、恐らく私はもうそこにはいないのでしょう。

 なんだか、ありきたりな始まりすぎて、書きながら笑っています』



 とても、彼女らしい。いつだって笑顔なのが桜ヶ平だった。



『何を書こうかなと色々悩んでいたのですが、ここで率直に伝えておこうと思っていたことがあります。』



 俺は次の言葉を読んで、胸が痛くなる。



『私、先輩のことが好きですよ。友達とかじゃなくて、異性として。でも、私は勇気がない子なのでこの場を借りて告白させてもらいました。少し、卑怯ですよね』



 勇気がないのは、俺の方だよ。いつだって卑屈で、いつだってじゃあ俺は卑怯だ。最後まで、自分の思いを言わなかったのだから。



『この先、先輩が私以外の人を好きになって、色んな人と出会って、色んな事をして、いつか私のことを忘れてしまうんじゃないかとよく夜に考えていました。』



 ふざけるな。忘れるわけがない。絶対に忘れてやるものか。



『でも、それもいいのかなって今なら少し思えます。もし先輩が私を忘れたとしても、私と先輩が共に過ごして来た時間というものは絶対なのですから、その絶対の上に先輩が幸せになるのなら、それも悪くないかなって感じるんです』



 あぁ、絶対だ。俺と桜ヶ平が過ごして来たあの時間は、不変で絶対的なものなんだ。

 でも、お前が居ないのなんてどう幸せを想像すればいい?

 俺には出来そうもないのに。

 やっぱり彼女は卑怯だ。俺が幸せにならないと、彼女の言葉に答えられないなんて。



『一世一代の告白も済んだし、そうですね、感謝を伝えたいと思います。

 私と友達になってくれて、ありがとうございました。

 ずっと一人だったんです。病院には近い歳の人も居なかったし、入院していた期間も長かったから友達とも疎遠になっていて。

 そんな時に出会ったのが先輩だったんです。』



 何を言っているんだ。ありがとうって言葉は、俺が言わなきゃいけないのに。



『私、あの時本当に寂しかったんです。病院で一人でこのまま時が過ぎて、なんの思いでもなくこの世を去ってしまうんじゃないかって、不安で仕方がなかった』



 彼女はいつだって楽しげで、幸せそうで。でも、そうだよな。それが普通なんだよ。怖くない筈がない。


『でも、先輩のおかげでそれからは楽しかったんです。本当に、本当に幸せだったんです』



『生きる希望をくれて、ありがとう』



 その言葉を見た瞬間、言いようもない感情が、万感がこの身を苛む。


 それは、俺なんだよ。


 それを言わなくちゃならないのは俺なんだよ。桜ヶ平。



『先輩は覚えていますか? その場旅部の活動で、先輩が見せてくれたウユニ塩湖のこと』



 覚えているに決まっている。忘れるべくもない。



『あの日は、色々特別な日だったんですよ? まず先輩が私のことを初めて桜ヶ平って言ってくれて。それまでずっとお前とかだったから、とても嬉しかったんです。それに、先輩がくれた麦わら帽子。あれはとても素敵でした。絶対に、一生大切にしようって思ったんです。もう、返せって言っても返しませんからね?』



 当たり前だ。あれはもう桜ヶ平のものだし、きっとあの麦わら帽は誰よりも似合っていた。



『空の中のようなウユニ塩湖も綺麗でしたけど、その他の旅で見た景色もとても綺麗でした。

 その場旅部は、私にとってとても大切で、特別なものなんです。

 だから、とっても楽しかった。先輩と見たオーロラも、満天の空も、エメラルドグリーンの海も、あの空の鏡も、全部偽物だったとしても、全てが何よりも綺麗に見えたんです。』



 あれを、偽物なんて呼ばせない。どんなに虚構の映像で、どんなに現実に及ばなくたって、その場旅部で見てきて、感じてきたあの全ては、世界のどの景色よりもきっと美しく本物だ。



『ふふ、その場旅部のことを考えていたらマルタで猫耳を付けたことを思い出してしまいました。私の猫耳姿、どうでしたか? 先輩のあの慌てようは見ていてとても楽しかったです』



 猫が怖いと言っていたから、彼女は猫の素晴らしさを伝えるため、マルタという国にその場旅部の活動として行ったことがある。

 マルタは野良猫が多いと聞いたが、まさかその野良猫役を桜ヶ平がやるとは思わなかった。

 あの時は、非常にドギマギしていたことを覚えている。



『あ、そうだ。先輩。私のお墓参りに来る時犬耳をつけてきてください。私先輩の犬耳姿が非常に見たいです。私だけ猫耳したし、これでバランスが取れる筈です!』


 なんのバランスだとは思うが、犬耳か。それで、彼女が喜んでくれるならつけてもいいかなと感じる。

 流石に一人の時だけれど。


 そうやって彼女を笑わせに行くのも、悪くない。



『本当は、もっと先輩と旅がしたいんです。でも最近体がうまく動かなくなってきたり、体が痛くなってくることが多くなってきてもうそろそろ先輩との旅が出来なくなるのだと感じてきています』



『おそらく、もう長くは先輩と旅ができない。』



『でも、私がこれまで、それから長くはないと思うけれどこれから旅をする旅路は、私と先輩が確かに紡いできた思い出なのだと思うと怖さは何も感じなくなってくるのです。』



『そして、こうとも思いました。先輩は私が居なくなっても、この世界に残って、またその足を進めて、また旅をする。その行く末を考えると、私は幸せを感じるのです。越し方が私で、行く末が先輩で。そう考えると、素敵に思えるのです。』




『私は、先輩のおかげでとても幸せでした。』



『だから、そんな私だから貴方のこれからの旅路を思うことが出来る。』



『この先にある、先輩の旅路は幸福なものであると感じることができる』


『だから今日も、私は旅ができるのです』


『さようなら。それと、ありがとう。貴方のことがずっと、ずっと好きでした』



              『桜ヶ平 桃より。』



 最後まで読むと、その手紙には数枚の桜が舞い落ちていた。その桜はぼやけていて、とても見にくい。


 彼女は、沢山のものを俺にくれた。思い出も、感動も、楽しさも、幸せも。

 どれもこれも煌びやかで、溢れてしまいそうで。





 前を見ると、桜の花びらが道を作っていた。




 嗚咽混じりに俺は一歩、前へ出る。




 桜が舞う。




 太陽がさす。




 俺は今日も、旅に出る。













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その場旅部 やせうま @nakamon

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