34話-喪失-

 家屋や建物の屋根から屋根を走り、走り、走り続ける。

 走り続けて、私は逃げていた。

 


「どこ行く気っすか」


 逃げた先に、さっき撒いたはずのイメルダが待ち構えていた。

 近道経由で回り込まれたのだろう。

 彼女も元【霧】であるとはいえ、逃走ルートを簡単に予測される程に、私のスパイとしての腕は鈍っていた。


「そもそも法的手続きも無しに、国民を拘束なんて許されないはずでしょ」


「【霧】が法律無視して敵の国に潜伏することなんて日常茶飯事っしたよね。【霧】のメンバーならこっちも法的手続きなしに拘束しちまうこともやむなしっす。それに、今の貴方は、……」


 そこまで言って、あえて口を止めてくるイメルダ。


 誰でもない。

 少なくとも櫻宗人ではない。

 最早人かどうかも怪しい。

 そんな奴の拘束に、法的手続きなど必要ない。


 口では言わずとも、彼女の視線がそう語っていた。

 あえて口にしなかったのは、かつての彼女自身もそうだったから、だろうか。

 

「ごめんなさい……行きたい場所が一か所だけあるの。あの場所で用を済ました後なら、終身刑にでも死刑にでもすればいいわ」

「まさか【彼】のところに?」


 私の行く場所を、あっさりと喝破するイメルダ。

 彼女にも、見抜かれていたようだ。


 【霧】の解体が事実上確定した今、少女時代から【霧】の工作員以外の何物でもなかった私のアイデンティティは喪失したも同然。

  ただ、唯一はっきりしていることがある。

 【彼】の知人であり、【彼】に命を救われた人間でもあるということ。


 自分が誰なのかを探ったとき、本能的に足が彼の場所へと走り出していた。

 腐敗した【霧】が解体することなど、どうでもよかった。

 ただ自分が誰で、これからどうあるべきかの答えを請うためだけに、この時私は走っていたのだ。


「あいつの言うことを信じちゃダメっすってば。【霧】も上層部の老害たちも、他の誰でもない、あいつの手によって守られてきたんすから。あとあいつは……」


 耳に入って来るイメルダの声も、私は意識的に遮断した。

 【彼】の手が私以上に血で染まっていることなど、とっくの昔に承知済みだ。

 だがそれでも、私に生き方の指針を教えてくれたのは【彼】なのだ。


 この後、拘束されてもいい。

 その後、死罪にされてもいい。

 ただ、自分は誰となればいいかだけを私は【彼】に問おうとしていたのだ。


 二十を超えた人間が、今後どうしていけばいいかを他人に委ねるのが、いかにみっともなく、情けないことかは自分でもわかっていた。

 私が騙した【ロングデイズジャーニー】の少女たちは、十代でありながら、アイドルになりたい、という夢のために自らの意志で動いていた。

 自分の意志で何かを決めることができない今の私は、国家の工作員でありながら、自立心は彼女たち以下だったと言っても過言ではない。




「ともかく姉さん、悪いことは言わねーっす。あいつのところなんか行かずにアタシたちの場所へ」




「言ったでしょう、行くところがあるって」


 二本目の催涙ガスを撒いた。


 本来ならば、イメルダのように新しい主人を見つけ、新しい情報部の下で仕えることこそが賢い選択なのだろう、とも思う。


 だけど、私は彼女ほど柔軟に生きられない。


 自分が数知れない国民を裏切った事実を前にして、制裁を受けないままにすんなり新組織に移行することを、自分自身が許さなかったのかもしれない。


 だが後にして思えば、この逃走にはそれ以外にも本能的な理由がもう一つあった。


 【霧】の解体が無くなった今、捕まらずに逃げて、体を動かして、自分が生きた人間であることを実感しないと、自分の存在自体が霧散してしまうような気がしたからだった。




◆   ◆   ◆




 その場所は一見、裕福な人々が暮らす高級住宅街。


 しかし、実際は違う。


 ここは、【霧】の構成員の隠れ蓑となる疑似居住区である。


 ショッピングモールからデパートに至るまで、店員はおろか出歩く客も皆【霧】の構成員。


 この高級住宅街自体が、偽造都市の様相を呈しているのだ。


 




 今では、この街の様相が少し違った。


 普段この街を出歩く際、何人かの通行人―――を装った工作員とすれ違ったし、家族連れもいた。


 今では、人っ子一人この街を歩く者はいない。


 ゴーストタウンでも、もう少し人の気配がある。


 うすうす【霧】に何が起こったのかを実感しつつも、私は更に歩みを進めた。


 人でにぎわっているはずの都会に人影が一つも見当たらない異常な光景は、私の焦燥を更に家族させていた。


 十分ほど走り続けた後、私はとある建物にたどり着いた。


 立ち並ぶ高級住宅のうちの一つでしかない、三階建ての一軒家。

 近代化以前の豪商を祖先とする名家の豪邸という名目の住宅というのは、あくまで偽造した設定。


 【霧】の上層部が、最も頻繁に使用する隠れ蓑だった。




 玄関を開けて廊下を横切る間、ある一人の中年男性の姿が目に入った。


 【霧】の最高権力者の一人、ゴンゾウ・ヤグルマ。


 彼は今、顔の原型が無くなるまで殴られた状態で、手足を縛られて廊下にふさぎ込んでいた。


 もう少し歩くと、【霧】の幹部たちが同じように凸凹の顔から血を流して倒れ込んでいるのが見えた。

 全員【武侠閣】での保衛部との会談に出席した人物だった。


 彼らが誰に何をされたかは、凡その検討がついた。

 その理由も、何となしに。


 【霧】で仮想敵国と取引してでも権力を維持しようとしていた男たちの、哀れな末路と言えた。


 私は彼らを見下すように一瞥だけした後、目的地へと速足で進みだしていた。



 応接間には、誰もいなかった。


 書類、フィルム、テープ、椅子や家具、とにかくその場に合ったありったけの可燃物が集められ、火を点けられ、灰と化していた。


 この場にいた者たちが証拠隠滅のために、【霧】に関する資料の一切合切を処分しようとしていたのだろう。

 彼らがどこへ消え失せたかは、知る由もないし、今の私にはどうでもいい。

 私にとって重要なのは、直属の上司の存在だった。


「同じ諜報員の救出は却って命取りになる、と教えたはずですよ」


 果たして後ろから、【彼】の声が聞こえてきた。


「情報を具体的に確認することは命取りになる、とも教わりました」


 【彼】は拳に付着していた血を、ハンカチで吹いていた。

 おそらく、ヤグルマたちの血だった。


「それよりも、どういうことですか、なぜこのエリアがもぬけの殻になってるんですか」

「寝返り、亡命、拘束、ハラキリ。あちらさんには、かなり有能なブレーンがいるようですね。政権交代が決定した瞬間、あっという間に【霧】の各メンバーが分断されたようです。わかりますね?」


 そう言われて、現状を察することができない私ではなかった。

 二十年間の工作活動で、最小限の言葉からの状況把握はそれなりに身に着けている。




「実質、【霧】は空中分解したのです。同僚とあまり連絡を取らない主義の貴方には、情報が入ってこなかったようですがね」


 ある者は国外へ、ある者は新政権の新組織へ、ある者はあの世へ。

 様々な構成員たちが組織を見切り、離れた結果、【霧】は存在を維持できなくなったらしい。


 エリア一帯がもぬけの殻となったのも、管理者である組織が瓦解したのが理由だった。


 まあ、無理もないか。組織の支えとなる政権が支配の座を降りた後なら、法の網を沢山くぐってきた工作活動を糾弾される可能性が高い。

 まして、近年の組織は仮想敵国と癒着していた。

 戦後の二十年の中で腐敗した【霧】は、知らず知らずのうちに求心力を失っていたようだ。


「それよりも」


 そう言って話題を切り替える【彼】は、真正面から私の顔を見据えていた。


「なぜここまで早く、他の工作員が決断をできたかあなたにわかりますか?」


 そういわれて、すぐに応えられない自分がいた。




「国のため、人のため、自分のため。何のために動くのかというその輪郭。いわば自らの【在り方】を、彼らははっきりとさせていたということです。少なくとも、貴方よりはね」



 相変わらずの、その特徴のない、どこにでもいそうな【彼】の風貌。

 その風貌に、私は今までにないくらい気圧されていた。

 

 見抜いていたのだ、この男は。

 政権が交代した今、【霧】の一員だった私がどうしていけばいいのか。

 それを問うためだけに、今私がこの館に来たことを。



「わ……私だって!! 私だって今、国のために……」

 


 


 慌てて言い返そうとする私に、【彼】は錠剤入りの瓶を手渡した。


 自決用に使う毒薬、ということは聞かずとも文脈から判断できた。




「国の為というなら、あなたにもう存在意義はない。その国がもうあなたを必要としていないのだから。今この場でその毒薬をあおれますか。構成員十二名がすでにそうしたように」


 そう言われた私は、覚悟を決めて瓶のふたを開け、上に掲げようとする。

 今までの二十年、私は国のために生きてきた。国が私を必要としなくなったのなら、甘んじて受け入れるまでだ。



 ―――トクン。トクン。



 一瞬の、迷い。



「遅い」



 【彼】の声が聞こえたかと思うと、もう手元に錠剤はなかった。

 いつの間にか私の後ろに回り込み、近くの棚に錠剤を置きなおす【彼】。

 


「大体自決するなら、普段から毒薬は自分で常備しておくべきでしょう」



 【彼】はそう言った。

 迷った私を見て、少し笑いながら。


 嘲笑だったのだろうか。

 これは後で思ったことだが、そもそもあの瓶に入っていたものが毒薬だったかどうかも怪しかった。



「……あの秘密会談での私の立ち位置、明らかに欠陥がありましたよね」


 私はとっさに目と話題を逸らした。

 気まずい空気には何度も耐えてきたはずなのに、今の私にはそれができなかった。



「えぇ、いっそテロリストに、あの部屋を盗聴されればいいとすら思っていました」

「やっぱり、あなたはわざと盗聴させてたんですね……」


 この男の画策で、政権―――今や旧政権―――の腐敗は暴かれ、総選挙は野党の勝利に終わり、政権は交代した。

 それは彼自身の手で、【霧】を壊滅させた、ということを意味する。



「なぜ、私に伝えてくれなかったんですか。あなた自身がわざと画策して【霧】の腐敗をばらした、と。 

 私が知っていれば、この状況は変えられなくても今この場であなたを弁護することだってできます。今この状況でご自身の命が危ないことは、あなたにだってわかっているはず」

「弁護して何になるというのですか。先の戦争で、散々工作活動によって敵も味方も血祭りにあげてきた男を」




 【彼】のその言葉は、自分こそが私たちに指示を出し、数多くの人間を騙し、脅し、時に殺してきた張本人である、と暗に示唆していた。

 そして政権が交代した今、この男がその罪を何一つ言い訳せずに、自ら清算する予定であることも。



「ま、こういう事態になる直前に、君をあのプロジェクトに参加させられたのは、幸いでしたがね」




 その時。


 いつもはつかみどころがなく、写真と話しているような印象を与える【彼】の目に、人格が浮かんだ気がした。


 穏やかで、優しい。


 一言で言えば―――父親のような。兄のような。





「どういうことです……!? 私が参加したプロジェクトって」

「昔話を聞いて下さい」


 すぐにいつもの捉えどころのない目になった【彼】は、静かに語り始めた。


「あの開戦は、私たちの世代が工作によって始めた行いだ。その結果が、何百万もの兵士、そして君の両親を含む民間人の死だった。あの戦争が終わってから二十年、私は贖罪の為にも、【霧】の活動によって国を守らなければならなかった」


「えっ、そんな……」




 私を助けた【彼】は、同時に私の両親を殺した戦争の勃発に関わってもいたということになる。


 



「戦後の混乱から国を守り、同時に政治家の腐敗を監視する組織として【霧】を動かしてきましたが、今廊下で倒れ込んでいるあの老害の思惑を見て、【霧】もここまでだと確信したのですよ。そして思ったのです、この諜報組織も、それを支援する政府組織も、当然私自身も、国を掌握する地位から降りるべきだとね」




 この男は今、自分すらも巻き込んで【霧】を潰したというのか。

 それはそれをやってのける豪胆さのある人物だし、動機も理解できる。

 だが疑問がまた一つ湧いた。




「なぜ【武侠閣】のあのホテルに私を配置したのです?」

「あなただけ、なんだか放っておけなかった。腐敗した【霧】に所属する、あなた自身がね」

「なぜ私一人なんですか? 私と同じ年代のスパイなんていくらでも……」



 いくらでもいるのに、とまで言いかけて、彼のかつて言った言葉を思い出した。

 私程、自分に無頓着な人間も珍しい、と。



 しかもついさっき、【彼】はこうも言っていた。


―――自らの【在り方】を、彼ら(他の【霧】の諜報員)ははっきりとさせていたということです。少なくとも、貴方よりはね。


 と。



 ……ッッ……


 いつの間にか、体が震えていることに気が付いた。

 いついかなる時も冷静沈着でいなければならない工作員としては、恥ずべき行為かもしれないが、それでも抑えることはできなかった。


 この感情の正体は何なのだろうか。

 勝手に私を助けておいて、勝手に自分で罪を清算しようとする【彼】への怒りか。

 自分一人だけ、【在り方】を決められていなかったことへの恥辱か。

 それとも、【霧】と【彼】がいない未来の自分自身を考えたがゆえの悲しみか。


「……あなた、自分で卑怯だとは思わないのですか? ずっと私を国家のために動かしておきながら、自分はやりたいことのために動いていただなんて」


 混乱した感情のはけ口が欲しかったのかもしれない。

 感情に任せて、私は【彼】に詰め寄っていた。


「そう思うなら、君もこれからは【霧】とは関係ない、自分の人生を生きるべきだ。他の構成員たちと同じように」


「知ったようなことを言わないで。あなたに拾われてから今まで、私にはこの生き方しか……」



 私には、自分を自分だと証明してくれる誰かがいない。


 年下の少女なら、家族がいる。

 

 少し年下の女子なら、親友がいる。


 同年代の女性なら、恋人がいる。


 だが、私には誰もいない。


 本当の、今ここにいる諜報員としての私のことなどだれも知らない。

 私のことを知っている者は、私が工作活動の中で装った仮の姿を知っているに過ぎない。

 二人のアイドルたちが、そうであったように。

 


 【霧】が腐敗し、やがて解体しつつある今、私には、私を私たらしめてくれる存在が誰もいない。

 いるとしたら、戦火の中で死ぬはずだった私を救い、スパイとして育て上げた、目の前にいる【彼】。

 だが目の前の【彼】すらも―――




 そうなれば、自分が誰かわからなくなる。

 そうなれば、当然どう生きるべきかも理解できない。


 死ぬことは怖くない。

 だが何者でもなくなることは、なぜかどうしようもなく怖かった。


 意味が分からなかった。

 自決することもできずに、今途方に暮れている自分自身が。


 視界が歪んでいた。


 その歪みが自分の涙故だったことは、ずっと後になって気づいたことだった。




「あなたは卑怯よ!!! あの時私を救ったんだったら今私の【在り方】も教えてくれればいいじゃない!!!!!」




 気が付いたら、叫んでいた。泣いていた。


 こんな言葉、昔の私だったら潜伏先での芝居でしかいうことがなかった。


 昔だったら、私はこんな状況でも冷酷なスパイでいられたはずなのだ。


 だが今、工作員としてのマナーも、節制も、私の中ではとおに失せていた。


 工作員としての人生こそ、私の全てだったのに。


 工作員としての行動ができないなら、今叫んでいる私は誰なのだろう。


 脳内をそのような疑問が駆け巡りながらも、それでも感情が制御できなかった。

 疑問よりも先に、本能が恐れていたからだ。

 自分の【在り方】が、わからないことが。


 しかしそんな自分にさえも、【彼】はこう返した。


「自分の【在り方】を見つけるのは、いつだって自分自身でしょう」


「っ……!!」


「ヒントは与えたつもりです」



 ヒントと言われて、私は直前に【彼】が課した任務のことを思い出した。


 ―――トクン。トク―――

 

 やがて私の中に、再びあの鼓動が響く。

 しかし私は、その鼓動から必死で意識を逸らした。

 その少女たちを私は騙し、見捨てたのだ。

 今更彼女の元へと戻る資格なんか、私にはない。


 そんな私に呆れたのか、【彼】は黙って視線を逸らした。

 ガラス窓の先の道路―――そこを走る装甲車と、そこに載っているであろう人員のことを考えていたのかもしれない。


「とりあえず今は、自分の安全を心配したほうがいいのではないですか」


「ちょっと待って!! 私は他の皆とは違うの!!!! 私には何もない!! 何者でもないし、だから【在り方】なんかない!! 今の私には何もないし、何者にもなれない!! 何も……!!」



「何もないならなぜ、自決できなかったのですか」

「ッッ…………」



 またしても、言い換えせずに口ごもる。


 泣いて押し黙りながら、これは罰なのかもしれない、と思った。


 私に騙されて、偽の映画撮影に本気で挑んだ少女。


 私に騙されて、偽のアイドルプロジェクトに本気で挑んだ目の前の二人。


 数多の人間に、偽りの生きがいを与えて騙してきた私が、今生きる目的を奪われている。


 絵に描いたような因果応報だ、と思った。


 本来なら自分には、泣く資格すらないのだろう。 





 ぼんやりと、足音が聞こえてきた。

 恐らく、親民党派によって、この場所すらも捜索の手が回っているのだ。

 このままだと、【彼】と私も拘束される。


 いや、違う。

 【霧】の幹部である【彼】は、恐らく拘束では済まない。

 恐らくは、イメルダの言う【法外の処置】、その極北にあたるものを受ける。



「時間です」


「ま、まだ話は終わってない!! このまま私に何も言わずに死んだら一生貴方を恨……」


「さよなら、」


 ―――


 カナエという言葉が、胸のどこか奥深くに突き刺さった。


 その名前は、アイドルのプロデューサーとしてチェルージュに赴くために使う、あくまで一時的な仮称でしかなかったはず。



 ―――なぜ、私をその名前で呼んだの?



 視線による私の問いかけにも空しく。




 目にも止まらない俊足・一切の無駄のない動きによる体当たりで、思いっきり私を窓の外へと叩き出す【彼】。

  鉄山靠――六千年以上前より宋慶国の寺院に伝わる格闘術の奥義――【彼】の技は、筋肉質とは言えない体格で部屋の中心にいた私を壁際までふっ飛ばし、後部の窓ガラスすらもぶち抜かせた。


 窓の外側にベランダなどはなく、私は真っ逆さまに屋外の庭へと落下していく。




 ほぼ無意識で【霧】のスパイとして初年に習った受け身をとり、ほぼ無意識で横になったままガラスの破片をよけながら庭の芝生へと着地した、その直後。




 さっきまでいた部屋から、耳をつんざくほどに響く銃声が響き渡った。


 確かめるまでもない。


 あの部屋に入り込んだ現与党側に属する組織の銃弾が、【彼】の全身を蜂の巣にする音だった。


 あの男なら銃の掃射から回避するなどたやすいことだが、彼の発言から言ってその可能性は限りなく低かった。

 





 死んだのだ。


 私を死地から拾い、【霧】のスパイとして育て上げた【彼】は、今。





 【彼】の死は、私のスパイとしての活動の終わりをも意味していた。

 【霧】と【彼】の存在こそが、私がスパイとして行動する理由だったからだ。



 数十秒後だっただろうか、それども数時間後だっただろうか。


 途方に暮れてただただ静止している私の周りを、武装警官が取り囲んだ。


 【彼】は私を逃がすために窓から突き落としたはずなのに、走るどころか立つための力すら入らない。


 


 人は目的があるからこそ立つし、歩くし、移動する。


 今の私には、何もかもが見えなかった。


 一秒先の目的すらも。


 守るべき国は根底から存在が変化し、所属していた組織も、従うべき上官も失った。


 いっそここで一思いに―――と沈黙しているうちに、武装警官が私の両腕を掴みかかり、手錠をかけた。


 ユニフォームが、政権交代前に見たものとは微妙ながら明確に異なっている。


 新政権によって再編された警官の、一新されたユニフォームなのだろう。




「【彼】のこと……裁判なしに銃殺したわね」


「とぼけちゃいけねーっすよ姉さん。法を度外視しまくってた【霧】で最も有能な諜報員とくれば、法以外のやり方で裁くのが最適っす」


 そう答えるイメルダの顔は、憎悪で歪んでいた。

 恐らく私のように【彼】に救われた人間が多いように、彼女のように【彼】に何かを奪われた人間も多いのだろう。


 黒服の男性たちが、私の体を背中から羽交い絞めにした。



「……何する気?」

「決まってるっしょー。スパイの【保護】っすよ」




 ここで言うスパイは、【霧】の一員ということだろう。




「【保護観察】するんっすよ。スパイが二度とおかしな工作活動ができないようにね。まして、隣国に【歌声】があるだなんて【虚偽】の情報を提供したスパイはね」


 その虚偽の情報は上が……と言い返そうとしたが、言葉が声にならなかった。

 この時私は、放心状態だったのだ。



「心配しねーでください。貴方には二、三の質問に答えてもらうだけ。尤も、二度とスパイ活動は行わないようにしてもらいますけどね」


 なるほど。


 こいつら、私を二度と自由にで生かさないつもりだ。



 恐らくは軍事政権残党への見せしめとして、わたしに24時間体制での監視を行うつもりなのだろう。

 私が【彼】のように銃殺されなかったのも、殺すより生かすことによる苦痛を与えるためらしい。



 システムの歯車として生きていくのかと思っていたら、システム自体が崩壊してただの歯車になる。


 かと思えば、また別のシステムの中に組み込まれて歯車となる。


 昔見たサイレント映画のようなコメディそのものの人生を、今私は歩み出していた。


 私は連行され、刑務所に贈られた。

 乗せられたパトカーから、ふと街の光景が見えた。


 人っ子一人いない、空虚な街だった。

 今の、私のように。



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