1話-導入-


「おっはーぁ!!」

 自分で言っててめまいがしてくるような死語を挨拶にして、私はトラックの運転手に声をかけた。

 

 トラックのサイドミラーに映る今の私は頬はノーメイク、しかも煤で汚れていて、髪もボサボサ。

 動きやすさを重視したズボンとシャツとコートは、おおよそオシャレという言葉を理解している女性の風貌とは言えないだろう。


 予想通りトラックの運転手も怪訝そうな顔で見つめてきたが、その視線が私の胸につけられたバッジに向いたとたん、一気に彼の表情は変わった。

 急に目を血走らせてトラックを発車させようとするが、時すでに遅し。

 車道へと飛び出すトラックのステップへと足を登らせた私は、最速の動きで鍵穴に針金を滑らせ、ドアを開けて助手席に座り込んだ。


 彼の恐怖の原因である私の胸につけられた六角形のネームプレートは、組合員の証だ。

 このプレートの持ち主との関係が雇用主にバレれば、この運転手は即日解雇され路頭に迷うことになる。


「いやぁー、まさか兄さんがここまで来てるやなんて、思いもしませんっしたわ!!」

 彼にに確認も取らずにタバコを吹かせた後、(敢えて)わざとらしく国内西部の方言を強調させて、笑顔でその運転手に接する。

 私の笑顔とは裏腹に、運転手は銃口を突きつけられているかのようなおびえ切った視線を返してくる。

「幹部にバレたら殺される……言わないでくれ」


「なら言いなはれや」

 至近距離でならわかる程度のどすを効かせて、私は運転手に向きなおる。

 ハンドルを持つ両手が恐怖で震え、トラックが微妙に左右しているのがわかる。


「連中の居場所と、計画の詳細」

 トラックは依然道路を直進中だったが、運転手の緊張ぶりから言っていつ運転席から外へ飛び出してもおかしくはなかった。

 そうなれば軌道を失ったトラックが大事故を起こすことは必至だったので、そうならないように運転手の肩に腕を回す。

 


 数日前、この運転手は、とある商業組合の会合に出席していた。

 別にただの商業組合であれば、赤の他人の私が関わる必要はない。

 問題はこの商業組合が、犯罪組織と関係を持っており、とあるトラック倉庫の爆破を画策していた、という点だった。

 犯罪組織のOBから(恩赦と引き換えに)その計画、及び会合の出席者の情報を掴んだ【某所】は、私に出席者の一人―――今トラックを運転しているこの中年男性を尾行する指令を下した。



 警備が厳重だったこと、歓楽街の中心部に位置していて人の目が多かったことがきっかけで会合場所に直接乗り込むことはできなかったが、会合場所付近で待ち伏せし、この男性が出ていくところに軽くあいさつした。

 彼が仕事中に私と会うことは、この計画に彼が関与していたことが明るみに出る可能性を示唆していた。


 詳しい情報は割愛するが、結論を言うとその運転手は求める情報をすべて打ち明けてくれた。

 自らの生活と過激派組織のテロを天秤にかけた結果、前者を選択してくれたのだ。


「情報代や。おおきにっ」

 3枚の1万えん札を、運転手に手渡した私は、信号前で停止中のトラックからそそくさと降りた。


 人の集まるビジネス街では、いつどこで誰が誰の視線に留まるかわからない。

 私がトラックから出る直前まで、運転手は誰かに監視されているのではないか、と、気が気でない様子だった。


 トラックから降りた後通りを歩いていると、正面から黒服の男が歩いてきた。

 黒服の男とのすれ違いざまに、何気ない仕草でネームプレートを外し、彼の胸ポケットへと入れる。

 ネームプレート―――の形をした盗聴器には、今しがた運転手の語った内容が録音されている。

 プレートを受け取った彼は、櫻宗国国家諜報組織―――【霧】の構成員。


 【霧】の元でスパイ活動を行って国家を危機から防ぐ【姫君】。

 それが、私が物心ついた時から持っている肩書きだった。


 ■   ■   ■


 ここは、とあるアパートの一室。

 机には料理の食べ残しがあり、生活感のある部屋だ。

 その部屋のリビングのテーブルに、私は座している。

 自分がこの部屋の住人ではないにもかかわらず、だ。

 それどころかこの部屋は、私にとって今日初めて目にする場所だった。


 本棚には読んだこともない漫画本や、ライトノベルばかり。

 つまり今日新居に入った、というわけではない。


 トラック運転手から爆破計画の情報を聞き出し、その全貌が記録された盗聴器を同胞に手渡した直後、私はそこから徒歩で行けるアパートに歩みを進めた。

 そのアパートの一室の住人に声をかけ、少々の間、部屋の主に頼んで、数分の間だけ部屋を貸してもらったのだ。

 当然、その部屋の主ともその時が初対面だ。


 初対面の相手に、自分の住処を貸してくれと相談する。

 職業柄、この程度のことは当然できなければならない。

 情報を引き出すためには、交渉術は基本なのだから。


 一瞬の瞬きの後。

 テーブルをの向かい側に、【彼】はいた。


 季節感のないトレンチコートに身を包んだ彼は、私の存在を確認すると、被っていたトレモントハットをそっとテーブルの上に置いた。

 今目の前には、私の直属の上司である【彼】が、素顔を晒している。

 スパイに接触する人間としては、このように簡単に素顔を晒すのはやや不用心だ。

 しかし彼の場合、個人を特定される恐れのある行為をしても問題にはならない。


 印象に残らないのだ。


 美形でも不細工でもない。

 体育会系でもなければ文化系でもない。

 高身長でもなければ低身長でもないし、筋肉質でなければ虚弱体質でもない。


 全てが櫻宗人の平均点。

 彼を一言で形容するとすれば、【普通】【凡庸】だろうか。


 あまりに印象に残らないこの男なら、街で歩いていても人間として意識されず、演劇や映画、あるいはテレビドラマのエキストラ―――そういった【取るに足らない人間】という印象を、万人から持たれるだろう。

 そしてその印象を持たれた後、すぐに忘れ去られる。

 彼とともに仕事をした人間ですら、数日後に名前を聞かれれば【こんな奴いたっけ?】と考えていることだろう。


 【霧】の間では、この男―――【彼】はこの無個性な風貌と体格を身に着けるために櫻宗国の最先端技術を使って整形・人体改造手術を受けた、などという噂もまことしやかに伝えられている。

 私にとって、そんな過去の真偽不明な話はどうでもいい。

 重要なのは、目の前の【彼】が、誰からも会ってすぐ忘れられそうな人間を演じ切ることのできる、スパイという影に生きる存在として完璧な人物であるということ。

 そして、そんな【彼】にスパイのいろはを教えられたからこそ、今の自分が国家直属のスパイとして活動できている、ということだった。


「例の情報は得られましたか?」

 まるでずっと前からそこにいたかのようなたたずまいで、【彼】はそこにいた。

 個性を消すため、部下の私に対しても敬語を使っている。


 私は彼の質問に相槌を打ちながら、彼がなんの予兆も見せることなくいきなりこのマンションの一室の、

私の眼前に姿を現したことについて考えを巡らせていた。

 彼が現れる直前、足音もドアの開閉音も聞こえなかったし、空気の乱れすら感じられなかった。


 ファンタジーや、メルヘン、あるいはSFじゃあるまいし、

 彼は姿を消す魔法や透明人間になれる薬で姿を消していたわけではない。(視覚情報を狂わせるマントは開発中らしいけど)

 どんな人間にも、油断という名の誘惑が襲うタイミングがある。

 この男には個人個人が持つその油断のタイミングを読むことにかけて、天才的な才能がある。

 人が油断した隙を突いて入り込んでくるため、結果的に何もない場所からいきなり現れる風に見えるのだ。


 しかし私も、一介のスパイだ。

 職務上、会話においても移動においても、先ほどまでのように静止して待つことにおいても、油断という名の魔物には人より誘惑されない自信がある。

 それだけ、目の前のこの男の【油断のタイミング】を突くスキルが規格外だということだ。

 

 この男も私に同じく元スパイだった、なんて話も利くが、詳しい素性は私も知らない。

 たとえ彼が、私のスパイとしての師匠であり、幼くして天涯孤独となった私の育ての親であったとしても、だ。

 



「6号に聞いたら、犯行の詳細が記録された盗聴器を渡してくれるはずですよ」

 ついさっきまで運転手に対して使ってた西部の方言とは真逆の、標準語の事務的な口調で私は答えた。

 トラックから降りた時点で、西部の方言を語る情報屋は死んだのだ。

 各任務ごとに行う【変装】の仮面を、私はそうやって何度も使い捨ててきた。


 

 今この時間に赤の他人の部屋を借りたのは、上司である彼と待ち合わせるためだ。

 最近になってお茶の間でも浸透しだしたカラーテレビで流れる映画やドラマでは、政府の施設内で厳重に警備された執務室にスパイとその上官が集まり、作戦会議を開く、という光景をよく目にする。

 しかし我々が集まったのは、警備などみじんも用意されていない一民家の一室だった。



 これにはそれなりの理由がある。

 要するに、情報局や諜報員の一室であればどんなにセキュリティを厳重にしても盗聴される危険があるが、民家の一室で交わされる他愛無い会話であれば興味は示されないし警戒もされない、というわけだ。

 木を隠すには森、という、合理性のみならずセキュリティ面のコストでも合理的な理念の元、集合場所はこのどこにでもあるアパートの一室に決まったのであった。




「それはご苦労。午後は息抜きに映画でもどうですか」

 そういって、複数の映画チケットを見せてくる彼。

 二つ折りにされたセロテープサイズの小さな紙が被さっているのを見た。

 次の指令の書かれた紙を、私はいつもこういう回りくどい形で手渡される。



 自然な動きでその折られたチリ紙をゴミ箱に棄てつつ、紙の裏側を見やる。



【歌声】



 記された二文字に、少し動揺した。

 特定を避けるため略されているが、一見平和なイメージの【歌声】が、今の我々にとって何を意味しているかは明白だった。

 一都市の文明社会を丸ごと消し去る爆弾。

 先の大戦で覇権国家が創り出してしまった負の遺産。

 隣国・チェルージュがその実験に成功したというニュースを受けて、マスコミや民衆の間には、不安を隠せない空気が蔓延している。



「あなたに、潜入捜査命令が下りました」

 いよいよか、という気分にさせられた。

 チェルージュでの兵器製造施設への潜入作戦は、事前に諜報機関の間でも取りざたされていた。

 【彼】からもそれとなく海外への潜入捜査については仄めかされており、私も前々から心の準備はできていた。

 なお、どの地点にその兵器製造施設があるかは、近年打ち上げられた人工衛星の観測結果とチェルージュ側のテレビ放送の映像を照らし合わせた結果、南部の都市・ヒルリに位置しているという。



「しかし、どういう形でチェルージュに入り込めばいいんです? 密入国がバレたりしたら、私一人の犠牲では済まないと思いますけど」


 私は映画のチケットに視線を向けたまま彼に聞いた。

 端から見れば、少しクールな兄妹が休日の予定について話し合っているように見えるだろう。



 死ぬのは怖くない。

 目の前の【彼】に、仮想敵国に潜入して命懸けで敵地を視察して来い、と言われても、拒んだりはしない。

 物心ついたころから今まで、私はこの生き方しか知らないからだ。

 それはかつての任務で、潜伏先で追跡され、射殺された仲間のスパイたちもそうだった。



 だがそれは、【他国に私に潜入捜査を指示した者がいる】という事実をチェルージュ側に提示させることに他ならない。

 そうなれば、チェルージュと各国家、特に隣接する我が櫻宗国との関係は確実に悪化するし、最悪侵攻の口実に利用される可能性も否定できない。

 終戦から今までチェルージュに潜伏した諜報員が射殺された時も、政府は一貫して関与していない、というスタンスを守り続けてきた。

 しかし、ここ最近はチェルージュ国――特に櫻宗との国境付近での諜報活動の記録が特に目立った。

 今までチェルージュに潜伏した諜報員たちの射殺は、いわばチェルージュ側の警告と言える。


 

「先の諜報員たちの死で、直接潜伏して何かを行うのは実質不可能という結論に至りました。そこでこちら側で、ある計画を立てました」

 まるで私の問いを予想していたかのように、【彼】は人差し指を立てて笑顔で答えた。

 この男、改めてつかみどころが何もない。

 私にとって彼は物心ついた時からの知人なので、本来なら父親のような気心知れた間柄になってもおかしくないと思う。

 しかし、初めて会った時―――あの日、命を助けられた時以来、私にとって彼は得体のしれない人間のままだ。

 命の恩人のはずなのに、今の今まで【彼】のことは、初対面の人間―――例えば、今さっき情報を聞き出したトラックの運転手よりも、遠くに感じている。



 そんな私の気の内も知らず、【彼】は話を続ける。



「一週間後、しかるべき場所で具体的な指示を出します。準備をしておいてください」


 そういうと、彼は足早に去っていった。

 彼からの指令はいつも突然訪れる。そしてその割に、決まって内容が小出し小出しだ。

 おまけに内容を伝えたかと思うと、来た時と同じように気配を消し、雲隠れしたかのようにその場からいなくなる。

 作戦の詳細を他言無用絶対とするスパイの仕事柄、仕方ないのだが。


 

「【歌声】調査のために潜伏……か」



 【彼】が去り、その部屋にいる理由がなくなった私は、それにも関わらず十分間程椅子に鎮座し、思考の海を泳いでいた。

 大量破壊兵器調査のために、隣国に潜伏。 

 【霧】という国家機関の中では若い私だが、自分の行動が国の命運を握っていることは疑いがなかった。


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