◆1-2

 ネージ国では、冬は暖炉のある部屋に家族全員が集まるのが普通だ。それは貴族でも平民でも変わらない。長い冬を越えるには、薪も節約しなければならないからだ。シアン・ドゥ・シャッス家においては応接室がその場所に当る。図書室には安全の為に暖炉は無いし、他の暖炉のある部屋は少々広すぎる。

 ドリスがかなり薄く切ってくれた蜂蜜ケーキを漸く片付けてから、月光草の茶を飲み干し、リュクレールはほうと息を吐いた。甘味とすっきりした茶の温かさが体に染み入るようだ。昔よりも寒さに弱くなった気もするが、それは自分の肉体が霊体よりも成長している証でもあるので、ほんの少し誇らしい。

 ドリスが湯を沸かし直すために台所に戻ったため、今ひとつのソファに並んで座っているのは夫婦ふたりだけだ。

 隣を見ると、同じソファの半分以上を席巻している愛しい夫が、随分と優しい目でこちらを見ていてどざまざする。最近、ビザールはよくこうやって妻の姿をただ眺めていることが増えた。今までならば自慢の舌を回して美辞麗句を並べ立てるのが常なのに、驚く程何も喋らない。

 決して不快ではない、寧ろ嬉しいことではあるが、少しだけ気になる。単純に、矢継ざ早に小気味いい返答を返してくれる従者が居ないせいかもしれないが――隣に座っているのに、何故か酷く遠く感じてしまい、もどかしさが胸を苛む。

「……男爵様」

「おや、いかがなさいましたかな吾輩の雪の妖精。先程の庭での雄姿、吾輩も確とこの目で拝見しておりましたぞ! しかしあくまでヤズローが戻ってくるまでの代理でありますし、これぐらいの雪は春になるまで続きましょう、決してご無理をなさらないようお願い致します」

 それでもこうやって喋りかければ、いつも通りのにんまりした笑顔と立て板に水のような言葉を返してくれる。こっそり安堵の息を吐きながら、リュクレールは本題に入った。南方国へ向かってからの慌ただしさにより、ずっと忘れていたことを。

「はい。……実は、お話しておきたいことがあるのです」

「ほほう、何ですかな? 勿論愛しい奥方殿のお話ならば喜んでお伺いしましょう、吾輩に対する不満や愚痴でも何でも! どうぞ僅かばかりお優しく告げて頂ければ!」

「い、いえ、そのような事ではございません。……南方国へ向かう際の港町で、不思議な貴婦人にお会いしたのです」

 片眼鏡の下でぱちりと瞬く男爵の瞳をしっかり見つめ、リュクレールは言葉を続けた。

「黒い――喪服のようなドレスを纏い、顔をヴェールで隠した女性でした。とても存在感が強いのに、周りの人々に気づかれていないような、奇妙な気配をお持ちでした。……その方が仰ったのです。わたくしの傍に、崩壊神の出口があるか、と」

「――」

 ほんの僅か。さりげなくリュクレールの手を握っていた男爵のもっちりした掌が、僅かに汗ばんだ気がした。

「何を問われているのか解らないまま、そのままその方は去ってしまわれたのですが……わたくしが知っている、崩壊神に関わるものと言えば」

 柔らかい掌をそっと握り返し、リュクレールの視線は丸々とソファの上に鎮座した夫の腹に向けられる。

「男爵様の、お腹に刻まれた神紋しか、思い至らないのです」

「……成程、成程」

 僅かな不安を押し殺して告げるリュクレールの手を、ビザールは宥めるように両手で挟んでむにむにと撫でた。

「お話して下さり有難うございます、リュリュー殿。吾輩のせいで迂闊に気を病ませてしまった謝罪を致しましょう」

「いいえ、いいえ。こちらこそご報告が遅れてしまい大変申し訳ありません。もし男爵様を危険に晒す事でしたら――」

 言い募ろうとすると、宥めるように手の甲をぽふぽふ、と叩かれ、肩の力が抜ける。たったそれだけのことを行う為に、気合を入れてソファから腹を起こしていたビザールは元の位置に戻ってからンッハッハ、と笑う。

「――リュリュー殿は、神々への信仰を如何にお持ちでしょうか」

 不意に話が飛んだが、夫との会話ではよくあることであるし、それが回り道でも必要なことであると充分理解している妻は、繋いだままの手を軽く了承の意味を込めて握り返し、少し考える。

「信仰、と胸を張って申し上げる程の修養はとても修めておりませんが……わたくしのようなものが存在を許されているという事実が、死女神ラヴィラ様の権能を示しているのではと愚考します」

 明かりにそっと自由な方の片手を騎すと、ほんの僅かに透けて見える。塔を出てから半年を過ぎ、ドリス達の献身によってリュクレールの肉体はかなり成長することが出来た。それでも、まだ足りない部分を霊質によって補っている状態だ。

 そして死女神ラヴィラは、この国では邪神として疎まれていると同時に、死者と死せぬ者――即ち幽霊の神としても知られている。

「成程、成程。死女神ラヴィラ――その姿は憚ましく腐った骸を美しき蝋人形の中に詰め込んだものとされており、首無し馬が牽く骨の馬車を駆り、死した人間の魂を迎えに来ると言われております。気に入られた者は忘却の河に沈むことなく、地下の国にあるラヴィラの神殿で永遠に過ごすとも。兄に三つ首の魔狼・暴虐神アラム、弟に毒吐く大蛇・病神シブカを持ち――」

 そこで一旦、滔々と流れていたビザールの口が止まる。丸い頬に挟まれた唇が、ほんの僅か戦慄いて、何かを堪えるように。何故、と問う前に言葉は続いた。

「――世界を無に砕く崩壊神アルードの、娘ともされておりますな」

 暖炉の火はずっと暖かに燃えているのに、夫の手がすうと冷えたように錯覚して、思わずリュクレールは手の力を強めた。それが後押しになったかのように、ビザールは調子をもとに戻して続ける。

「八柱神教の序説にはこうあります。『神とは世界の骨であり、竜とは世界の肉である。また、魔とは世界から零れた澱であり、人とは世界を漂う塵である』。最初に立つもの、それを支えるもの、そしてあぶれたものとそもそも何物でもないもの、と称しても良いかもしれません。即ち、神とは世界を形作る為の原型、原初であり、その他のものは派生でしかない――何とも無情な話ではありますが」

 そこでほんの少し、ビザールは俯いた。丸々と膨らんだ自分の腹を見下ろしているのか、その下に刻まれた邪神の紋を見ているのか、リュクレールには解らない。ただ、彼の意識がどこか別のところへ行ってしまいそうで、両手で良人の掌をぎゅっと握り締めた。ふと気づいたようにビザールの視線が妻へと戻り、感謝するようににんまりと微笑む。

「魔操師の台頭により、この国では神の教えが廃れて久しいですが。そも、神とは我々を守るものでも滅ぼすものでもなく、ただ我々より強く存在しているもの、というだけなのやもしれません。従うも逆らうも、神にとっての痛痒ではないのでしょう」

「それは――。それは少し、……心細いものですね」

 素直な気持ちが、リュクレールの唇から漏れた。漠然と感じていた大いなる存在が、自分達の事をまるで意に介していないというのは、裸で世界に放り出されてしまったような不安がある。するとビザールは得たりとばかりににんまり笑った。

「それこそが、信仰でありますよリュリュー殿。己が己であると律するために必要な世界の理、それこそが神であり信仰なのです。そして神々は、人が祈れば彼らなりに奇跡を授けて下さることも間違いありません。吾輩の父もそれを望み、刻んだのですから」

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