プロローグ・2 ナーデル・アッペンフェルド

 朝、目が覚めると、随分と体が軽くなっていて、ナーデルは驚いた。

 生まれてこの方ベッドの上から降りられたことなど碌になかったのに、自分の足で立って動ける。そのことが嬉しくて、すぐにベルを鳴らして使用人を呼んだ。

「ねぇ、見て! 凄く体の調子がいいの。きっとパパもママも喜ぶわ。お兄ちゃんもびっくりするわね!」

 くるりとネグリジェを翻して見せるナーデルに、使用人たちは驚き慌て、彼女の両親を呼んだ。同時に家の中は俄かに騒がしくなり――きょとんとしていたナーデルは、両親に恐ろしいことを宣告されることになった。

「フルーフが死んだ。あいつの持っていた術式は、全てお前に受け継がせる」

「これからはあなたが、このアッペンフェルド家を継ぐのよ、ナーデル」

 ……何を言われたのか全く解らなかった。自分の家が、呪殺を生業とする祓魔の家系だということは教わっていたが、それを継ぐのは兄であり、自分はずっと家に居るか、どこかに嫁に出されるか、としか言われていなかったのに。

 そもそも、兄が死んだというのが信じられなかった。父と母が仕事に忙しい分、兄はずっと、ベッドから離れられないナーデルの面倒を見てくれていた。寮付のシャラト学院に通うようになってからは中々会うのが難しかったけれど、手紙は沢山貰ったし、長い休みには帰ってきてくれていたのに。

 泣いても喚いても、許されず、ナーデルは祓魔の血を継いだ。血腥く、人に眉を顰められる仕事であることの理解はしていたけれど、何ら痛痒を感じることは無かったし、ずっと厳しかった両親がいつの間にか死んでいても、特に感慨も湧かなかった。――実際のところ、自分はこの生業に向いていたのだろう、という自覚はある。

 心の中にぽっかり開いた兄という形の穴を、埋めることが出来ないまま、家を継いで十年程経ったある日。奇妙な女が、訪ねてきた。正確には、家の玄関に倒れていた。

 真っ白い髪と、真っ白い肌。体を覆う白い布は、赤黒いもので汚れていた。

 そう、その女は死にかけていた。一体何にやられたのか、体のあちこちを酷く歪な刃で切り裂かれていた。酷い有様ではあったが、呪殺師の家系に仕事を依頼してくる者など、大概は脛に傷持つ身だ。訳ありで無い方が珍しい。故に、庭の門柱に寄り掛かったまま細い息を必死に吐き出す女に、ナーデルはただ問うた。

「仕事の依頼? なら生きているうちに教えて。誰を呪えばいいの」

 端的な促しに、どこか安堵したように女は息を吐く。これで長年の願いが漸く叶うと言いたげな、心からのものに聞こえた。

「――お耳に入れたいことがございます。貴女のお兄様を、殺したものについて」

 そして告げられた言葉に、ナーデルは目を見開いた。

 ある日突然亡くなったと告げられ、お別れすらできなかった兄。家に遺体すら、帰ってこなかったのだ――どう考えてもおかしい。誰かが、兄の命を奪ったのだ。

「っ答えなさい! そいつは、どこにいるの!?」

 焦るナデールを宥めるように、或いは嘲るように、女は血色を失いひび割れた唇を僅かに動かし。


「全ては、あれの企みにございます。貴族界では悪名高き、悪食男爵――ビザール・シアン・ドゥ・シャッス。かの男の、呪殺を、お願い致します」


 そう言って事切れた女を最早見もせず、家に走り込んで旅の準備をすると、ナーデルは辻馬車に飛び乗った。その日一番遅くの、王都へ向かう馬車に。

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