寝取られた恋人が戻ってきた、が……いまさらもう遅い

青水

寝取られた恋人が戻ってきた、が……いまさらもう遅い

 寝取られ。

 そんな現象は漫画や小説といった物語の中でしかないものだと思っていた、つい先日までは……。


 その日、バイトが予定よりも早く終わった俺は、すぐに我が家に帰ってきた。さてドアを開けようか、というときに――微かに声が聞こえた。声は我が家の中からだ。気のせいかと思い、ドアに耳をはり付け、目を閉じて集中してみると……。


 あっ、とかいう喘ぎに似た声。

 ……ん? んん? んんん?


 はて、俺は出かける前にアダルトなビデオを見ていただろうか? そして、大音量で流れたそれを放置して出かけただろうか?


 否、そんなことはない。

 現実を見なさい。

 でも、直視できません。


 他の可能性を考えてみる。たとえば、我が家にカップルの空き巣が忍び込み、金目のものが大してないことにがっかりして、でも何も取らずに何もせずに撤退するのは嫌だな、と他人の家のベッドで背徳的なセックスをする。


 ……ありえないな。そんな想像はナンセンス。


 俺は麻薬の売人を現行犯逮捕するために突入する警察官になったような気分で、ドアノブを音を立てないように捻ると、大きく息を吸い込み、思い切り開けた。靴を脱ぐような時間と余裕はない。色褪せたスニーカーを履いたまま、廊下を二歩で跳び抜けて、部屋と廊下を隔てるドアを開ける。


「何をやってるんだ!?」


 ナニをヤってるかなんて、一目瞭然だったが、形式的に確認するために、そんな声を上げた。ベッドでは夕方だというのに、男女が生まれたままでプロレスを行っていた。男は知らないやつで、女はもちろん知っている。俺の恋人のカオリだ。


「タクマ!? え、どうして!? だって、今日のバイトは8時までじゃ……」


「店長が『店が空いてるから、今日はもう帰れ』って。それで帰ってきたら、これだよ。おいおい、どうなってやがるんだ、これは?」

「ち、違うの……」

「違うって何が?」

「い、いや……違わないけど……」

「浮気だよな。なあ、浮気だよな?」

「ごめん……」


 そこで、チャラそうな間男くんがこちらを見て、青ざめた顔をした。彼は細マッチョからマッチョ要素を抜いたような体型で、髪の毛は明るい茶色だった。中途半端にイケメンで、中途半端にプレイボーイそうだ。


「おい、お前」


 俺が指を差して言うと、男は慌てて服を着る。


「カオリを連れて、さっさと出てけ」

「ごめん、タクマ。許して」


 ぽろりぽろり、とカオリの瞳から液体が流れ落ちる。


「もう二度とこんなことしないから」

「いや、これからは好きなだけ不貞して構わないさ。ただ、俺はもうお前と付き合うことはできない」

「そ、そんな!」カオリが抗議の声を上げる。「たった一回のあやまちで……」

「たった一回?」


 俺はわざとらしくため息をついた。やれやれ。


「俺は一回たりとも浮気をしたことはないぞ」


 それに、と続ける。


「お前、余罪がいくつかあるだろ」


 俺の指摘を受け、カオリの顔が引きつった。わかりやすいな、こいつ。正直、確証はなくてただの当てずっぽうだったのだが、見事に当たっていたようだ。できれば、強く否定してほしかったのだがな……。


「このまま、俺たちが付き合っていたところでどこにも行けやしないさ。それより、そっちの兄ちゃんとよろしく付き合えばいいじゃないか」

「う、ん……」


 カオリは間男を一瞥した後、急いで服を着た。


 二人の背中をぐいぐいと押して、俺は追い出した。カオリは――そして間男も――日本語とは思えないような複雑怪奇な言語を駆使して、言い訳のようないちゃもんのような、よくわからないことを言っていたが、やがて手を繋いで仲良く(?)さっていった。


「やれやれ……」


 俺は首を振ると、生暖かい生々しいベッドを睨みつけた。汗とその他諸々で汚れている。これ、どうしたものかな……。こんなの、使いたくねえよ……。

 はあ、と俺は大きくため息をついた。


 ◇


「――ってことがあって、別れたわけだ」


 バイトの休憩時間、俺はユイカについ先日の話をした。


 ユイカは俺より二個下で、大学一年生だ。通っている大学は俺と同じで、学部は文学部らしい。文学部というと文学少女然とした大人しい子がたくさんいるイメージだが、それはあくまでイメージ。彼女は浅黒くて、活動的だ。体育学部にいそうな感じ。まあ、それは俺も似たような感じか。


「ほへえー。先輩、恋人寝取られたんですかー。それはそれは……大変でしたねえ」

「まったく大変だよ。精神的疲労がとんでもない」

「だから、最近元気なかったんですね」

「そうか。そう見える?」

「見えますよ」

「自分で思っているよりもさらにへこんでるんだな、俺」


 ユイカはコンビニで買ったおにぎりをむしゃむしゃと食べながら、


「ってことはですよ、先輩は今、フリーなわけですね?」

「フリーって、彼女がいないって意味合いか?」

「イエス」

「まあ、そうだな」

「ふうん。彼女いないんだー」


 ユイカは呟くと、おにぎりをもぐもぐと食べる。

 ユイカは高校まで女子校に通っていたらしい。女子しかいない環境というのは、想像するだに恐ろしい。いかにもドロドロしていそうだ(偏見だろうか?)。だが、男子校もいろいろな意味で混沌としてそうだ(偏見だろうか?)。ちなみに、俺は共学出身だ。


「そういえば、お前って彼氏とかいるのか?」

「あ、気になります?」


 ユイカはにやにやといやらしく笑う。


「私に彼氏いるか、すごーく気になっちゃいます?」

「いや、そこまでじゃない」俺は言った。「答えたくないなら、別に答えなくても構わないぞ」

「答えます答えます」


 ユイカは姿勢を正すと、言葉を口の中で溜めて、熟成させてから言った。


「なんと……いませんっ!」

「ふううん」

「いません」

「そっか」

「ずっといません」

「へえ。意外だな」

「そうですか?」

「お前、美人だし、言い寄ってくる男とか結構いるだろ?」

「いるかいないかで言うと、いますけど……」


 俺が『美人だ』と言ったからか、ユイカは口元を緩ませた。


「つくらないのか、彼氏?」


 俺が尋ねると、豆鉄砲を食ったような顔をした。それから、表情を二転三転させて、最終的には苦虫を嚙み潰したような顔になった。


「好きな人がいるんです」と彼女は言った。

「へえ。誰なんだ?」


 しかし、ユイカは俺の質問には答えず、


「でも、その人には恋人がいて……」


 その後の言葉は紡がれなかった。

 食事を終えると、俺とユイカの休憩時間が終わった。今日は夜の8時までバイトがある。客が多く、それなりには忙しい。


「先輩、今日は8時まででしたよね?」

「ああ、お前も?」

「はい。バイト終わったら、一緒に帰りませんか? 話したいことがあるんです」

「構わないが……」俺は言った。「話したいことって?」

「それは……」


 ユイカは言い淀む。口に手を当て、


「秘密です」


 ◇


 バイト終わり。

 俺たちは二人で夜道を歩く。話したいことってなんだろう? 俺はユイカが話を切り出すのを待ったが、彼女は黙ったまま隣を歩いている。その顔は、緊張か何かで少しこわばっていた。やがて、幅の広い川の上をまたぐように作られた橋に差し掛かる。


 橋の真ん中あたりで、彼女はぴたりと止まった。欄干にもたれると、言った。


「先輩、さっきの話ですけど……」

「さっきの話……?」

「はい。私に好きな人がいて、だけどその人には恋人がいて……って話」

「ああ、あの話がどうかしたのか?」

「先輩、けっこう鈍いんですね」


 ユイカはくすりと笑うと、


「私の好きな人は先輩です」


 ……。

 ……………。

 まったく、これっぽっちも気づかなかったというわけではない。好意を持たれているな、とは前々から思っていた。だが、それが恋愛感情であるとは思わなかった。……いや、思わないようにしてきた、と言うべきか。


 俺にはカオリという恋人がいて、だからユイカに告白されても俺は付き合うことができない――できなかった。


 今は違う。


 俺はカオリという恋人を、誰かも知らないチャラ男に寝取られた。心にはぽっかりと穴があいている。その穴を埋めるために付き合う――というわけではない。


「先輩、私と付き合ってください」


 ユイカは俺の目を凝視して言った。

 それに対して俺は、俺は――。


「……」


 言葉が出てこなかった。


「彼女さんを寝取られて悲しいんですよね? 私は絶対に先輩を裏切りません。彼女さんの代用品でもなんでもいいので――」

「ユイカはユイカだ。他の誰かの代わりなんかじゃないし、代わりはいない」


 俺ははっきりと言った。

 少し間を置いてから、言う。


「わかった。付き合おう。これからよろしく」

「よろしく、タクマ!」


 ユイカががばっと抱きついてきた。


 ◇


 ユイカと付き合い始めて半年が経過した。


 ある日、我が家でユイカとゲームをしていると、ピンポーン、とインターフォンが鳴った。出てみると、そこにはカオリが立っていた。


「カオリ……」

「タクマ……」


 カオリはやせ細っていて、泣きそうな顔をしている。


「なんだよ」

「よりを戻さない?」

「戻さない」


 俺は首を振った。


「俺さ、新しい恋人ができたんだよ」


 気配を感じて振り返ると、ユイカが立っていた。彼女の目は俺ではなく、カオリを見つめている。怒りなどの負の感情を無理矢理押さえつけ、能面のような無を保っている。


「あなた、タクマの前の彼女さん?」

「ええ……」

「今、タクマは私と付き合ってるんです。あなたはタクマを裏切って悲しませた。もう二度と、私たちの前に現れないでください」


 そう言うと、ユイカは玄関のドアを強く閉めた。鍵をかける。

 外からドアを叩く音と、すすり泣く声が聞こえる。


「ごめん。私が悪かった。お願い。許して……」


 ユイカが俺の手を掴んだ。ぐいぐいと引っ張りながら。


「ゲームの続き、しよっ?」

「ああ」


 カオリのことは忘れることにした。彼女との関係は半年前に終わったのだ。今は――そして、これからはユイカとの関係が続いていく。


 ◇


 その後、カオリが俺の前に現れることはなかった。


 俺の友人がカオリの情報を教えてくれた。彼は趣味で周りの人間関係に関する様々な情報を収集しているのだ。


 彼の情報によると――――

 カオリは俺と別れた後、あのチャラ男と付き合い始めた。しかし、彼は見た目を裏切ることないチャラ男であって、カオリ以外にも十数人の女と関係を持っていた。それだけではなく、怒りっぽく、暴力を振るう性癖があるとかで、カオリも散々な目に遭ったとか。


 その彼は、つい先日、交際女性の幾人かに暴力を振るったとして逮捕された。


 カオリは体に違和感を覚え、検査をしてみた。もしかして、自分は妊娠しているのではないか、と。

 結果、妊娠していることがわかった。


 しかし、お腹の子の父親は逮捕されてしまった。そこで、前の彼氏である俺とよりを戻して結婚しようと企んだ。妊娠した時期は俺と別れた前後だったので、あなたの子よ、とかいえば俺を騙せると思ったようだ。


 しかし、自分が妊娠していることを告げる前に、ユイカによってシャットアウトされてしまった。その後、何回か俺に会いに来たようだが、その度にユイカが注意し、最終的に『もし、また私たちの前に現れたら、今度は警察を呼ぶから』と言ったようだ。


 警察を呼んだところで、カオリが逮捕されるようなことはないだろう。しかし、カオリは怖くなったようで、二度と現れることはなかった。


「で、その後、カオリはどうなったんだよ?」

「子供を産んで……そこから先はわからない」


 カオリはどこか遠くに行ってしまった。死んでいる、ということはないと思う。


 俺とユイカの交際は順調で、近々結婚しようと思っている。カオリとは違って、ユイカは浮気したりはしなかった。もちろん、俺も浮気はしていない。


 恋人を寝取られたことはショックだったが、あの時寝取られて別れたからこそ、今があるのだと思うと、あれは必要だったのかもしれない。


 俺は今、とても幸せだ。

 この幸福が死ぬまで続けばいいな、と思う。

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