第1部 第2章
アインホルンの士官候補生 1
それは霧の立ち込める秋の朝だった。
風の無い凪いだエーテル海の境界面を一隻の浮遊船が、その
雲上迷彩を施されたその真っ白い船体は霧の中にその姿を溶け込ませている。その舳先には馬の彫像が据え付けられていた。額から一本の角が伸びた白馬、アインホルンと呼ばれる
デルフィン級フリゲートであるアインホルンは、浮遊船としては比較的スリムな形をしているが、浮遊船を知らない内地の人が思い浮かべる船というものとはずいぶんと形が異なる。水を押し退けることによって発生する浮力によって浮かぶ水上船舶とは異なり、エーテル浮遊船舶はエーテル海に浮かぶ性質を持った古代文明の浮遊遺物を浮力として使う。浮遊遺物は小さいものでも人が20人は乗ることができ、デルフィン級ともなると長さ130メートル、幅80メートルほどもある大きさの浮遊遺物を基部として使う。エーテルに浮かぶ浮遊遺物は不安定なので前後左右にバランスを取って船体が取り付けられるので、結果としてアインホルンの船体は、長さ160メートル、幅90メートルほどにもなる。またエーテルは水のように抵抗が大きくないので、流線型の船体にする必要は薄く、浮遊遺物に巨大で分厚い兜を乗せたような外見になる。その外形を美しいと思うかどうかは感性に依るだろう。
その甲板を一人の少女が足早に歩いている。短く切った柔らかそうな金髪がくるくると弧を描き、大きな碧眼の下に残るそばかすが幼さを際立たせている。やや丈の短くなった王国浮遊軍の軍服を着ている。襟章で彼女は士官候補生だと分かる。空の寒さに震えながら、彼女は黒板を手に船上を歩く。
浮遊船の動力は燃焼石を用いた蒸気機関だ。常に圧力の負荷がかかる
アインホルンの士官候補生フリーデリヒ・フェラーは朝の点検を終え、エスター・シュルツ一等海尉のところへ向かった。
「六点鐘の点検、完了しました。異常ありません」
「よろしい。朝食まで自由にしていい。今日は卵を使うそうよ」
「やった!」
思わず声を上げて、慌ててフリーデリヒは黒板で口元を隠した。齢12の少女は多感で自制が難しい。エスター一等海尉は目を細めてフリーデリヒを見たが、叱責の言葉は口にしなかった。港を出て四日目であり、食事の乏しさに陸地が恋しくなってくる頃合いだ。例え一等海尉でも卵料理と聞けば心は踊るに違いない。固めて焼いた黒パンと、塩漬けの豚肉ばかりでは心が痩せるのだ。
フリーデリヒは歩みも軽やかに自室へと戻った。自室とは言ってもアインホルンの士官候補生4名での相部屋だ。船倉に近く、臭く、狭い。浮遊船の構造の中では最下層に近く、万が一の際には失われる事が多い。
フリーデリヒは自前の衣装箱からお気に入りの本を取り出した。
すでに一字一句すべて頭に入っているが、文字を目で追う楽しさは記憶で反芻するのとは違った喜びがある。それは身分の高い女と、身分の低い男の恋の物語だった。男は女のために成り上がり、女は男のために政治的に立ち回る。大人向けの内容であり、フリーデリヒには理解できないところも多かったが、これを読んでいる間は自分が大人になったような気持ちになれるのだ。あまりにも読み返したので、お気に入りの場面の辺りは自然と本が開く。
いま開いたのは物語の序盤で、幼い頃の男と女が出会う場面だ。庭園に迷い込んだ少年に、少女は花を差し出す。しかし花を見たことがなかった少年はそれを食べ物だと思ってむしゃりと食べてしまうのだ。少女は少年の蛮行に烈火の如く怒って庭園から追い出すのだが、少年は少年でなんて不味いものを食わせるんだと怒る。しかし少年はとある修道女にたしなめられる。それは貴方のお腹では無く、心を満たす物だったのだと。
この一説がフリーデリヒは好きだ。いま浮遊船に乗っていて、遭難でもしない限り飢えることは無い。だが浮遊船での暮らしは心が飢える。心を潤いを与える何かが足りていない。幸い、士官候補生であるフリーデリヒはこの本を持ち込むことができた。彼女にとっては唯一の安らぎだ。こういう何かが生きるには必要だ。
――それと卵料理ね。
フリーデリヒは付け加える。折良く船乗りが朝食のために士官候補生を呼びに来た。士官候補生は基本的に自室で食事を摂る。艦長室に呼ばれて艦長や海尉たちと食事を共にすることもあるが、それは数少ない例外だ。キッチンに出向いていつもの黒パンと塩漬け肉に加えてオムレツを受け取る。黄色い輝きはまるで太陽だ。フリーデリヒは飛ぶように自室に戻り、冷めないうちにオムレツを口に入れた。陸地の、特に実家で出てくれば、コックを呼んで叱責するかも知れない味わいだが、海上生活ですっかり貧しくなった舌にはご馳走に感じる。一気に食べてしまいたいところだったが、黒パンと塩漬け肉が後に残っては言葉通り後味が悪い。フリーデリヒはオムレツを一口、黒パンを一千切り、塩漬け肉を一つまみ、と順序よく口にしていった。最後に残ったオムレツで後味を整えて、フリーデリヒはお行儀良くハンカチで口元を拭った。
食事が終わると本格的に1日が始まる。浮標の近くで停泊していたのでなければ、まずは天測で現在位置を割り出すことからだ。正確な時間と太陽の高さが分かれば、ある程度座標を絞り込める。とは言ってもエーテル海上では普通の海上に加えて複雑な計算が必要だ。フリーデリヒは計算があまり得意では無い。士官候補生になって1年近く経ったが、未だに天測だけは慣れない。
天測が終わっても地形を見張り続けるのは士官候補生の仕事だ。エーテル海は眼下に下層世界の地上が広がっている場合も多い。特徴的な地形は空図に載っているし、浮遊船は天測以外にも地形を参照して航行するものだ。
かと思えば海尉による授業も平行して行われる。士官候補生が海尉になるためには試験を突破しなければならない。その合格率は艦長の評判にも繋がるので、教える側も必死だ。あまりにも理解が悪いと、結び目を作ったロープが飛んでくる。船乗りを罰する時に使う鞭に比べれば痛みはマシだが、痛いものは痛い。痛みの種類が違うというべきかも知れない。少なくともロープであればミミズ腫れのような傷跡が残るようなことは無い。
夕刻になれば燃焼缶と原動機の再確認だ。乗員全員の命に関わることなので、決してミスは許されない。にも関わらずこの仕事は必ず1人でやらされる。誰かと一緒に調べて回ることは許されていない。二重、三重の確認体制は結果的に責任を有耶無耶にしかねないからだ。朝はフリーデリヒがやったから、夕方は別の士官候補生が担当することになる。もちろんその間が休みになるわけではない。この日の場合はフリーデリヒは船倉の食料品の在庫確認の仕事を割り当てられた。食料管理も船にとっては死活問題だ。足りなければたちまち飢えるのだから当然だ。
フリーデリヒはカンテラを片手に船倉の木箱や樽をひとつひとつ確認していく。木箱はいくつも上に上にと積まれているので、いちいち中身を確認したりはしない。チョークで書かれた品目と数を見ていくだけだ。そして船倉の奥の奥の方までやってきた時に、フリーデリヒは物音に気が付いた。
低い獣の唸り声のような音と、ガリガリと何かを引っ掻く音だ。
フリーデリヒは背中に冷たいものが滑り落ちるのを感じて、ピンと背筋を伸ばした。浮遊船に幽霊話は付きものだ。帆船とは違い帆を張る必要の無い浮遊船だが、伝統的にマストが残っており、檣楼には
それだけ死者の出る職場であるから浮遊船では度々幽霊のことが話題になる。その度にフリーデリヒは耳を塞いで縮こまる。そうなると船乗りは面白がってあれこれと幽霊話を広げていくのだが、フリーデリヒにはどうしようもない。
「だ、誰かいるの?」
震える声でフリーデリヒは問うたが、返事は無い。音のする方に足を進めると、ツンとした刺激臭が鼻を突いた。その間も音は鳴り続けている。まだ原因を突き止めてはいないが、フリーデリヒの足はそれ以上前には進まなかった。士官候補生として学んだことは多くあったが、幽霊の祓い方は学んでいない。
「ねぇ、冗談でしょ」
返事は無い。フリーデリヒは震える足を一歩引いた。一度下がるともう前には進めない。だが音に背を向けるのも怖くてできない。そのまますり足でずるずると後退していったフリーデリヒは、階段に辿り着くと駆け上った。そのまま砲列甲板まで行って、そこらにした船乗りを呼び止めて集める。だがいざ説明するとなるとフリーデリヒは言葉に詰まった。幽霊が出たかも知れないので一緒に来て欲しい、では士官候補生の威厳が損なわれる。いかにフリーデリヒが船の中でもっとも幼くとも、彼女は船乗りに指示をする側だ。舐められては今後の仕事に差し支える。フリーデリヒは必死に言い訳を考えた。
「船倉に獣が――、その、猫か何かが迷い込んでいるようなの。捕まえるのに協力してくれないかしら?」
猫と聞いて船乗りたちは喜んだ。ネズミを狩ってくれる猫は船乗りにとってはありがたい生き物だ。餌や糞尿の問題があるので実際に船に乗せるということは滅多に無いが、縁起は良い。仕事をサボっていたと思しき船乗りが10人ばかりフリーデリヒに付いてきた。
そんな船乗りたちであったが、船倉について奥に向かうとすぐにフリーデリヒに騙されたことに気が付いた。聞こえてくる唸り声は猫の唸り声とは思えなかったからだ。途中で足の竦んだフリーデリヒの様子を見て船乗りたちは事情を理解した。だがその一方で幽霊だと思った船乗りは少なかった。
「こりゃ木箱の中に獣が紛れ込んだんじゃないですかね」
カンテラで船倉の奥を照らしながら船乗りの1人が言う。
「ほら、こいつだ」
そう言って船乗りは木箱の一つに蹴りを入れた。それは木箱の中でも底のほうに置かれたものだった。外枠にはチョークで林檎と書かれている。他の船乗りに支えられてフリーデリヒはなんとかその木箱のところに辿り着く。そこまで来ると音も異臭もはっきりとしていた。確かにこれは幽霊というより生き物のように思える。
「木箱を空けて中を確認しましょう」
なんとか震える声を誤魔化しながらフリーデリヒは船乗りたちに命令した。
「へいへい」
船乗りたちは協力して木箱を上の方から移動させていき、ついに異常のある木箱を開ける時が来た。
「酷い臭いだ。一応念のためお嬢は離れてたほうがいい」
「だ、大丈夫よ。ここにいるわ」
この場の責任者はフリーデリヒだ。海尉に報告するのもフリーデリヒだが、船乗りたちからどんな話が漏れ聞こえてくるか分かったものではない。幽霊に怯えたというだけならまだしも、現場を船乗りに任せて自分は下がっていたというのは風聞が悪い。
「じゃ、開けますよ」
船乗りが腰に提げた短剣を木枠に突っ込んで梃子の原理で蓋をこじ開けた。その瞬間、木枠は内側から開け放たれた。中にいた何かが蓋を押し開けたのだ。異臭を放つ、血まみれで傷だらけの何かが木箱の中から飛びだしてきたのを見た瞬間、フリーデリヒは恐怖の余り、意識を失った。
注1 下層世界にのみ生息する生き物の一種。血液が赤くなく、食用に適さない。
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