26.満月と魔獣の姿

 教会に隠されるようにある木の扉をくぐり、細い小道をひたすらに進む。

 ここに居るのは私とノエルさん。そして、マーカスと警備隊員が数人。

 他の隊員は領地を守るために配備しているみたいで、遥か遠くにかがり火が見えた。


「クレア、大丈夫か」


 私にとっては、大人の男性の急ぎ足は走っているのと同じだ。

 息が切れるのを止められないでいると、マーカスが心配そうに覗き込んできた。


「平気、だよ……っ」


 他の人は、唯一小道を使ったことのある私から離れられない。

 私がもっと速く走れたら、すぐにシグルドのところに行けるのに。

 悔しい気持ちで息を吸って、ぬかるんだ小道を走り続ける。


「……クレアは、オレが望んで領主になろうとしていると思うか?」


 隣を進むマーカスが、周りに聞こえないような声で話しかけてくる。

 突然どういうつもりだろう?

 息苦しさの中考えても、なかなか答えは浮かばない。


「違う……っ、の?」


「本当は領主になるより、この身で大切な人を守りたいと思っている」


 まっすぐ前を向いての言葉に、ふと思い出す。

 マーカスにも好きな人が居るんだった。

 私と一緒で、守りたいって思う相手が。


「マーカスの、好きな人は……っ、きっと、素敵な人、なんだろうね」


「クレアもよく知っている人だよ」


「え……?」


 聞き返そうとしたら、マーカスは進む速度を上げてしまう。

 チリンリン。チリンリン。

 銀の鈴の音もいつもより速い。

 平野を抜け、木々が茂り始めた頃。

 普段なら少しの怖さを乗り越えて進めるのに、今日はその場で脚がすくんでいた。

 いつもと、全然違う。

 ざわざわと木が擦れる音。

 月明かりの届かない真っ暗な視界。

 生温い湿った風の感触。

 濃い闇の中に、得体のしれないものの存在を感じてしまう。

 あまりにも濃い存在感と一緒に、魔獣の嫌な臭いも漂ってきている気がする。

 怖い。

 だけど……シグルドを失うことのほうが、もっと怖いんだから。


「ここから、魔の森だから。小道から外れちゃ、駄目だよ」


 明かりを持ってくれる警備隊の人たちに声をかけ、震える脚を前に進める。

 魔獣避けの結界がされている小道からは、まだ魔獣の姿は見えない。

 だけど遠くからは何度も凶暴そうな声が聞こえてくるし、木が倒されている場所もある。

 小道を進むにつれそれはどんどんひどくなり、ようやく辿りついた場所の先に、巨大な影が見えた。


「……なんだ、あれは」


 満月に照らされた場所は明るい。

 だけど周りを取り巻く状況は、まったく明るいものではなかった。

 土はえぐれ、木々はなぎ倒され、魔獣の死体がそこかしこに転がっている。

 嫌な臭いが届く前に、慌てて鼻を手で覆った。


「あんな魔獣が居たなんて……」


 マーカスを始め、警備隊の人も初めての光景だったらしい。

 その場でじっと身を固め、必死に周りを警戒する。

 倒れた木の合間には、人がどうにか通り抜けられそうな場所があった。

 その先は、巨大な影の方向。

 だったらそこには、シグルドがいる。

 すぐに走り出そうとしたら、ぐっと腕を掴まれた。


「せめてオレの後ろに居てくれ。クレアに何かあったら、あの狼に殺される」


 長剣を抜いたマーカスが私の前を率先して歩く。

 すぐ後ろには警備隊、最後にはノエルさんだ。

 足元からは濡れた地面の匂い。

 周りからは折れたばかりの青い木の匂い。

 だけど自然の匂いは一瞬だけ。

 重たい震動。大きな音。そして、嫌な臭い。

 まだ数えるほどしか感じたことのない感覚が、どんどん近くなっていく。

 狭い場所を抜けた先には、強引に切り開かれた場所があった。

 そこには見上げるほどに大きい、未だかつて見たことのない魔獣の姿があった。

 四本脚の生き物は、どんな動物に似ているかなんて言い表せない。

 ごわごわとしていそうな汚れた毛皮は、元が何色だったのか。

 馬や牛なんて踏み潰してしまえそうなほどの巨体は、ぬかるんだ地面に脚を沈めていた。

 向けられなくても理解できる、敵意。

 それは、数え切れないほど転がっている魔獣の死体の中心に向かっている。

 まん丸の満月の下。

 長剣を手にまっすぐ立ち、汚れてしまった灰色のローブを着た人。

 一体どれだけの間、一人で戦ってきたんだろう。

 不思議な音が響いては途切れ、長剣が風を切る音に代わる。


「あ……」


 シグルドを助けるために来たっていうのに、魔獣を前に脚がすくむ。

 なんのためにここまで来たの。

 そう思っても、身体の震えは止まらない。

 怖い。殺される。

 本能に訴えかける敵意は、今まで見た魔獣と比べものにならなかった。

 私なんか片手で握りつぶせそうな腕が振るわれ、シグルドは宙を舞うように避ける。

 不思議な音がするから魔法を使っているんだろう。

 だけどいつもみたいな強さはなく、地面に下りたシグルドは片膝をついた。

 魔獣の腕が振りかぶる。

 その行き先を変えたくて、私は咄嗟に魔獣へと走っていた。

 剣も弓も持ってない。魔法なんてもちろん使えない。

 私なんかの力で、魔獣に傷をつけられるはずがない。

 だけどどうにかしたくて、私は無我夢中でポケットのペーパーナイフを投げつけた。

 分厚い毛皮に弾かれたペーパーナイフは地面に落ち、拾いに行ける距離でもない。

 だから向けられた意識をそらさないよう、魔獣の前に飛び出した。


「わ、私のほうが……っ、美味しいよっ!!」


 脚ががくがく震える。

 手足の感覚なんてない。

 呼吸の仕方すら忘れた。

 どこかで誰かが叫んでる。

 だけど魔獣は私を見てる。

 だったら今だけは、シグルドを守れてる。

 なんの力もない私が。

 振りかぶった魔獣の腕が振り下ろされ、思わずぎゅっと目を閉じた。

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