渋柿
イネ
第1話
長治は十歳になりました。それでもやっぱり特別学級でしたから、他の子供らが教室で授業を受けている間も、長治だけは外へ行って自分に出来ることを探さなくてはなりませんでした。
九月に入って、それはようやく見つかりました。村にたった一本しかない大事な柿の木の番をすることになったのです。
この柿の木は毎年たくさんの実をつけましたが、どれも渋柿でしたから、村人たちはそれを干し柿にこしらえて、お正月のお祝いにみんなで分け合って食べるのでした。
「長治、よかったな。今年からはおまえが柿の木の番だな。立派な仕事だな」
長治の前にこの柿の木の番をしていたのは、村の中でもいちばん賢くて、勇敢で、脚の速い、一匹の老犬でした。中型の痩せた犬でしたけれど性格はしぶとく、ぎゃんぎゃんぎゃんぎゃん吠えられると熊でさえうるさがって逃げていくほどでした。この犬が春に亡くなると、山からいたずらな猿がおりてきて、畑を荒らしたり、米の粉を盗んだり、ちょっとずつ悪さをするようになったのです。
「長治、いいか。猿が来たらこの棒で地面ぶっ叩いて、ホウ、ホウ、ホウ、て叫べじゃ。猿ぁびっくりして逃げるか、逃げないか。まず、知恵比べだ」
そうして長治は、自分の背丈の倍もあるような長い竹の棒を持たされて、あっちの木に突っかかり、こっちの木にぶっつかりして、よろよろと林の中を歩いていきました。そのやじろべえみたいな不恰好なうしろ姿を見て、みんなは指をさして笑いました。
「長治、横に持ったら歩きづらいんだじゃ。縦に持って歩け、縦に持って」
もともと長治は真面目な性格ですしいつだって真剣です。ヘマをしてはならないと、両の目を見開いて、勇んで柿の木の下に立ちました。
けれども見上げると、柿の実というのは秋の陽にきらきらきらきら輝いて、どうにも長治の頭をぼんやりさせてしまうのです。そしていつか、柿の実ひとつひとつが真っ白いキツネの顔のように思えたり、向こうのいちばん大きいのはお正月にかざる鏡餅のようだとも思ったり、ときに雲が影を落とすと辺りは急に黒と銀色の鉛の世界になって、そのたんびに長治はいちいちおどろいたり、何か考え込んだりするのでした。
そんな間の抜けた様子を見ていたのは、村人ばかりではありません。長治が目をパチパチさせて、柿というのは本当に柿だろうか、キツネだったりしないだろうか、なんてことを考えているうちに、いつの間にか一匹の猿がやってきて柿の木のいちばん高い所に腰掛け、じっと長治を見下ろしていたのです。
長治はまるで動転して、体中、電気が走ったみたいにビリビリ叫びました。
「ホウ、ホウ、ホウ! 猿きたぞ、ホウ、柿食ってるぞ」
ところが猿は逃げません。小生意気に腰をちょっと浮かしただけで、向こうから村人たちが駆けてくるのを眺めながら、まだあといくつ盗れそうだ、なんて計算をしているのです。
「ホウホウ! 猿だぞ、柿、盗られるぞ、ホウ!」
長治はがむしゃらに棒を振りまわして、そのせいで自分の足を引っかけてびたーんと地べたに転がったり、すっかり猿にバカにされて青くなったり赤くなったりしました。
ようやく村人たちが駆けつける頃には、猿はもう遠くの松の枝まで逃げてしまって、そこで盗んだ柿を面白そうにぼりぼり食べているのでした。
「長治、やられたな。なんぼ盗られた。十個も持って行かれたか。数えてみろ!」
村人たちは息があがっているせいで気が立って、いくぶんきつくあたりました。長治はふるえる手で柿の木を指さして、
「ひとつ、ふたつ…」
とつぶやきましたが、すぐに頭を抱えて下を向いてしまいました。目の前にあるものならもっと上手く数えることが出来たでしょう。けれども猿に盗られてしまって「無いもの」を数えるにはどうしたらよいのか、長治にはまるでわかりませんでした。
「なんだ、犬よりだめなやつだな」
誰かが怒鳴りました。
長治はのどの奥が詰まるような思いがしました。串刺しにされた魚のように、目にはもう枯れ草や地面のひびや悲しい場所しか見えなくなって、口もパクパクと苦しそうに息をするだけで、何も言えませんでした。
みんなは気の毒になって、長治をごまかそうとあわてて笑ったり、怒鳴った男の肩をわざとらしく叩いたりしました。
「まず、第一回戦は猿の勝ちだな。長治、次は二回戦だぞ。くじけるな」
けれども二回戦も三回戦も、まるっきり猿の勝ちでした。
陽が落ちる頃には柿の木はなんだかがらんとして、長治は一日中、落ち込んだり励まされたりしたせいで、すっかり疲れて家に帰りました。今夜は竹の棒を枕元に置いて眠ろう、そう思いました。どこからかあのずる賢い猿に見られている気がして落ち着かなかったのです。ところが上手くいかないことは、どうしたってその棒を家の中に入れることが出来ないのでした。横に持てば左右がつっかえ、誰かに言われた通りに縦に持てば、今度は上下がつっかえるのです。
「おっかさん、玄関の戸はもっと大きいほうがいいな。取りかえるか?」
するとお勝手から、母親が目をまん丸くして怒鳴りました。
「どこにそんなあべこべな話がある。はやく家に入ってまんま食え」
長治はがっかりしてしぶしぶ棒を軒下へ転がすと、ご飯だけはたらふく食べ、ぐうぐう眠りました。陽が沈んでからあれこれ悩んではいけないと、死んだおばあさんにきつく教えられたのです。
そうして翌朝はずいぶんと早い時間に目覚めました。けれども夜のうちにまた猿がやってきたのか、柿の実はひとつ残らずなくなっていたのでした。
「長治、今年はすっかり負けたな。また来年だな。長治、来年だぞ」
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