07.現在の回答

「もうこんな時間かぁ……」


 いつもの最寄り駅に着いたのは、いつもと比べてかなり遅い時間。

 普段はあんまり残業をすることはないんだけど、今週はほんの少しだけ忙しかったのと……集中力が欠けてた。

 目の前の作業に集中しなきゃって思うのに、頭の半分くらいは別のことを考えてた。

 考えてる暇はないけど、考えざるを得なくて。今週の残業時間は、あたしの中で歴代トップだと思う。ごめんなさい、会社。

 雲がぽつぽつ浮かぶ空の下、すっかり冬の服装で慣れた道を歩く。

 そういえばスーパームーンだかなんだかでお月様が大きい日があったんだっけ。

 その日は曇って見えなかったけど、今日は欠けつつも月が大きい……気がする。


 考え事は一つ。先週の、金曜日のこと。

 家で飲んで話して……言われて、追い出して。今思えばひどく失礼なことをしちゃった。こっちが招いたのに追い返すなんて。

 でも、そうでもしないといられなかった。

 一人になってからだって全然冷静になれなくて、考えようとすると苦しくなって、結局まともに頭が働くようになったのは日曜の夜だった。

 それからずっとそのことを考えてる。その度に顔が熱くなってくるのはもう、諦めた。今は冷たい空気で冷やされて気持ちいいくらい。


 あの日から。出会った日から……一人になったと思った日から、あたしはどうだったんだろう。

 楽しかった。その、理由は?

 自由になったから、だけじゃない。一人じゃなくて……一緒だったから、だ。

 足繁く通うくらい。久々に会った友だちとの約束を早々に切り上げちゃうくらい。


 もう一人でいいと思ってた。だから恋なんてしないつもりだった。だけどこれが……恋だって分かってる。

 愛情とか、愛着とか、そういうのじゃない。そんな穏やかなのじゃない。先週の金曜日から、そんな穏やかさは無くなった。

 その気持ちの変化が……正直怖い。

 変えるのは怖い。そのせいで長々としんどい生活をしてきたけど、それでも怖い。

 でも向こうは……それでも変えたんだ。


「……だったらあたしも、頑張るべきかな」


 駅からお店までの道のりは本来短い。けど今日は考え事をしてるっていうのと……躊躇いで遠回りしてた。

 コンビニを通り過ぎ、路地は通らないようにして、大通りの横断歩道を無意味に渡る。

 世間の皆様は足早に駅やお店や帰り道に向かってるのに。あたしはなかなか辿り着かない。

 こんな時間だし、もう居ないかもしれない。だけど……行かないわけには、いかないんだよね。

 もう一回横断歩道を渡って、いつもの道に戻ることにした。曲がり角を曲がればすぐにお店は見えてくる。


「…………なんで?」


 お店の前に、見知った姿。

 高めの身長に、薄めのコート。神経質そうな銀色フレームの眼鏡に、ほんの少し垂れた目。

 ポケットに手を突っ込んで、ちょっとうなだれた姿勢で立ってた。

 あたしの呟きに顔を上げると、白い息を吐きだす。


「なんで、入ってないの?」


「来たの、すぐ分かるように」


「いや……寒いでしょ」


「そんなでもない」


 絶対嘘だ。さっきちょっと肩を縮めた姿勢だったし。むしろ今あたしが寒いし。


「嘘はよくないよ?」


「じゃあ、寒いけど待ってた。正直、来ないかと思って落ち着かなかったから」


「……来るよ、ちゃんと」


「あぁ、来たな……返事、もらえるのか?」


 道端で邪魔にならないように、少し間隔を空けて隣に並ぶ。壁からの冷気を背中に感じてちょっとぶるっとした。


「聞きたいんだけど、さ」


「なに?」


「えー、その……す、好き……なの?」


「それ以外の理由であんなこと言うのか?」


「分かんないじゃん……」


 だって、言われてないし……。付き合ってと、好きは違うでしょ。


「……正直、後悔してる」


「え……?」


 気まずそうに髪をかき混ぜてるけど……もしかして、あたしにあんなこと言ったことを、後悔してるって言うの?

 あたしの一週間……っていうか、気付いちゃったからもう、後戻りなんてできないのに。


「あんな……勢いじゃなくて、もっとちゃんと言うつもりだったから。

 でもなんか言いたくなって我慢できなくなって……あー、格好悪すぎる」


 ぐしゃぐしゃ髪をかき混ぜて、大きくため息をして上を向いた。あ、喉ぼとけ見えた。

 モテ男だし余裕なのかなって思ってたけど、案外そうじゃなかったらしい。ちょっと顔が赤い。多分あたしの顔も赤いけど。


「勢いは大事だよ」


「じゃあそっちも勢いだせよ」


「勢いを出す為に勢いが必要でね?」


「どうすれば出るんだよ」


「うーん……ひねり出す?」


 うん、つまり自力で勢いをつけなきゃいけないんだよ! 缶チューハイでも飲んでおけばよかった!

 でもすぐ酔っちゃうから、ちゃんとした話の時は駄目だと思うんだよね。


「じゃあ、言うけどさ……えーっと、ね」


 頭の中では言葉が浮かんでるのに、いざそれを口に出そうとするとなぜか動かない。

 若い頃はもっとぽいぽいなんでも言えた気がするのに……これが大人になるってことなのかな。

 どっかの誰かの歌でもあったよね。ほんとにそう思うようになったら言えなくなるものだよ、みたいな。


「返事はその……うん」


「どういう意味のうん、だよ」


「察してよ!」


「俺だけ言うの不公平だろ」


 ようやくちょっと笑ったから、意味は通じてるみたい。だけど知らんぷりって! ほんとひどい! 辛い!

 確かにそうだよ、向こうにだけ言わせるのは不公平だよ、でもあたしにそんな経験値はないんだよ!

 なんとなくで付き合い始めたことはあるけど、面と向かって告白なんてしたことないし! あぁ、情けない……。


「だからー、そのーつきー……」


「つき?」


「月がきれいだね?」


「……それ、意味知って言ってんの?」


「意味って? なにかあるの?」


「……だよな、分かってた」


 なんか呆れられた。相変わらず大きくて明るい月が見えたから口に出たのに、なにかの慣用句とかだったりするのかな? いや、今はそれは置いておこう。

 あー、なんで言えないんだろう。言おうとするとさ、ぐっとさ、喉が縮まるんだよね。ほんと、根性なしめ……。

 コートのポケットからスマホを取り出して、時間を見てからメッセージアプリを起動する。もちろんたどたどしい。だってほぼ初めて押したからね!

 名前を押して、画面の案内に任せるがままに進んで、ようやく文字入力画面に到達した。


「まだ慣れないのか?」


「ちょっと待って、今集中してんの!」


「あー、はいはい。終わったら続きな」


 画面を見ないようにか、顔を背けられる。今は正直好都合だしありがたい。

 ボタンをカツカツ繰り返し押して、変換間違えて全部カタカナになってやり直し。あーもうっ、ガラケーちゃんが恋しいわ!


「フリック入力しないのか?」


「あんなの、出来るわけ、ないでしょ!」


 もう一回カツカツカツ。ボタンの周りに文字が出てくるけど、そんなの無視。確実に堅実にあいうえお順に押していくよ。

 濁点ってどこ……あ、左下のかな? 句読点は……右下? 案外いけるじゃんあたし!


「どんだけ長文打ってるんだ?」


 知ってて言ってるよね? 短文だよっ!

 ようやく完成して、二回読み返してから送信ボタンを押して、そのままポケットの中に放り込んだ。


「……ん?」


 隣からスマホが震える音がして、流れるように操作してるのを視界の隅っこで確認しておく。

 目的の画面に到達するのに数秒。速すぎる!


「これ……」


 びっくりした顔でこっちを見てきた。その画面には、あたしの精一杯が表示されてるはず。


『好きだから、付き合ってください』


 言葉で言えないから、文字で伝える。ほんと情けないけどしょうがない。下を向いて地面を蹴りながら言い訳をしてみる。


「口で言えるような歳じゃないんですー現代社会じゃありがちなことじゃないのー」


「俺のが年上なのに言ったけど」


「モテ男とは違うんですー!」


 あぁもう、顔が熱い! 心臓もバクバクしてるし握りしめた手がプルプルしてる。

 恋愛って、こんなものだったっけ? こんなにしんどくて疲れるものだったっけ?

 もしかしてあたしだけ? 不安に思って横を向いてみると……あたしだけじゃなかったらしい。

 スマホをぎゅっと握ったまま、顔をちょっと赤くさせて、くしゃっとした顔で笑ってる。初めて見た、すっごい笑顔。

 見てるのに気付いちゃってすました顔してるけど、口元ゆるーってしてるよ?


「嬉しい?」


「嬉しいに決まってるだろ」


「う……そ、そっか」


 素直に言われちゃうとこっちが困る。なにこの顔、ちょっと……可愛いとか思っちゃう。


「じゃあ……これからよろしくな、董子」


「……うん、よろしく、です」


 面と向かって言われると照れるよ! 少しは照れなさいよ!

 って、言おうとしたらお店のドアがそーっと開いた。お客さんかと思ったら、店長といつもの女の子だ。

 なんでも、心配して様子を伺ってたらしい。それに、お祝いしてあげるから早く入っておいでって。

 今思えば、お店の真ん前でなに話してたんだあたし……!


「で、口では言わないのか?」


「言えないって言ったでしょ」


「普段はいろいろ言ってるくせに」


「それはお酒入ってるからだよ!」


「酔えば言うんだな?」

  

「さぁどうだかねー?」


「今日は酔わすからな。絶対酔わす」


「いつも絡み酒するからやめとけって言うじゃん」


「絡めよ、いくらでも付き合うから」


 なにこのご機嫌さ。すました顔してるけど目尻の皺で笑ってるって分かる。

 そりゃ、あたしも解放感とか達成感とかですっきりしたりほっとしたりしてるけどさ。正直恥ずかしさのほうが勝ってる。

 お店に入っていつものカウンターに座って、いつものおしぼりと注文と。


「生一つ」


「カシスソーダ!」


 そんないつもが、日常になって……それからどうなるんだろう?

 怖いけど、楽しみだけど、不安だけど、嬉しい。そんな不思議な気分。

 

 運命の出会いなんてそうそう遭遇しない。

 朝に食パンくわえて走る人とか、曲がり角でぶつかっちゃう人とか、現実に居るはずない。

 だから、運命の出会いなんて遭遇しない。


 だけど、遭遇する時は遭遇するんだよ。


「はいかんぱーい!」


「乾杯。さあ飲めさっさと飲め」


「やだよ! 普通に飲むよ!」


 今の時点で酔ってるみたいに顔が熱いんだから、ちょっとは手加減してよね。

 でも、酔った勢いで言えるかな? 言えたら、いいな。

 ここは期待するしかないよね……あたしの厄介な絡み酒に。

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