4日目 愛称
「これで終わりです、ありがとうございました」
二人でやったおかげか、普段の半分以下の時間で終わってしまった。
「ミリーナさんはこれを毎朝やってるのか、大変だな」
「慣れてますし、楽しいですから」
もう一杯水を汲み、木陰で休んでいる白馬の鼻先に置くと、ざぶざぶと口を沈めていった。
「喉渇いてた? いっぱい飲んでいいからね」
近所に馬を飼っている店がいくつかあるので、こういった世話はよく目にしているので真似してみたが問題はないようだ。撫でながら声をかける姿に、アルフリッドの口元も緩んでいた。
「よかったら、少し出かけないか?」
「え?」
きょとんとした顔を返すと、小さく笑いながら説明を添えられる。
「少し走ったところに湖があってな、そこでこいつに草を食べさせているんだ。もし時間があるようだったら、付き合ってくれると嬉しい」
朝の支度まで十分に時間は余っている。それに、馬は身近に居ても乗ったことは無いので興味もある。けれど行きたい気持ちとは裏腹に、口から出るのは控えめな言葉だった。
「えっと、すごく嬉しい、です。でもあの……本当にいいんですか? お邪魔になりませんか?」
「俺から誘ってるんだ、邪魔な訳が無い。もしかして忙しいか? それなら無理にとは……」
「いえ、大丈夫です、行きたいです!」
「あぁ、じゃあ一緒に行こう。鞍が一人用のものなんだが、少しつめれば乗れるだろう。戸締りをしてくるといい。その間に準備しておこう」
ふっと笑った顔に胸が熱くなるのを感じ、それに気付かれないようにぱっと家の中へと走った。
「お店の鍵と窓の鍵と……あぁもう、ちゃんとした服着ておけばよかった!」
動きやすさを重視した普段着なので可愛らしさの欠片も無い。でも今からきちんと着替えて変な風に思われても嫌だと思い、控えめに刺繍の入ったシャツに着替えていくことにした。
「お待たせしましたっ!」
最後に裏口の鍵をかけ、急いで戻ると準備は終わっていたようだった。
「そんな急がなくても大丈夫だ。そこまで遠くじゃないからな」
「いえ、待たせるわけにはいかないので!」
苦笑するアルフリッドにミリーナは焦った様子で答える。
「気にするな、待つのも嫌いじゃない。ミリーナさん、馬に乗ったことは?」
「初めてです。どうしたらいいですか?」
「そうか、ちょっと待っていてくれ」
そう言うと軽やかに馬に跨り、上から手を伸ばしてくる。
「手、掴んで。そこの鞍の端に足を掛けてくれればあとはこっちでやる」
言葉の通りに高い位置にある足場に体重を乗せると、ふわりと身体が浮いた。そのまま鞍の上に横座りする姿勢になり、アルフリッドの胸元に顔が触れそうになる。
「最初はゆっくり走るが怖かったら言ってくれ。どこでもいいからしっかり握って」
ミリーナの身体を包むように腕を回して手綱を握ると、そのままゆっくりと門の外へと進んでいった。
(ち……近いっ!)
確かに少しつめれば乗れるとは言っていた。にしても、足はぴったりくっついているし、手綱を握る腕は動かす度に背中に触れる。馬の首元で少し傾いているせいか、うっかりすると寄りかかってしまいそうで気が抜けない。
「怖くないか?」
もぞもぞと居場所を探していると、上から声がかかる。落ち着く姿勢が見当たらない様子を気にしているようだ。
「だ、大丈夫ですっ!」
動揺を悟られないようしっかり顔を上げて返事をすると、思ったよりずっと近くにアルフリッドの顔があった。
朝日を受け輝き、ほのかに風を受け揺れる髪と優しい光を灯す瞳。その視線がミリーナを射止めていた。
(あれ?)
初めて間近で見るアルフリッドの顔に微かな違和感がし、しっかり前を向いているのを確認してからまじまじとそれを探り始めた。
(髪と瞳……よく見ると青みがかってたんだ)
普段黒に見える所が、光の加減で薄っすらと青い光を返すことに気付いた。
その色はとても綺麗で神秘的で、つい見惚れてしまう。そんなミリーナをちらりと見遣り、怖さは無いと思ったのかアルフリッドは手綱を握り直した。
「少し速く走ろうか。しっかりつかまれ」
「え? ひゃっ!」
軽く手綱を振ると白馬は蹄を鳴らしながら速度を上げていく。慌てて右手で鞍の端を掴んだが、左手の居場所が見つからず、自分の胸元でぎゅっと握った。
「少し、支えるぞ」
小さく呟くと器用に片手で馬を操り、空いたもう片方の手をミリーナの腰に回す。突然のことにあたふたしていると、口を耳に寄せそっと囁いた。
「もう少し寄ってもらっていいか? その方が安定するから」
「は、はい……」
更に間近に迫る顔に目を合わせられず、俯きながらも言われたとおり、身を硬くしながらアルフリッドの胸に身体を預けた。
「慣れたら景色でも見るといい。もう少しかかるから」
(慣れるわけない……!)
ミリーナの姿勢に満足がいったのか、アルフリッドは平然とした表情で手を戻し、馬を操ることに集中したようだ。
馬に乗るよりも彼との距離に緊張し、ミリーナの顔は熱を持ち心臓は鼓動を繰り返す。耳元で大きく鳴る心音は一体誰のものなのだろうか……。
身体を硬くすること数分。どうにか周りを見る余裕の出来たミリーナは見慣れない風景の中に居た。
(近くにこんな所あったんだ……)
普段、店と商店街の往復くらいしかしていない彼女にとって、それ以外の場所というのはとても新鮮なようだ。石畳は踏み固められた土の道に、その周りにあるはずの家々は青々と茂る木々に変化していた。
「そろそろ着くぞ」
「……っ、は、はいっ!」
耳元で囁かれ、今の自分の状況を思い出したミリーナははっと身を固めると、その様子にくすりと笑いつつアルフリッドは速度を上げる。
「…………わぁ……っ!」
風を切り木々のトンネルを抜けると、そこには大きな湖があった。
湖畔には下草が生い茂り、朝露を滴らせ昇りたての朝日を浴びている。初めて感じる湖からの冷たい空気とむせ返る草の匂いに、つい圧倒されてしまう。
「いい景色だろう? 山からの湧き水が流れ込んでいるんだ」
見惚れている姿を優しく見つめながら、ゆっくりと馬の足を進める。水辺に近付くといっそう涼しい空気を感じることが出来た。
広いその場所に人影は全く見えず、見渡してみると木々に囲まれたその湖への道は今来た一本だけのようだ。
「ここらでいいかな。ミリーナさん、下りるから少し待っててくれ」
大きな木の根元で止まり、アルフリッドはするりと地面に下りる。どうやって下りようかと頭を悩ませていると、下から手が差し出された。
「手、握ってくれ」
どうするのだろうと首を傾げつつ言葉に従うと、ミリーナの身体がまたもふわりと浮いた。
「えっ?」
アルフリッドの左手は自分の右手と繋がり、もう片方の手はミリーナの腰に回されていた。次の言葉を発する前にそっと地面に立たせ、何事も無かったような表情をしている。
「あ、っと……ありがとう、ございます……」
「初めての馬はどうだったか? どこか痛めていたりしないか?」
消え入りそうな声でお礼を言うと、心配そうな顔で覗き込まれる。
(どこかと言うと、心臓が痛いです……っ!)
さっきからミリーナの胸はどきどきと大きな鼓動を繰り返し、今にも張り裂けそうだ。
そんな様子とは裏腹に、アルフリッドはいつも通りに見えた。
(今日のアルフリッドさん、なんかちょっと……近い! というか、馬に乗ってたんだから仕方ないと思うけど、触れ合う、のが……)
店の前で手を握られたのを始めに、腰を支えられたり胸に寄り添ったり耳元に吐息を感じたり……。思い返すとその場所がじわじわと熱を持ち始める。
(わたしだけこんなに焦って……恥ずかしい)
もしもこんなことを思っていると知られたらもっと恥ずかしくなると思い、赤い顔を見られないようにと少し息の上がった馬に寄り添い鼻を撫でてみた。
「わたしも乗せてもらって、大丈夫だったでしょうか? この子、疲れてませんか?」
「あぁ、そいつは丈夫で力持ちだからな。ミリーナさんが乗ったところで何も問題ない」
そう言い軽く首元を撫でてから鞍を外し、走って乱れたたてがみを軽く整える。
「えっと……そうだ、この子の名前は何ていうんですか? 真っ白で美人さんですよね」
まるで御伽噺の王子様の馬みたいだと思ったが、幼稚かなと思って口には出さなかった。
「あー……ルイーズだ」
「じゃあ女の子ですね?」
「いや、オスだ」
「男の子で、ルイーズ……?」
音の響きで考えると明らかに女性の名前なのに、その馬はオスだと言う。どこか渋い顔で言ったのには何か理由があるのだろう。
大きく迫り出した木の根に腰を下ろすと、草を食む姿を眺めつつ立てた膝に肘をついて話し出した。その姿は貴族の雰囲気はなく、外で遊ぶ普通の青年にしか見えなかった。
「名付け親はカインでな……最初、特に名前をつけていなかったのが気に食わなかったんだろう。いきなり言い出したんだ」
「何か由来とかは言ってなかったんですか?」
「……当時片思いしてた女性の名前だそうだ。告白したらばっさり振られたらしくてな、このオレを振るなんて何考えてるんだ! って、喚いてたな」
「うわ……カインさん、相当自信あったんですね」
「学校では相当女子に囲まれてたからな、無理も無い。どうもその人は大商人の家の長女だったらしく、身分違いだとか言われたそうだ」
「あれ……?」
今となっては笑い話だと楽しそうに話す内容にふと疑問を感じ、思わず声が漏れた。
「どうした?」
「お二人は貴族の方……ですよね? 身分は大して変わらないんじゃないんですか?」
「あー……色々あってな、俺たちはあまり身分を公表していないんだ」
「そうなんですか? えと、すみません」
そういえば、お互い名乗ったときも家名は言わなかったことを思い出し、何か事情があるのだろうと深入りするのはやめた。
この国では貴族は家名を持ち、それは自分の身分を保障するものと言われている。ミリーナのようにごく普通の生まれだと家名を意識することは無く、歴史を遡ればいつかは見つかるかもしれない、程度のものであるが。
「気にするな。そもそも、家名を盾にするのはみっともないからな。その名を高め、維持しているのは親だ。その子供には何の力も無いのに、それを当たり前のように振舞うのは見ていて情け無い」
「手厳しいですね」
不貞腐れたような表情は初めて見るもので、外行きの表情ではなく、本心を出してくれているように感じた。
「……この話の流れ、といってはなんだが……ミリーナさんに、お願いしたいことがあるんだ」
付いていた肘を戻し軽く姿勢を正すと、傍らで立っていたミリーナをじっと見つめる。
その表情はどこか揺らいでいるように感じ、気になったミリーナはアルフリッドの近くに腰掛ける。
軽く指を組み、何度か躊躇うような仕草をすると、一つ深呼吸をしてからそっと口を開いた。
「俺のことをアルフリッドではなく……アルフと、呼んでくれないか?」
「……え?」
驚いて見つめ返すと、アルフリッドの頬がほんのり赤く染まった。
「いや、その……俺と親しいものは、そう呼ぶ。だから、ミリーナさんにも……そう呼んでもらいたいんだ」
「…………」
「駄目、か?」
ぼうっとしているミリーナを見て、アルフリッドは否定的に感じたのだろう。ちらりと視線を向け様子を窺っている。
「あ……いえ、全然! むしろわたしなんかがそんな風に呼ぶだなんて、おこがましいと言うかなんと言うか……」
「俺がお願いしているんだ。ミリーナさんが構わないなら、そう呼んで欲しい」
「は、はい……じゃあ、そう呼びますね。あっ、じゃあわたしのことも好きに呼んでください! よくミーナって呼ばれてますけど、それ以外でも全然いいですし!」
突然のお願いにびっくりして混乱気味のミリーナは、思いついたことをとにかく捲くし立てていた。
(ほら、せっかくそう言ってくれてるんだし、わたしもそれに返せればと……って、あれ? アルフリッドさんはそんなこと望んでいるの? 迷惑だった?)
口に出したり頭で思ったりと忙しなく働く思考に目を白黒させ、それに合わせて自分の頬が熱くなっていくのを感じる。アルフリッドの中で自分がそんな重要な人間な訳が無いと思い、言葉を撤回しようと口を開くその一瞬前にアルフリッドが言葉を発した。
「じゃあ……ミリーナと、呼んでいいか?」
「は……はいっ!?」
思わず返事をしてしまったが、今アルフリッドは何て言ったのか? まさか呼び捨て?
まさかそんなことはないだろうと思っていると、駄目押しとばかりの言葉が耳を貫いた。
「ありがとう、ミリーナ」
その言葉はとても優しく温かく、大切なものを扱うように感じられた。それはアルフリッドの表情からもありありと浮かんでいる。
「ミーナというのも、馴染みがあっていいのだとは思う。けど……周りに呼ばれていない言葉で呼びたいと思うのは、俺の傲慢なんだろうな」
「い、いえ、そんなことはっ!」
俯いている自分の顔が真っ赤になっているのも、それを見てアルフリッドが微笑んでいるのも、ミリーナにははっきり分かってしまう。耳までじんじんしてきて、このままだとどうにかなってしまうと思ったミリーナはぱっと立ち上がり、急いで馬のルイーゼの元に走った。
「る、ルイーズ君も、何かえっと……そう、ルイ君! ルイ君なら男の子の名前ですよ!
そう呼んでもいいですかっ?」
「ああ、構わない。そう呼んでやってくれ」
ミリーナの気持ちを察しているのか、くすくすと笑いながら頷くと、アルフリッドも立ち上がりルイーズの横に立った。
「湖の水は透き通っていてうまいんだ。ルイも好きだから飲ませようか」
「はい! ぜひ飲ませてあげてくださいっ!」
木陰からゆっくり歩き出すと先程よりも日差しが強くなり、朝日が少しずつ昇っているのが分かる。きらきらと光を反射する湖は青い宝石のようだった。
水際まで近付くと、ルイーズはふんふんと鼻を鳴らしてから口先を沈ませる。水中でしきりに口を動かしているのが分かるほどに透明な水の中には、群れで泳ぐ小魚の魚影も窺える。
「すごくきれいですね……こんな所があるだなんて知りませんでした」
「向こうの森は王宮の私有地だからな。ぎりぎりの場所にあるここにはあまり人が寄り付かないんだ。昔、秘密の場所だってよくカインと水遊びしに来ていたな」
「カインさんとは小さい頃から一緒だったんですか?」
「あぁ、俺とカインは従兄弟でな。俺の父とカインの母が兄妹なんだ。家も近所で行き来も多かったから、親戚というより親友という感じだな」
「そうだったんですか……なんかちょっと、そういうの憧れちゃいます」
「そうか? 腐れ縁というほうがしっくりくるくらいだが」
苦笑するアルフリッドから目を離し、ルイーズの背を撫でながらミリーナはどこか寂しげな表情をした。
「わたしの両親は近くに親戚が居るとか聞いた事が無くて、昔は祖母が遊びに来てくれていたんですけど……だからそういうの、なんかいいなーって」
さわりとそよぐ風がミリーナの前髪を揺らすが、そこから垣間見える瞳に悲しみは浮かんでいないように見えた。
「一人で寂しかったり、するんじゃないか?」
「いえ、全然! 近所の人がすごく良くしてくれてるんですよ。常連さんとか、特にサリーのご両親はいつも気にかけてくれて……サリーは家も近所だし、姉妹みたいに育ってきました。だから寂しくなんてありません」
「いい人たちが近くに居るんだな……安心した」
にっこりと笑って返すミリーナに、アルフリッドもふっと口元を緩める。木々の隙間から漏れる朝日がきらきらと注ぎ、さらりとした髪が微かに青い色を返した。
「そろそろ、戻るとするか」
手綱を片手に持ち、もう片方の手を差し出されたのでそっと指先を置く。すると、少し堅い手にきゅっと包まれた。
長年乗馬をしてきたからだろうか。それとも、教養として騎士の手ほどきでも受けているのだろうか。アルフリッドのことはほとんど何も知らないけれど、温かなその手に包まれると幸せを感じられるということだけは確かだった。
のんびりとした速度で馬を走らせ、店に戻ってきた頃には人々が活気付き始める時間だった。
「少し長居してしまったな。店は大丈夫か?」
「はい、準備はしてありますから平気です。えと……アルフさんこそ今日も予定があるんじゃないですか?」
人の多い大通りを避け裏門でミリーナを下ろすと、その言葉に渋面を浮かべる。
「あぁ、今日もカインと食事会の予定が詰まっている。……夜の公爵邸のは一人で行かせてしまおうか」
「だ、駄目ですって! ちゃんとお勤めはこなさないと!」
「分かっている、ちゃんと行く」
焦ったミリーナの言葉にふっと笑い、頭にぽんと手を乗せて言った。
「その前に、またお茶をしにきてもいいか? 最近の一番の楽しみなんだ」
「はい! ケーキ焼いて待ってますね」
満足気な表情で馬に跨り手綱を握るその背中に、ミリーナは思わず声をかけた。
「あのっ!」
「ん? どうした」
「えっと……今日は素敵な所に連れてってくれてありがとうございました。あと……お二人とも、無理はしないで下さい、ね」
ミリーナにとって無意味に感じることでも、それが貴族の務めであり、欠かすことの出来ないものであることは分かっている。だとしても、それが少しでも負担にならないようにと祈ることはきっと悪いことではないはずだと、ミリーナは思わずに居られなかった。
「あぁ、心配ない。よかったらまた……こいつの散歩に付き合ってもらえないか?」
「もちろん、よろこんで!」
後ろ手に手を振ると、軽く馬の腹を蹴って走り出した。先程より遥かに速く走る白馬とその乗り手の姿は、見る者が振り返ってしまうほど美しかった。
「……よし、今日も頑張ろう」
角を曲がって姿が見えなくなるまで見送ると、自分に気合を入れて仕事に取り掛かった。
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