レインマン

 奇術愛好家に「映画」✕「マジック」というテーマを与えれば、オールドファンなら「スティング(73年)」や「バグダッド・カフェ(87年)」というタイトルが帰ってくるだろう。

 伝説の詐欺師を演じるポール・ニューマンの手元吹き替えをやったジョン・スカーンの華麗なカード捌きも、ハイウェイ沿いの小さなカフェがマジックショーで繁盛していくストーリーも、マジシャンでなくとも楽しめる。


 しかし、マジシャンがショーで観客に訪ねるのはそれらのタイトルではない。


「『レインマン』という映画をご存知ですか?」


 遺産目当てに帰省したチャーリー(トム・クルーズ)には、存在すら隠されていた兄レイモンドがいた。自閉症で病院暮らしだった兄を連れロサンゼルスを目指す中、レイモンドの”驚異的な記憶力”の存在に気づく。

 作品、監督、脚本、主演男優の4部門を総なめした88年の名作である。


 マジシャンは、ダスティン・ホフマン演じる「サヴァン症候群」の驚異的な記憶力の話をはじめる。


「…では今日は彼の記憶力に挑戦してみたいと思います」


 客が任意に混ぜたトランプを、サッと一度テーブルに並べただけで「すべての配列を覚えました」と宣言し、カード当てや枚数目を言い当てるという流れに繋げていくプロットがある。

 


 会場のお客様がひとりずつおっしゃった50個近い単語を、その場で即興で覚えてしまうという演目を船の仕事で演じていたことがある。

 完全に目隠しした状態で、「32番目」と言われれば、即座に背後のスクリーンに映し出された単語を言い当てるというパフォーマンスだ。


 ところが、「…あれはたぶん舞台袖に控えているアシスタントが何らかの方法で伝えているんだと思うよ」と囁かれているのを聞き、いつしか演じなくなってしまった。

 実は種明かしをすると、「ただひたすら記憶する」だけである。電子機械的なギミックなど一切介在しない。


 帰路法と呼ばれる記憶術がすべてで、頭の中に展開した自宅内部の地図に、言われた単語をデフォルメして記憶させているだけである。


 例えば、10番目に「どらえもん」と言われたとする。

 すると地図上10番目にある「弟のSR500」をどらえもんが盗もうとし、短足を伸ばしてキックスタートを切ろうとし、横転してどらやきを持ったままつぶされている絵を連想する。できる限り強烈で、バカバカしい絵ほど効果的である。

 ちなみに私はこうした地図を頭の中に2枚用意しており、繋げれば100ちょっとの単語をその場で記憶することができる。




 ところが、そんな私を震え上がらせた知り合いがいた。

 本人から自分がサヴァン症候群であるという旨を聞いたことはないが、間違いなくそれであった。よって芸名等は伏せておくが、彼はその卓越した記憶力でいくつかのテレビ番組に出演した。


 ある飲み会に引きずり出した時の衝撃を鮮烈に覚えている。

 彼は我々が混ぜたトランプを手に取ると、何気なく数枚ずつ手の中で送り、裏向きにそろえてテーブルの上に置いた。「何枚目がいいですか?」と顔を上げる。ギャラリーの一人が言った枚数目のカードを見事その場で言い当てたのである。 

 その場には、私を含め6人のプロマジシャンが見守っていた。少なくともマジシャンが考え付きそうなメソッドはすべて否定された状況であったことは私が請け合う。


 3杯目のハイボールが運ばれてきた時、彼はかばんの中からルービックキューブを取り出した。好きに混ぜろという。何人かの手に渡りながら十分混ざった状態のものを受け取ると、彼はしばし無言でそれを手の中で転がした。

 「…飲んでるからうまくいかないかもしれないけど、」というと、彼はそれを頭上高くにかざし、空を見つめたまま頭上でルービックキューブを回転させ始めた。全員が固唾を呑んで見守る中、たった数分でみごと6面揃った状態に戻し、彼はテーブルにそれを叩きつけた。


 繰り返すが、その場にはそれを疑似成立させることに長けた数人が囲んでいた。我々は言葉を忘れ、一般のお客様がするように、彼が置いたルービックキューブを争って手に取り、ひっくり返したり、振ったりしてみたものだった。




 彼の頭脳の中にどんな光景が広がっているのか聞いてみた。しかし、あまりにも足りない説明しか引き出せなかった。


「…う〜ん、写真みたいな感じですかねぇ」


 マジシャンが技法やギミックを駆使して再現するそれと違い、彼の場合ある程度の割合で失敗した。そこが逆に真実味を増させていたのだが、彼の説明によれば写真の解像度にはばらつきがあるらしい。

 「どうやら自分は他と違う能力があるようだ」ということに気付いたのは上京してからだという。ところが、彼は辞書や電話帳の類いについては脳内カメラに次々とおさめることができたが、「他人の顔を覚える」という生活に不可欠なことについてはまるでダメだった。


 脳科学の権威によれば、人は他人の顔をパーツごとバラバラに記憶しており、”Aさん”と聞いて、「鼻」、「目元」、「唇」といった別個のフォルダから、”Aさん”に該当するデータを抽出し、それを集合させて、「少しタレ目で、鼻の横にホクロのあるAさん」を頭の中で再現しているのだという。

 目のカンジがタレントの誰それに似てると感じるのは、このようにパーツごと記憶しているかららしい。


 どうやら彼の脳にとって、他人の顔とはただの記号か部位にすぎないらしい。聞けば、彼と同じような特徴を持つ人々にとってはよく見られる事象らしい。

 他人にとっては実に興味深いことではあるが、彼は恋人の顔も思い出すこともできず、また(悪意なく)金銭がらみや仕事の約束を忘れてしまうため、しばし周囲と深刻なトラブルを引き起こした。




 欧米ではこうした特殊体質の人たちによるパフォーマンスが興行として確立されている。

 ロンドンでそうしたショーを見たことがあるが、脚本家が入っていることもあり、最後はみごとに泣かされた。


「…人にとって記憶というのはウイルスみたいなものなんです。風邪を引けばくしゃみや咳をしてウイルスを体の外に出そうとするでしょ?忘れるとは、体にとって異物である記憶を外に出そうとする健康な反応なんです。だからどうか自分のことを”すぐに忘れちゃうおバカさん”なんて責めないで!皆さんはいつか僕のことも忘れてしまうかもしれない。でも僕は今夜お会いしたみなさんひとりひとりの笑顔をずっと覚えています!」


 彼は会場をゆっくりと見渡すと「忘れられない夜をありがとう!」と深々とお辞儀をし、カーテンの奥へと消えていった。



※このエッセイを、近頃自ら命を絶った芸人さんに捧ぐ

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