春光乍泄(雑記コラム)

マジシャン・アスカジョー

はじめよう、弱者のための精神衛生

 太宰治の『畜犬談』に「芸術家はもともと弱い者の味方だったはずなんだ」というのがある。弱者の何らかになってこその芸術ではないかという。稼いだカネを家にも入れず、「酒やタバコで他より多く納税してるじゃないか」とくだを巻いた太宰らしい問題提起である。

 昨今、コロナだけではあるまい。もっと大きな単位で格差は取り上げられてきた。さて、人間・太宰治はともかくとして、アンタのいう弱者ってのは誰のことだいと突っかかってみる。

 ”弱者”とは感情的な言葉だ。社会インフラ的な定義はともかく、年収やステータスなどを掛け合わせたとして、弱者を名乗るかどうかは個人の問題である。例を挙げるまでもないが、カネ持ちには累進課税が待っているし、貧しくとも笑いの絶えない家庭もある。幸福感とは座標軸の交差点にあるものではなく、極めて文学的な中にあり、数学的なマスと必ずしも一致しない。


 我が家は築30年以上の代物で、目の前をトラックが通るたびにガタガタと振動する。転職も繰り返しており、もし何かで入用になったとしても、貸し渋りに遭うか、高い金利を払うことになるだろう。心身も決して丈夫ではない。朝晩10錠ずつを飲むことでどうにか息をしている。

 だが私は絶対に弱者を名乗らない。自分の機嫌ぐらい自分で整える。どんなに世間で肩身が狭くとも、外で頭のおかしい連中に小突かれようと、自ら弱者を名乗り、世の中に対して毒づくことはしない。



 昨年末、自著『ノンストップ・アクション』シリーズの連載を終えた。執筆に2年、連載は1年半にも及んだ。契約に基づく執筆ではなかったが、毎週火曜・金曜と期日通り連載することについて、自分自身に厳しい責任を負わせていた。趣味であれ、期日が守れないのは問題外である。しかし、日々の出来高が一定でなければリズムは守れない。連載期間中もっとも意識したことは、タイムマネジメントでも資料の整頓でもなく、まず”精神の安定”を第一としてきた。

 これは言うほど簡単ではなかった。世の中は理不尽や不平等に溢れている。性格でどうにかなるものではない。しかし怒りや不満に煽られていては、生産スケジュールを守ることはできない。

 まず、意識的に不浄な情報から距離を置くようになった。金曜の夜、他人の悪口ばかり聞かせてくる知人も切った。

 同時に、喜ぶという行為も遠ざけた。映画で心を揺さぶることもしない。仕事の区切りがついたとしてもたいしたご褒美も与えない。ツラい方も、楽しい方も選ばず、日々淡々と過ごす。連載を終えた日も、スタバでチーズケーキを食べたぐらいである。



 マインドフルネス瞑想というのがある。”宗教的要素を排除した座禅”という言い方をされることもあるが、一種のストレスマネジメントである。これを実践するようになって6年になる。

 やり方は簡単だ。絨毯の上にゆったりとあぐらをかき、腰骨が立つように尾てい骨の下あたりに座布団をかませる。左右に体を揺らしながら、腰骨、背骨、首の骨、頭蓋骨が一直線に乗るようバランスを取り、天井から一本の糸で頭頂を引き上げられているイメージをする。へその下あたりをグッと引き締め、肩の力は抜く。

 目を軽く閉じ、鼻からの呼吸だけに集中する。吸い込んでいるのか分からないぐらいゆっくり吸い、腹ではなく、肺をふくらませる。空気を吸いながら、下腹部からゆっくりとボールが浮揚するイメージをする。胸を張り、肺を大きく膨らませる。そしてゆっくりと吐き、最後はへその下あたりまで空気を吐ききる。これを繰り返す。

 雑念をどう断ち切るか。頭によぎった言葉を短冊のような懐紙にサラサラと書き、川にそっと浮かべて流すイメージをすればよい。忘れようと力むこともなく、淡々と処理し、すぐに鼻腔を通る柔らかい空気に意識を戻す。

 これを朝晩15分ずつ行う。最初は5分と続かなかった瞑想呼吸だったが、6年も続けているうちに、たまに幽体離脱を経験をするようになった。正しい姿勢で呼吸を繰り返す自分が見えるのである。よくあることらしい。瞑想の効果を伝えることは難しいが、少なくとも不安で溺れかけることはなくなった。



 瞑想で人生が救われるとはいわない。それでも激しく傷つくこともあれば、人と接することが嫌でたまらないこともある。しかし、自他の区別については深いレベルで理解できるようになった。喜怒哀楽もなく、能面のようなツルっとした表情をしているわけではない。また耳目をふさぎ、バカを決めこんでいるわけでもない。

 ただ、悲惨な世の中と自分の心模様を切り離しているだけだ。私は弱者ではない。加害者でもなければ、被害者でもない。

 ただ知性の限りを尽くし、創作を続けていく。どんなに人間の内面を克明に描こうと、どこか客観性が保たつべきだ。その鋭さとは、心の安寧にこそ宿るものかもしれない。



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 杜甫の『腊日』という詩の中に”漏泄春光”という一説がある。そこから”よい兆しが見え始めた”、あるいは”お宝が見えちゃった”、”恍惚に至りそうだ”という卑猥さも含め、「春光乍泄」という成語として知られている。有名にしたのが97年ウォン・カーワイ作品の「ブエノスアイレス(原題:春光乍漏)」である。

 そのすべてを含め、 この雑記帳に『春光乍泄』というタイトルを付けた。作家仲間の創作ノートやエッセイ日記を読むのが好きだ。私はまず作家その人を好きになりたいので、あれば必ず読む。そういう”かご”があってもいいだろうと前々から思っていた。不定期連載となるが、ノートにある程度温めたらリリースしていきたい。少しでも、この理屈好きで、夢見がちで、そして卑猥な私を知っていただけたらと思っている。


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