コーヒーとクリームソーダ
星空ゆめ
コーヒーとクリームソーダ
暇を持て余し、街路をあてもなく歩いていると、ふと、視界の端に鮮やかな色が写り込んだ。
「クリームソーダ ¥780」
スパゲティやサンドイッチと並んで、一際眩しく、翠緑に輝くそのディスプレイが、心を掴んで離さなかった。年甲斐もなく、クリームソーダに心奪われてしまうのは、私が幼稚であると言うよりも、クリームソーダが魅力的すぎると言ってしまって、相違ないだろう。
白と緑のコントラストに、大袈裟に内包された大小様々な気泡たち、緑に輝くメロンソーダは、下に行くほど狭くなるその円柱の深い容器になみなみと収められている。半球に切り取られたアイスクリームが、一際大きな存在感を放つ。飲み物というよりかは、インテリアの類、宝石や、ガラス細工と同じ生を授かっているのではないかと思わせられるが、容器よりもさらに長いストローが、スッと刺さっている姿が喉の渇きを誘う。
そして幼い時分に、ディスプレイ越しのガラスにべったりと両の手のひらをついて、同じようにクリームソーダをまじまじと眺めていたことを思い出した。幼い頃から、甘いものが好きであった。それに、ハンバーグ、ミートスパゲティ。周りの好物を差し置いて、ただその美しさ故に心を奪われた。幼い瞳に、クリームソーダの緑は一層眩しかったに違いない。今見てもこれほどに、緑の輝きに心奪われてしまうのだから。
────立ち止まって、10秒ほど考える。クリームソーダの味は、知っていた。この店の、ではない。クリームソーダの普遍的な味についてだ。メロンソーダの甘味に、アイスクリームのまろやかさが溶け込み、炭酸の刺激を優しく覆ったまま口の中に運ばれるあの味についてだ。
幼い頃の私と、今の私では、決定的な違いがある。今の私は、クリームソーダが飲み物だということを知ってしまっている。クリームソーダに心奪われ、店員によって眼前に運ばれてくるまで、それは確かに宝石の類の生を宿している。しかし、一口、ストローに口をつけた時、スプーンでアイスを掬った時に、思い出す、クリームソーダの味。クリームソーダが、飲み物であるということ。宝石としてのクリームソーダは死に、飲み物としての生が顔を覗く。
ディスプレイに写るクリームソーダの命は短命だ。そのことを知ってしまっているからこそ、立ち止まって考えざるを得ない。ここでこうしてクリームソーダを見ている分には、クリームソーダの美しさは死なない。味にも勝るその価値は、色褪せることなく、ガラス越しに生き続ける。
つまるところ、クリームソーダの美しさとしての価値と、味としての価値を、私は秤にかけているのだ。美しさを失ったクリームソーダに、780円という価値が値するのかを。
「いらっしゃいませ。喫煙席は奥のスペースになります」
想像通りというかなんというか、店内も格式高い、英国風の、それでいてクラシカルな、そんな感じになっていた。
「喫煙席は奥のスペースになっております」の意図が汲み取れず、店員の方に振り向く。私がタバコを吸うように見えたので、喫煙席を案内したのか、それとも、ここで席案内は終わり、ここからは自由に席を選んでくれよということなのか。
振り向き様、先程のクリームソーダがこちら側からも見えた。
「タバコは吸わないのですが」
「でしたら禁煙席をお使いください」
言われるがままに手近な席に腰を下ろす。「メニューをお持ちしますので、少々お待ちください」と言われたが、心ははじめから決まっている。
────クリームソーダ
「こちらメニューになります。お決まりになりましたらお呼びください」
メニュー表を渡され、そそくさと店員は戻って行ってしまった。重厚感のある、手触りの良いメニュー表だ。それにでかい。
せっかくなのでページを捲る。1ページ目にはこう書かれていた。
ブレンドコーヒー ¥700
アメリカンコーヒー ¥700
ウィンナーコーヒー[H/I] ¥800
カフェオレ[H/I] ¥700
メニューの横には、それぞれのコーヒーの綺麗な写真が載せられていた。そして2ページ目に、文字だけで「クリームソーダ ¥780」と書かれている。
再び、クリームソーダが運ばれてくる時のことを夢想した。クリームソーダを、口に運ぶ時のことも。
そして、コーヒーの鮮やかな写真が、私にコーヒーを口にする時のことを夢想させる。この写真と、寸分違わないコーヒーが運ばれてくる。私はカップの、取手のところを掴み、淵に口をつけてズズッとコーヒーを啜っている。カップを皿の上に戻し、コートのポケットにしまっておいた文庫本を取り出す。しばらく読書に浸り、時折、思い出したかのようにコーヒーを啜る。何度か繰り返すうちに、カップの底が次第に見えてくる。
私は、私によって夢想されたコーヒーを飲む私を見た。
コーヒーではない、コーヒーを飲む私を──
・・・
・・・・・・
・・・・・・・・・
「お待たせしました、ブレンドコーヒーです。ご注文は以上でお揃いでしょうか」
目の前には、メニュー表の写真と寸分違わないコーヒーが運ばれてきた。白色の皿とカップに、緑で綺麗な模様があしらわれている。
私は、夢想したのと同じようにカップの取手をとり、ズーッとコーヒーを口に運んだ。
────苦い
カップを皿に戻す。ガシャッという音がした。
幼い頃から、苦いものはあまり得意ではない。給食でゴーヤチャンプルが出た時は、決まって隣の席の子に処理してもらっていた。
そんなことを、今思い出した。
私は、机に備え付けられているスティック砂糖を1本取り、砂糖を半分注いだ。
再びコーヒーに口をつける。
────苦い
またもやガシャッと音を立て、カップを戻す。
砂糖が足りなかったか、もう半分の砂糖を入れてかき混ぜる。
───苦い
ガシャッ
──苦い
ガシャッ
─苦い
私は、クリームソーダを飲む私を夢想した。
クリームソーダではない、クリームソーダを飲む私を、だ。
私はスプーンでアイスクリームを少し掬う。アイスクリームが美味かったのか、もう二、三口、続けてアイスクリームを掬い取る。
ストローに口をつける。メロンソーダがみるみるグラスから減っていく。最後のほうには、ズーズーと、氷とストローが音をたてている。ズーズーと音が鳴っているが、私は吸うことをやめようとしない。
ズーズー、ズーズー、ズーズー────
甘いと感じるのは、幸せだから。苦いと感じるのは、悲しいから。そんなことを思った。
気づくと、カップの底がこちらを覗いていた。コーヒーから免れたいくらかの砂糖が、じゃりじゃりと端っこのほうに残っている。
私は一刻も早くこの場所から立ち去りたくなり会計に向かった。
立ち上がりざま、コートのポケットから文庫本がこぼれ落ちた。
コーヒーとクリームソーダ 星空ゆめ @hoshizorayume
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