乙女力学概論
いとうはるか
On Her Majesty’s Ideal Maid
「マリー陛下、お夕食のお時間でございます」
その声を楽しみにするようになったのは、いつからだっただろう。
執務に果てはない。
「……陛下、お夕食の前にこちらだけご確認ください。。トール地区の民主化カルトの対策に、特別予算を頂きたいとのことです。裁可だけ頂ければ」
「承認します―――ただ、額が多すぎるわ。2割削りなさい」
執務室を離れ、私を夕食に呼ぶ声の方に向かう。私の私生活の世話を一手に担うメイド、イリスのもとに。
私は、夕食は私室で食べるのが好きだ。一国の女王としては伝統作法に
それに―――私室での夕食は、イリスと二人きりになれる貴重な時間だ。
「ねぇ」
「はい」
簡素な夕食を食べながら、脇で控えているイリスに話しかける。
ほの暗い部屋の灯りに、オールドファッションな黒いメイド服と、彼女の真っ黒な髪がよく映えている。
「……この国が民主化されたら、女王たる私はどうなるのかしら?」
「恐れながら陛下、わたくしは意見を述べる立場にありません」
「あら、イリス。この程度、友人同士の平和な会話のうちじゃない?」
イリスはくすりと笑って、簡潔に述べる。
「……民主化カルトは、女王による統治こそは諸悪の根源であると主張しています。青い血の人造人間をギロチンにかけなければ、人類の進歩は無いと。マリー陛下も、おそらくそうなるでしょう」
私たちは狂っている。
およそ200年前、当時の王は腐敗した王政を敷いていた。それに対し、現在まで続く政体の根拠となる人造君主主義が唱えられた。革命は成り、暗君は処刑され、そして人造の王が即位した。
今となっては王家も貴族も、遺伝子改良と幼児期の投薬によって、政治の担い手として完全な資質を備えるに至った―――と、いうことになっている。
「こんなことを話してるのが知られたら、民草はどう思うのかしらね」
「……あまりいい顔は、されないでしょう」
私は
本来であれば、
しかし、私はどうやら200年目にして初の、女王の不良品であったようだ。
「ねぇ」
「はい」
支配者としての完全な人格と能力。そのうち人格を欠いた私は、ただ惰性と疲労のうちに、治めたくもない国を支配している。
「小さいころからの付き合いだから、もう察してると思うけど。私も貴女も、
そして不良品なのは、イリスも同じだ。
本来は王家付きメイドとして、女王を神のように崇拝するはずの彼女。しかし彼女は、私に友人のような感情を抱いているようだった。
「そのようですね、マリー」
理想的なメイドであるはずの彼女がこうして主君たる私を呼び捨てにできるのだって、彼女が私と同じように、おかしくなっていることの証拠だ。
「不良品なら―――民主化カルトの言うように、処刑されてあげるのが国のためなのかしら?」
「それを判断するのは、陛下、あなたです」
そつのない回答に、思わず笑ってしまう。
「……寝るわ」
「湯浴みはなされないのですか?」
「明日の朝にします。……どうせ私がちょっと臭くたって、指摘できる人間などいないんだもの。入らなくたっていいんじゃない?」
「あら、私が指摘いたしますよ」
―――こんな会話ができるのも、彼女だけだ。
調整された貴族連中も、そこから選ばれた使用人たちも、設計通りに私を神のように崇拝している。私が人間として会話できるのは、イリスだけだった。
ありえないはずの不良品の
「おやすみ、イリス」
「おやすみなさいませ、マリー陛下」
目を閉じる。執務の疲れは、私を速やかな眠りをもたらした。
「マリー陛下、ご下命のとおり逃走経路を確保いたしました。こちらです」
「助かるわ、イリス」
……民主化カルトの大規模蜂起が起こって約一か月。それだけの期間で、200年の安寧は破られた。
今や宮廷にまで民衆が押し寄せ、正門側には火の手が上がっている。私はもはや逃げのびるしかない状況だ。
「逃走先は東洋の別荘地といたしました。車で女王私兵隊の航空基地まで逃げ延び、そこから輸送機で一飛びに向かいます」
イリスの運転する車に乗りこむ。幸い宮廷から基地までのルートは彼らに漏れていないようだった。
「……ああ、これで輿入れの話もご破算ね」
「残念ですか、陛下?」
「そうでもないわね。彼の金髪、なんだかくすんでいたもの。貴女の黒髪のほうがずっと、触っていたくなるわ」
「お褒めいただき光栄ですわ、マリー陛下―――いや、もうマリー様とお呼びしたほうがよろしいでしょうか」
「そうね。もう、女王ではないんだもの」
そう、もはや女王ではない。
ここまで来るのは大変だった。民主化カルトの取り締まりに出す予算を絞り、反乱への対応を遅らせ、不審な事件のいくつかを見て見ぬふりし―――女王の立場から民主化を煽る。まさに、
しかしこれで、私の目論見通り、この国の民主化は成った。おそらく今後は民主化カルトによる政治的混乱が吹き荒れるだろうが、私の知ったことではない。
私はもはや、女王ではないのだから。
「ねぇ」
「はい」
「あちらの別荘に着いたら、ビーチで遊んでみたいわ。貴女もどう?」
大きく伸びをしながら、イリスに問う。
「ええ、楽しそうですね、マリー様。日焼けした貴女も、きっとお美しいと思いますよ」
私とイリスを乗せた車は、どこまでも軽快に走っていく。
壊れていく国を尻目に休暇の計画を練るのが、こんなに楽しいのは―――きっと私たちが、壊れているからだろう。
バックミラー越しにマリー陛下の顔を見る。いつになく楽しそうなお顔をしていて、それが私には何よりも嬉しかった。
陛下に一番近いところで仕えるうち、私は陛下が女王として壊れていることに気づいた。そして陛下が、一緒に壊れてくれる相手を必要としていることにも。
私が国に仕える者だったら、国のために不良品の女王を殺していただろう。しかし私はメイドとして、陛下のために生きるよう調整されている。
だから陛下のために、陛下の求めるままのメイドを演じることにした。一緒に壊れてくれる、
「ねぇ」
「はい」
「あちらの別荘に着いたら、ビーチで遊んでみたいわ。貴女もどう?」
声をかけていただけること。別荘に連れていってもらえること。これから陛下と、責務から解放された幸福な表情の陛下と、一緒に生活できること。
その全てが嬉しくて―――歓喜のうちに、陛下の求めているであろう答えを全力で考え、答える。
「ええ。楽しそうですね、マリー様。日焼けしたお姿も、きっとお美しいと思いますよ」
私と陛下を乗せた車は、どこまでも軽快に走っていく。
この歓喜が、遺伝子改良と幼児期の投薬によって作られたものだとしても。
そんなこと、どうでもよくなる程の至福とともに。私はこれからも、陛下の求めるままのメイドでありつづけることだろう。
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