#0046 親の心子知らず (5)【瀬一郎視点】
その後、雪子には退室してもらった。
「本当にすまなかった……もう君たちは家のことをする必要はないし、学校の友達とも好きなように交友してほしい。麗ちゃんも、彼女の心が休まるよう最大限サポートしたい。もしそれでも私たちと共に暮らせないと感じたなら……私は君たちを引き留めることはできない」
「あの、瀬一郎さんの気持ちが本当ってことはもう分かったので、どうか頭を上げてください。あたしも酷いことを言ってすみませんでした」
私があらためて低頭平身すると、萌ちゃんの表情は引き気味だった。
わたしが雪子に烈火のごとく激怒した態度をみて、萎縮させてしまったのだ。
栞ちゃんは神妙な表情だった。
「……どちらにせよボクたちは母さんが結婚するのについていくから、この家で過ごすのもそう長くないはずだよ」
「そうだったね。麗ちゃんのことは心配だけど、里香もそのあたりは色々考えて決めたのだろう。……私なんかより一史君のほうが、きっと気配りもできるだろう」
私は自嘲した。
「昔、一度だけ彼と話したことがあるんだ。彼はわたしと同じ蓬高に入学してきて、私が部長をしていた剣道部に見学しに来たことがある。もっとも彼は、私が里香の兄だとは認識していなかったようだが……、私のような上級生にも礼儀正しくて物おじせず、それでいてどこか抜けたような、親しみやすい人柄だった。結局部には入ってくれなかったが、その後も後輩から彼の評判を何度か聞いていた。一史君は生徒会に入って、明るくて親切な性格で女の子からの人気もあったらしい」
「……なんだか、葵くんみたい」
「ほんとだね」
「……葵くん?」
知らない名前だったので姉妹に訊くと、なんと一史君の子供で綾ちゃんや栞ちゃんと同学年というのだから驚いた。
なるほど、どういう事情で彼が片親になったかは分からないが、一史君の子供ならきっと良い子に育ってることは頷ける。
「もっと早くに彼のことを知っていれば、私は里香のため真剣に両親を説得しようとしたかもしれないと、私は後悔した。他人に怯え、凍えていた里香の心を溶かすことができたのは、きっと彼の性格だからこそだったと思う」
「さっきから思ってましたけど……、今のママの性格と随分違くないですか?」
「家を出てからから里香は随分変わった。ひとりで生きてゆくために変わらざるを得なかったのかもしれない」
「……」
「結局、里香を鳥籠から解き放つことができたのは私ではなく、そんな一史君と、そして、里香の才能を見抜いた上才能を発揮する道を示してくれた吉川先生だった」
「本人のいないところで何の話をしているのかしら?」
突然、私の背後から割って入る声がして、その場の皆が振り向いた。
リビングの入口から、いつの間に帰宅した里香が現れていた。
「……母さん、今帰ったの?」
「うん、今帰ったとこよ。あ、栞もおかえりなさい。葵くんとのお泊りは楽しかった?」
「なっ、今その話をする必要はないだろう!?」
栞ちゃんが赤面しながらガタリと立ち上がった。
……葵君とお泊り、とは?
「おもしろ半分で言ったのに、わが娘ながら大胆ねえ」
「し、仕方ないじゃないか! ホテルが全部予約で埋まってて、1部屋しか取れなかったんだっ」
「……葵くんと栞が」
「い、一緒の部屋で泊まっただけだっ! 誓ってそれ以上はしてない!」
「栞姉、"それ以上"って?」
「萌~~~~っっ!!」
今まで曇った表情だった3人が、里香が帰った途端女の子同士の会話が繰り広げられ始。
まるで里香はこの子たちの太陽みたいだと思った。
私はその話題についてゆけず、ただ苦笑いを浮かべるだけだった。
先ほど自由に友達と遊んでいいと言った手前、余計口出しができない。
……せめて栞ちゃんに「あんまりお母さんを心配させないようにしなさい」くらいは言うべきだったか。
その間、里香は私たちが向かい合っていたテーブルへとやってきていた。
「それで」
里香は視線をまっすぐ私へと向けた。
一瞬皆がシンと静まった。
私はドキリとしつつ、口を開いた。
「一史君と結婚するというのは本当なのか?」
「本当よ。まあ、まだ娘たちからの正式なお許しは貰ってないけど」
今までまともに会話をしてこなかった私は声は自然と上ずっていた。
「……結婚してからは、相手の家で暮らすんだろう。具体的にいつなんだ?」
「兄さんは私たちをこの家から追い出したいの?」
「そ、そんなことはない。ただ……、いきなり聞かされたから驚いている」
じろりと見つめられ狼狽える。
……それにしても、こんなにまっすぐ「兄さん」と呼ばれるのは何時ぶりだろうか。
私の返答に里香は嘆息した。
「……それはまだ決まってないわ。麗がどうしたいかにも依るし、綾と栞の受験にもなるべく影響したくないから、これから話し合うつもり」
「そうか」
「昔話は私も色々言いたいことがあるわ。けれどまず訂正させて頂戴。兄さんはさっき、吉川先生は私の才能を見抜いていたって言っていたけれど、あれは間違いよ。吉川先生は、私のことを才能のある生徒なんて思っていなかったわ」
里香が自分から過去の出来事に言及することなんていままで無かったので、その言葉に私は驚いた。
萌ちゃんに促された里香は先ほど雪子がついていた席につく。
里香の眼差しはどこか懐かしむようだった。
「わたしが習っていた当時ですでにいい年だったのよ、吉川先生は。ずっと前から色んな生徒を見てきたんだもの、私よりも才能のある生徒なんかきっとたくさんいたわ。私が専門の道に進めたのは、単にあの頃よく練習したから。……この家の娘として、みっともない腕前で終わってはいけないと、お母様からよく言われたから」
「……そうだったか」
「周りの子たちより上手くなければいけないって思ったから必死に練習したし、実際習ってる生徒の中では一番うまくなった。けれどそれは純粋な
私の知らない話だった。
いずれ全国のコンクールで華々しい実績をあげた里香が、自分をそんな風に評価していたなんて、私の記憶の中のイメージとはかけ離れていた。
「私が高校から地元を離れた話は聞いたのよね?」
「……その後、母さんが留学してたことも聞いた」
「そう。兄さんがどんな風にあたしの過去を語ったか、だいたい想像はつくわね」
落ち着き払った里香の口調に私は目を合わせられなかったが、そんなことに構わず里香はきっぱりと告げた。
「私は海外へ行ったことを後悔していないわ。あの頃はがむしゃらだったけれど、おかげで良い勉強になったし、……何より、あなたたちを産めたから」
「……」
「やっぱり、あたしたちってハーフなの?」
「ええ、そうよ。オーストリアで出会った死ぬほどハンサムな男の子があなたのお父さんよ」
この子たちの父親について、とても私の口から尋ねることはできず、私は急かされたように話題を変えた。
「……お前は出産も子育ても、すべて自分ひとりでやってしまっただろう」
「あら、そんなことないわよ。あなたも子守りしてくれたじゃない」
「え、そうなんですか?」
「たしかにそんなこともあったが……、私が生活を助けることだってできたのに、金銭的な援助も仕事の紹介もお前は断っただろう。お前は毎月の生活費を寄越すが、そんなこと必要なかったんだ。どうしてもっと兄を頼らないんだ」
「……そうね」
指を口元に当てて考えた末に、里香が答えは気楽なものだった。
「別に、そんなに困ってなかったのよ。今までそれでなんとかなっちゃってたのよ」
「なんとかって……」
「だって実際そうなんだもの。ひとり暮らし時代にはもっとひどいことだって経験したわ」
「……」
「そうね。しいて言えば、家を出て行った手前の矜持というか、意地はあったわね」
そう言って里香は声のトーンを落とした。
意地というのは、誰にも頼らずに生きていくんだということだろうか。
「私がこの家にいた頃……ちょうどあなたたちくらいの頃ね、私も兄さんもみんな世間知らずだったわ。私は特に、周りの大人の悪意にも善意にも鈍感なまま、悲劇のヒロインのつもりでいただけよ」
「悲劇の……?」
「自分の境遇を嘆くばかりで、結局私は自分でなにも行動しなかったわ。私を救い出してくれる人をただ待ってるだけだったの。……私にとってそれは、一史君と吉川先生だった」
そして里香はこう続けた。
――里香が音楽の道に本格的に進んで、ピアニストになろうという夢の種に気づけたのは、一史君との会話がきっかけだった。
そして、そのタイミングで吉川先生から進学の提案をされたのだ。
「実際のところ世の中の人たちは、誰も私のことなんか気にして生きていないわ。そのことは家を出て、この国からも出てたくさん思い知った。それでも、あっちでの日々は結構充実してたのよ? 努力した甲斐もあって国際コンクールでいくつか入賞もしたし、レコード会社から契約のオファーも来たわ。……まあ、最終的には日本に帰って再出発することにはなったけれど」
「それは、ボクたちが産まれてきたから、だろうか?」
「……あっちの社会の仕組みとか、その頃私が体調を崩してたっていうのもある。けれど、それもひとつの要因であることは否定しないわ」
「……」
「たとえそうだとしても、後悔はないと言ったでしょう? 私はあなたたちのことを一番大切に想ってるわ」
里香はそのときの3姉妹の表情に気づかないフリをしていたように見えた。
「……日本の音大を出ていない私を、誰も相手にしてくれなかったわ。全日本のコンクールで優勝して、勇んで留学したはずの私は、気づいたら根無し草になってしまったの。吉川先生の
聖使というのは聖使女子学園大――地元の市内にある小さな私大のことだ。
里香は今そこでピアノ科の講師の職についていた。
けれど、非常勤講師で貰えるお金というのはごくわずかだ。
里香の今までのキャリア、そしてそのために費やした努力に比べれば、あまりにも地味なポストだ。
「……親元から決別してここまで音楽を続けてきた手前、なんとか音楽で生きていきたいというのが私のなけなしのプライドだった。けれど、そんなプライドなんて娘たちの命にとっては何の糧にもならないって気づいていたわ。こんな割の合わない仕事、何度もやめようと思ったことはある。けれど、やめるわけにはいかなかった。だって……偉そうな顔をして娘に音楽を教えてる手前、そんな情けない親の姿見せられるわけないじゃない」
「……」
「……不器用な生き方しかできないと自分でも思う。やっぱり素直に兄さんの力に頼るべきだったかもしれないわ」
そう自嘲した里香は、目を伏せた。
――ごめんなさい、と里香は言った。
「……お前はよく頑張ってるよ。実際、自分の力だけで4人もの娘をここまで育ててきたんだ。この子たちは立派に成長しているよ」
「ボクたちは母さんを責めたりしないよ。ボクは母さんのひくピアノが好きだ」
私も姉妹たちも、皆が知っていた。
里香は足りないお金を稼ぐために、他にもパートの仕事を転々としていた。
それは留学経験で培った語学力を生かした秘書や事務の仕事が主だった。
けれど、条件の良い職場を見つけた途端、事務所の閉鎖や規模縮小でまた次を探すということが続いて、中々良い職に恵まれていなかった。
里香は家族を養うため、ひとりで頑張っていた。
そんな妹を、私はどうして責めることができるだろうか。
「そんな時、私はふと中学の同窓会に出席してみたの。……別に、会いたい人がいたわけでもなかった。大人になると、ふと昔のことを思い出して懐かしくなるのよ。思い出って美化されてしまうのね」
「……そこで、一史君と再会したのか」
「ええ。あの時は驚いたわ」
――その日。
ホテルの宴会場を借り切った大きなディナーでは、話しかけて来る同級生もいなくて、周囲の人間たちが会話に花が咲く中黙々と食事をしていた。
……やっぱり。楽しい同窓会なんて、期待した自分が間違いだった。
そう考えて、各々が仲の良いグループで集まって2次会へ向かう中、ひとり帰途につこうとしたその時。
『あの……、里香さん……、だよね』
後ろから懐かしい声で、躊躇いがちに呼び止める声がしたのだった――
「――昔は私の名前に"さん"なんてつけてなかったのよ。それでも、卒業からずっと会っていなかった私を見つけてどうしても声をかけたくて、みたいな……、まるで思春期の男の子みたいな気持ちが表情からすぐ分かってしまって、思わず笑ってしまったわ」
「……」
「一史君は全然変わってなかったの。見た目も声も、あの頃の一史君をそのまま大人にした感じ。一史君の頬はお酒を飲んで赤く染まってたの……きっと親しい友達と楽しんでいたはず。それでも一史君は、その友達との2次会じゃなくて私を選んでくれた。……根無し草になってしまった私に、あの人は変わらず奥手に話しかけてくれたの。それが嬉しかった」
彼を思い出す里香の言葉は、彼への愛情に満ちていた。
私も娘たちも息をのんで、里香の言葉を待っていた。
「わたしと久しぶりにお話がしたいと誘ってくれた。ついていった先のバーでお互いの近況とかを教えあって、やっぱりこの人は全然変わってないなってもう一度思ったの」
なんと彼は、大学の先生になっていた。
肩書だけ見れば立派な人になっていた。
けれど話す姿は前と変わらずどこか頼りなくて、まるで子供みたいにとても饒舌だった。
難しい研究の話は全然理解がついていかなかったけれど、一史君が話してくれる表情はとても生き生きとしていて。
お酒に弱いのもなんだか可愛くて、一史君らしいなって思った。
何よりも、彼は成長した今でも夢を大切に抱いていた。
それは日本に戻ってからの忙しい毎日で、忘れていたもの……
かつて自分が縛られていた家を飛び出して、外の世界へと飛び立つ勇気をもらったあの時と、同じ気持ちになった。
……そう、里香は言った。
「昔、私は一史君に憧れて、あんなふうに楽しそうに、夢をもって毎日がすごせたらなあって思ってた。それで私も、自分が好きなピアノをもっと専門的に勉強してみたい、……まだ私の知らない世界に出てみれば、私も彼みたいに生き生きとできるのかなって思った。それで自分の力で頑張ろうって決めて、気づいたらずいぶん遠くまで行ったけれど……、やっぱり箱入り娘の私には、そんな生き方はちょっと大変すぎたのね」
「……」
「それにね? 私、一史君と話してみて、あの頃の純粋な気持ちになったの。……私は本当は、一史君といっしょに毎日を過ごしたかったってことに、ようやく気づけた。私はただ、あの明るい笑顔で楽しそうに話しかけてくれる一史君を、ただ隣で見ているのがとても心地よかったの。それをあの時、思い出させてくれたの。……そのあと何度も一史君と会ううちに、私から言い寄ってたわ」
「えっ、葵さんのパパのこと、ママが口説き落としたの!?」
「そうよ~」
いつの間にか、再会した里香と一史君の馴れ初めに話が移っていた。
呆気にとられて聞いている娘たち……萌ちゃんは、感慨深そうだった。
里香は自分の恋愛経験をうっとりと語った。
……里香が恋の話を自分からするなんて。
そんなことを思っていた時だった。
「……ねえ、兄さん」
里香はあらたまった視線をこちらに向けた。
「……なんだ」
「今までありがと」
そして私ににこりと微笑んで、お礼の言葉を述べたのだ。
私はどきりとしてたじろいだ。
「な、なんだ。いきなり」
「兄さんは私のこと、ずっと応援してくれていたから」
「……」
「私が日本を離れてる間、私に何も言わず仕送りをしてくれたことがあったでしょう。しかも何回も」
「……そんな昔のこと」
確かに昔、そんなことをしたことがあった。
粕谷を継いだ私からの施しを里香はきっと拒むだろうと考えて、里香には告げずそれに名義も変えていた。
それを里香は気づいていた、ということか。
遠い地で妹が困っていないだろうか……そんな思いに駆られたのだ。
ただの自己満足、大したものではなかったはずだ。
「一方的に押し付けたものだ。礼なんていらない」
「ううん……兄さんは私こと気にかけてくれてるんだって思って、嬉しかった」
ありがとう――と、改めて面と向かって言われて、私は大きな感慨があった。
里香の気持ちは、ほんの少しだけでも私と繋がっていたのだ。
「……これからは、どうするつもりなんだ。少しは余裕ができるんだろう。もう一回、自分で演奏活動をしてみたりはしないのか?」
「今のところはないと思う。ごめんなさい、兄さんの応援には報いることはできそうにない」
「そんなことは良いんだ。家族の夢を応援するのは、当然だろう」
ピアニストになるのは夢だっただろう、と私は再度促したが、里香は首を振った。
「私が一線を離れてからもう随分経ってしまったから、すぐに人前で弾くのは無理よ。それに、今は自分のことよりも娘たちの夢を叶えさせてあげることを優先しなきゃ」
「そうか」
「兄さんは、私だけじゃなくて栞も手助けしてもらったわね」
「えっ……」
「この間のあなたの演奏会に来てたお客さん、大部分が兄さんの職場の人たちでしょう。兄さんが呼びかけて、チケットを買ってもらったのよ」
里香の「そうでしょう?」と私に向ける視線は、確信しているようだった。
栞ちゃんは唖然としてうなだれた。
「そう、だったのか……」
「ちょっと栞、自惚れちゃダメよ。たった一度まぐれで学生コンクールとっただけの子供に、あんなにお客さん来てくれるわけないわ。注目されるピアニストになりたければもっと実力をつけて、名の知れた大きなコンクールで勝ちなさい」
「自分の娘にそれは酷すぎないか」
「事実よ。それじゃあ訊くけれど兄さんは、栞の前の年に優勝した子の名前は知ってるかしら?」
「それは……」
「一般人の認識なんてそんなものよ」
里香の指摘に私は何も言えなくなってしまった。
それでも……私は栞ちゃんの演奏に大きく心をゆすぶられたのは確かだった。
「……栞ちゃん。私の身内だからと来てくれた人たちも、演奏会が終わった後は感動したと口を揃えて言ってくれたよ。私はあまり音楽に詳しくはないけれど、あれだけの人の心を動かせる栞ちゃんは才能があるんだと思う。自信をもってほしい」
私は栞ちゃんに、あの時の感謝を告げた。
あの時の演奏は私も会場で聴いていたけれど、……とにかく凄かったのを思い出す。
しかし私の励ましは効果が少なく、栞ちゃんは気落ちしたままだった。
「ごめんなさい。ボクは瀬一郎さんが来る前、雪子おばさんにとても酷いことを言ってしまった。売り言葉に買い言葉とはいえ、ボクは瀬一郎さんのことを"家族でもなんでもない"と言ってしまったんだ。……ボクの演奏会のために頑張ってくれたのも知らず、短絡的だった」
「そんなこと気にしなくていいんだ。むしろ、謝らないといけないのは私のほうだ。すまなかった。……もしいつか、里香のように音楽を学ぶために進学したいと思った時は遠慮なく私に言ってほしい。栞ちゃんが頑張るための一助になるための用意は、いつでもできているから」
「……そうね。お金のことは今まで何とかなっていたけれど、栞が音大に行くとなれば話は変わってくるわ。その時は兄さんの助けが必要になると思う。私からもお願いするわ」
「…………」
「そのかわり、もし音楽の道に進むなら覚悟を持ちなさい。絶対に成功するのよ」
栞ちゃんはまた言葉を失ってしまった。
勇気づけるためにかけたはずの言葉だったはずが、より思い悩ませてしまった。
進路のことは誰もが思い悩む。
栞ちゃんは才能があるのだから、躊躇せずに夢を追いかけてほしいと思うのだが……里香の昔のことを知った今、複雑な思いなのかもしれない。
「なんだかお互い謝ってばかりね」
落ち込んでいる栞ちゃんを無視して、里香はふふと笑い、パンと手を打った。
「はい。こんな暗い話、もう終わりにしましょうよ。いつから話してるのよ。おなか空いたわ」
「……ごはん、どうする? 綾姉はもう作らなくていいんだよね?」
「え、そうなの? じゃあ誰がつくるのよ。雪子さんよりうちの娘たちの方が料理上手いのに。それにあの雪子さんが、私たちのために素直に料理作ってくれるのかしら」
私は萌ちゃんと里香の言い合いを聞きながら嘆息した。
「……今日のところは私がつくるよ。今後どうするかは、その後で一緒に考えよう」
「兄さん、料理できるの?」
「失礼な。これでも大学時代は独り暮らししてたんだぞ」
意外そうな目を向けた妹に私が抗議すると、それを見た綾ちゃんが微笑んで私に目くばせした。
『今日はありがとうございました』
綾ちゃんの聡明な瞳は、私にそう言っていた。
それを見て、私はこの子たちのために何ができるだろうか思った。
「申し訳ないけど、夕食の前に里香と雪子を交えて話をしなければならない。これまでの君たちのことと、里香と君たちの今後のことについて……。それが終わるまで、少し待っていてくれないか」
私はそう言って、この場をひとまず解散させたのだった。
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