#0047 麗は……【綾視点】
あの後――。
瀬一郎さん、お母さん、雪子おばさんの話し合いは1階のリビングでまだ続いているみたいだった。
時々、わたしたちの部屋がある2階にも大きな声が聞こえてきていた。
わたしはそれを、自分のベッドの上に腰を下ろしたままぼんやりと聞いていた。
2段ベッドになっている上には栞がいて、さっきからスマホを手に何かを調べてるみたいだった。
画面をじっと見つめる栞はずっと無言で、栞のちいさなため息が時折わたしまで届いていた。
わたしは上の空で、さっきまでのことを思い出していた。
……本当に、今日はいろんなことが起こった。
最初、栞がこの家から出ていくって言ったとき。
栞が本気で怒った目をみて、わたしは泣きそうになった。
そのあと瀬一郎さんが来て、それどころじゃなくなってしまったんだけど……
――わたしは、この家に残りたかったのかな?
そのことが、わたしの心に残ってもやもやしていた。
こんな形でお別れしたら、きっと二度とこの家には戻って来られなくなる。
雪子おばさんには厳しく当たられたけど、子供のころからずっと育ってきたこの家――お母さんが生まれ育った家を、こんなふうに喧嘩して出ていくのは、やっぱり堪える。
そして……わたしたちがこの家にとって邪魔者なんだということを突きつけられたみたいで、わたしは悲しい気持ちになった。
今思えば、雪子さんも傷ついているように見えた。
きっと、4人も子供がいるお母さんのことが羨ましかったんだ。
瀬一郎さんとも夫婦の会話ができていないみたいだったし、今はもういない瀬一郎さんのお母さん――わたしたちから見たらお
でも、そんなことは今だから分かることだった。
あの時は何も分からないまま、雪子おばさんの酷い言葉で栞も萌も傷ついてしまった。
栞は今すぐにでも家を出ていこうとして。
わたしはなんとかして、みんながこの家に居ても良いって言ってほしかった。
けれど気持ちばかり焦ってしまって、結局わたしはなにもできなかったんだ……
「……」
そんなことを思い出して、わたしは暗い気持ちになっていた。
わたしは膝を抱えて、自分が俯いていることに気がついた。
あの時、もし瀬一郎さんが来なかったら……
もしあのまま栞が麗を説得しに向かったら、一体どうなっていたんだろう。
きっと麗は栞の話に黙って頷いて、葵くんたちの家についてきてくれたと思う。
けれどそれは、結果的に麗に強制しちゃうことになっちゃう。
そんなふうにお母さんたちの結婚を認めさせちゃうのは、やっぱりよくない気がした。
麗のためには心が休まる環境が大事だと思うし、だからこそ麗が納得して決めてほしいから……
けど。
わたしもきっとその時は、みんなと一緒にこの家を出ていたよね……
栞やみんながつらい気持ちでいたのも分かっていた。
そして、ここまで関係が壊れてしまった今、どうやってこの先みんなが納得して暮らせるのか、どうしても分からなかった。
わたしは分からなくて、逃げ出したかった。
それできっと、お母さんにも葵くんにもたくさん迷惑をかけていた。
自然と両手を見つめていた。
わたしはみんなのお姉ちゃんなのに……
みんなのために何もできていなかった。
無力感が空しかった。
みんなの気持ちをもっと聞いて、雪子さんや瀬一郎さんともっとはやく話し合いの場をつくっていれば。
そうすればこんなふうにみんなが傷つくことにはならなくて、平和に暮らしていけたのかな……
それなのにわたしがしたことと言えば、毎日言いつけられた家事をするだけで、雪子おばさんに謝って。
……ショッピングモールで葵くんにみっともない愚痴を聞かせてしまっただけ。
わたしの心に自然と思い浮かぶのは、お母さんが言っていた言葉だった。
"悲劇のヒロイン"……
わたしは誰かが助けてくれるのを待ってただけなのかな……
今まで誰にも相談せず、栞みたいに家を出ていこうともしなかった。
ただその場に立ち止まって、どうすればいいか分からずに、何もしなかった……
わたしはそんな自分が嫌いになりそうだった。
その時、
「……ねえ、綾」
上のベッドから栞のかすれた声が聞こえてきた。
わたしは現実に引き戻された。
「ボクがピアノをやめるって言ったら、綾はどう思う……?」
「……栞?」
続く言葉にわたしははっとする。
……今、ピアノをやめるって言ったの?
「なんでそんなこと、言うの……?」
下のベッドから這い出て見上げると、栞はスマホを手に持ったまま壁を見つめていた。
「……ボクは自分のことを、ちゃんと考えられてなかった。自分の将来のこと、ぜんぜん決めてなかったんだ」
そう打ち明ける栞の背中はなんだか小さく見えた。
「将来?」
「ボクはピアノを弾くのが好きで、これからも続けたいと漠然と思ってた……けど、音大のお金のことなんか、真剣に考えたこと無かった。大学なんてまだ先の話だと思ってたんだ」
「……わたしだって大学のこととか、全然分かんないよ」
「でも、それじゃダメなんだ。母さんは高校から家を出て、本格的に勉強を始めたんだ」
栞はわたしを振りかえって力なく首を振った。
そしてベッドに座ったまま、自分のつま先を見つめて呟いた。
「……今のボクたちと同じ年齢で、母さんはもう自分の道を決めていたんだ」
栞も不安で、落ち込んでいる。
いくら悩んでも答えが出せない……そんな栞の気持ちが伝わってくる。
けれど、さっきまで自分のことで暗い気持ちになっていたわたしは、なんて言葉をかけていいか分からなくなっていた。
「瀬一郎さんがボクの演奏会のためにお客さんを集めてくれたことも、ボクはなにも知らなかった……想像力が欠如していたんだ。ボクはまだまだ子供だった」
「栞……」
「もしボクが……専門的な勉強をしてプロのピアニストになろうと思ったら、大変なお金がかかってしまうらしいんだ。最低でも、県外の音大に入らないといけないし、学費にレッスン代、家賃……。ボクだけの問題じゃない、綾や萌や麗だっているのに、ボクひとりの進路のためにそんな大きなお金をつぎ込んでいいわけないよ」
焦ったように言葉を続ける栞。
まるで、あふれ出る不安を言葉にしてかき消したい、みたいな……
口元が震えている栞の気持ちが、わたしには痛いほど分かった。
「瀬一郎さんは頼ってくれって言ってくれたけど、瀬一郎さんにとってボクは自分の子供でもないのに……それに、そこまでしてもらっても、成功する保証はどこにもないんだ。母さんだって結局、演奏では生きていけなかった」
わたしには、音楽家になるための道なんて想像もつかないけれど……
やっぱり東北に居たままでは不利なんだろうなって思う。
お母さんみたいに高校からもう親元を離れて、っていう人も大勢いるのかな……
「……わたしは」
わたしは励ましの言葉を探していた。
だって、栞が好きな音楽をやめてしまうのなんて、悲しすぎるから……
「わたしは、栞にそんな風に遠慮してほしくないよ。弾いてる栞もあんなに楽しそうなのに、辞めちゃうのはもったいないよ」
「自分が楽しむだけなら、音大に行かなくてもできるんだ……好きっていうのと、プロを目指すかっていうのは、必ずしも結びつかないと思う」
「でも……いろんな人が、栞は才能があるって言ってたの、わたしも聞いたよ」
「……4年前、ボクが失敗したあのコンクールでも、落ち込んだボクに上手いって言った人がいたんだ。正直、皮肉か嫌味にしか聴こえなかった。そんな周りの軽い励ましは、何の力にもならないよ……」
「……」
「ごめん、綾はボクを元気づけようとしてくれてるんだよね……でも、ボクより上手く弾ける人は、本当にたくさんいるんだ」
「……」
わたしの言葉を力なくを否定する栞は本当に辛そうで、いつもの元気な笑顔はなかった。
「ボクは本当に、ピアニストになりたいのかな……」
もしかしたら、ついこの前のコンサートの時みたいな、ステージの上で生き生きとしている栞を見ることはもうできないのかな……
そんなことを考えて、わたしは悲しかった。
* + * - * + * - * + *
その少しあと、わたしは1人で部屋を出た。
この家の2階のいちばん奥にある扉に、わたしは静かにノックをする。
「……麗、起きてる? 入ってもいい?」
わたしは麗を驚かさないように、そっと声をかけた。
ずっと家に籠ってる麗は、生活リズムが狂ってしまいがちだった。
もしかしたら今この時間は眠ってるかもしれなかった。
起きていたら小さく返事をするか、麗が扉まできて開けてくれることもある。
けれど、いまは室内から返事は聞こえなかった。
「……入るね?」
わたしは扉ごしにそう声をかけた。
麗がもし眠っていたら起こしてしまってはいけないので、音を立てないようにゆっくり部屋の扉をあけた。
――さっき。
わたしと栞は話しているうちに、ふたりとも自然と沈黙してしまった。
お互いに自分自身を見つめて、至らなさを思い知ったわたしたちは重苦しい気持ちになった。
わたしはふと、さっきお母さんたちとしたお話を麗にも教えてあげないと、と思い立った。
もしかしたら、わたしはみじめな気持ちから逃げ出したかったのかもしれなかった。
それで麗の部屋まできたんだけど……
ゆっくりとわたしが部屋に入ると、電気が灯っていなくて中は薄暗かった。
やっぱり寝てるのかな……と一瞬思う。
けれど、廊下のあかりがさしこんだ先の、部屋の一番奥にある2段ベッド――麗が元気だった頃は萌と使っていた、わたしの部屋にあるのと同じベッドに、麗が起きている影が見えた。
わたしは何となく電気をつけるのは憚られて、麗が座っているベッドのそばままで来て声をかけた。
「麗?」
麗は2段ある下側のベッドで、膝をかかえていた。
暗い室内で、まるでこの世界から耳をふさぐようにうずくまって、震えていた。
「…………姉、さん」
わたしを見上げた麗は両目が赤く腫れていて、頬を伝う涙を拭うこともできないでいた。
その様子にわたしはあっと気づき、言葉を失った。
――麗は、「あの時」の幻を見ていたんだ。
麗はよく、1年前の恐ろしい記憶を幻の中で追体験してしまうことがあった。
1年前のあの日から麗は、ふとしたきっかけで、自分の意思と関係なく悪夢の中に引きずり込まれる……
その夢を見ているときは何が現実なのか区別できなくなって、ぞっとするような恐怖のなかで、感覚が麻痺してしまうらしい。
わたしだって、あの時は麗とその場に居合わせたから、恐かった記憶は鮮明にある。
けれど、相手の敵意を直接向けられたのは麗だった。
麗はさいわい無事だったけど……あのときの感覚を、思い出したくないのに思い出してしまうのがどれほど苦しいか、わたしには想像もできなかった。
ここしばらくは、こんなふうに記憶が蘇ってくることもなくて、元気を取り戻してきたのかなって思っていた。
けれど、麗のこういう辛い姿を見ちゃうと、……心が折れてしまいそうになる。
「……麗、大丈夫?」
「…………っ」
そっと麗の肩に触れると、ビクンと身体を大きく震わせた。
麗はわたしの目を見つめたまま、両目から静かに涙があふれさせた。
わたしは痛ましい気持ちになった。
「わたしだよ。麗に話しておきたいことがあって来たんだけど、……またあとにしたほうが良い?」
麗は自分が弱ってるところを、わたしに見られたくない、かもしれない。
そう思ってわたしは、できるだけ優しく声をかけた。
麗は身体が震えたまま、わたしの手に触れた。
けれど麗の冷たい手は脱力してしまって、握ることはできなかった。
「……いっしょにいても良いの?」
麗はコクリと頷く。
わたしは麗の表情を確認してから、ゆっくりと麗のいるベッドに腰を下ろして、胸を貸した。
「じゃあ、……落ち着くまでここにいるね」
それからわたしは、何も言わずに麗の背中をなで続けた。
暗くて静かな室内で、しばらくの間、麗がかすかにしゃくりあげる声だけがたまに聞こえた。
……わたしが麗を大事に思ってかけた言葉も、麗の苦しみを取り除けない。
わたしはただこうしてそばにいて、いつか麗が元気になるのを祈るしかできない。
それがもどかしくて、みじめな気持ちになった。
やがて麗は、自分から口を開いた。
麗の震えはすこしずつおさまっていた。
けれど顔は上げられなかった。
「……ごめんなさい」
「……」
どうして、あやまるの?
麗はなにも悪くないよ。
そう言いたい気持ちをぐっと我慢して、わたしは麗が話してくれる言葉を待っていた。
「……瀬一郎さんの声が、聞こえたの。大きな声」
麗に言われて、わたしは瀬一郎さんとした話を思い出した。
たしか、麗への酷いことを言った雪子おばさんに瀬一郎さんが怒って、大声で掴みかかろうとしたことがあった。
それが、麗の記憶を呼び起こす引き金になってしまったってこと……?
「あの時の、瀬一郎さんの叫び声と重なって」
「……」
「こわかった……」
特に1年前、あの場に瀬一郎さんが居なかったら、麗はもっと酷いことになっていたかもしれない……
瀬一郎さんは、「あの時」も今日も、麗を守るために行動してくれた。
けれど現に、麗はつらい記憶を思い出してしまった。
こんなことでも、思い出しちゃうんだ……
もしかしたらわたしも、麗を辛い気持ちにさせちゃうかもしれない、のかな。
そう考えたら、今まで麗に接してきたことへの自信がいっぺんに無くなってしまいそうだった。
……ダメ。
わたしは麗のお姉ちゃんなのに。
どんなことがあってもわたしは麗に共感してあげて、麗のためにならないといけないんだ。
わたしは胸が詰まる思いで麗を見つめた。
「……わたしたち、さっきまで瀬一郎さんとお話してたの。そのことを麗に話そうと思って、わたしは麗の部屋にきたの」
話してもいい? と訊くと、麗はゆっくりと顔をあげてくれた。
麗の瞳には涙が残っていた。
雪子おばさんと喧嘩してしまったこと。
それから、瀬一郎さんが話してくれた、お母さんに昔あったこと……
麗の刺激にならないよう所々省きながら、わたしは淡々と話して、麗はそれをじっと聴いてくれていた。
「……私は」
やがてわたしが話し終えると、麗はゆっくりと重い口を開いた。
弱々しくかすれた声だった。
「私は、瀬一郎さんが私を助けてくれた声に、びっくりして、こわくなったんだ……」
「そんなこと……気にしなくていいんだよ」
「瀬一郎さんは、私のことを守ってくれたのに」
「麗が苦しまないことが一番大事」
わたしは麗に声をかけたけれど、麗は顔を手で覆って、またうずくまってしまった。
「……私はあの時のこと、ぜんぶ忘れたい」
「麗……」
「忘れられたら、どんなに楽になるのかな……」
麗の心からの泣き言だった。
痛々しい気持ちが逃げ場をなくして溢れていた。
「少しずつ忘れたと思ったら、また悪夢を見るの。まるで私に忘れさせないためみたいに……忘れることができないなら、私は消えたい」
「…………」
「私も、姉さんたちも、ぜんぶ消えて、そしたら……」
わたしにこんなことを打ち明けてしまうくらい、麗は苦しんで……弱っていた。
麗の苦しみに触れて、わたしも泣いてしまいそうだった。
でも、泣くわけにはいかなかった。
わたしが麗の前で泣いてしまったら、麗は本当にどこかへ行ってしまうんじゃないかって思った。
「……でも、私は、姉さんたちを悲しませたくないから」
麗はそう続けて、わたしは少しだけほっとした。
同時に、そんなことを言わせた自分がとても情けなかった。
わたしはそんな無力感を振り払いたくて……麗をやさしく抱きしめようとしたとき。
麗は思いがけないことを告げた。
「私、母さんが結婚してもいい」
「えっ……?」
一瞬驚いた私は、その理由を聞いて固まってしまう。
「……この家にいると、また思い出しちゃうから」
お母さんの結婚を麗が許したのは、お母さんの幸せを願ったわけじゃなかった。
麗が、苦しみから逃れるためだった。
わたしたち姉妹の中で、麗が一番この家から逃げ出したいと思っていた……
こんな形で麗に認めさせてしまうなんて思っていなかった。
「葵さんは、大きな声出したりしないかな……」
「麗……」
「……ごめん、なさい。こんなんじゃ、ダメだよね」
麗は泣いていた。
うずくまったまま、顔を上げられなかった。
どうしたら麗の気持ちが楽になるのかな……
そればかり考えている。
けれど、わたしはぜんぜん分からなかった。
「私、もう二度と外に出られないのかな……」
あまりにも深い悲しみと絶望に、麗の心は押し潰されていた。
その日、麗はもういちど顔を上げてくれることはなかった……
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