#0029 君に捧げた歌 (2)【栞視点】
「わたしは静かにしてるから。葵くんとの会話、楽しんで」
綾はそう言い残すと、勉強机に向き直って自分の宿題へと意識を戻したようだった。
ボクに遠慮してか、それとも勉強に集中するためか、イヤホンをして音楽を聴きだしていた。
話し相手もいなくなり、いよいよ葵との対話に臨むボク。
ゴクリと息をのんで、ボクはおそるおそる液晶の通話ボタンをタップした。
「……もしもし」
『もしもし、こんばんは』
ああ葵の声が、ボクの耳元で!!
受話器越しの葵の声は、この間再会したときよりも凛々しく聞こえた。
葵の声が聞こえただけできゅって胸がときめいた。
思わず胸の前で手をぎゅってしてしまった。
『ごめんね、こんな夜中に通話しちゃって。どうしても栞にお礼が言いたくて』
「ううん、ボクも葵の声が聞きたかったんだ。すごく嬉しいよ」
『そう? ならよかった』
ボクは思考がぐちゃぐちゃだった。
……とにかくお礼を言わないと。
ボクは深呼吸して、必死に整理した言葉を紡いだ。
「……葵、今日は来てくれてありがとう。葵のくれたハンカチはボクの力になったし、とても嬉しかった」
『今日の舞台で実際にがんばったのは栞自身だよ。だけど、その栞がそう言ってくれるなら、贈ってよかったよ』
「一生大事に使っていく。絶対」
『いや、さすがに一生は使えないと思うけど……』
葵が苦笑している。
『ボロボロになったら、またプレゼントするよ。今度は栞と一緒に選びに行こう』
「本当? うれしい…… あっ、あと! 花束はボクの部屋に飾ってるし、お菓子は家族みんなで食べてる。とっても美味しい」
『それは良かったよ』
葵からのお土産は一見ゼリーかと思ったら、実は冷凍庫で冷やして食べるシャーベットという一風変わったものだった。
ボクは甘いものが大好物だ。
真夏のお風呂上りに火照ったカラダで食べるシャーベットは格別だった。
葵の粋な差し入れに、感謝しかない。
『おれ、実は後悔してたんだ。花束のメッセージに、"すばらしい演奏をありがとう"って書けばよかったって思って。もしかして、不本意な演奏で終わってしまったらって思うと、演奏を讃える言葉を書けなくて』
「……そうなんだ。そこまで考えてくれたんだ」
『だけど、今日の演奏はとても良かった。だから栞にそれを伝えたかったんだ』
「ありがとう。なんだか照れくさいよ」
葵と話せた感激で涙が出そうだった。
ボクはベッドの上に座りこんで、涙がこぼれないよう天を仰ぎながら葵と会話をしていた。
なんだか夢見心地だ。
『お礼を言わないといけないのはおれの方。あんなに素晴らしい演奏を聴かせてくれたんだから……ありがとう、栞』
「……お世辞じゃなく?」
『もちろん。どの曲も良かったけど、特にリストが感動的だった』
……そっか、やっぱり葵にはお見通しだ。
後半の月光ソナタは、第3楽章の前半が緊張で練習通りの演奏ができなかった。
逆に、その後の告別ソナタは解放された気持ちでちょっと自由すぎる演奏になってしまったかな、と反省していたところだ。
今思い返してみれば、普通の緊張感の中で弾くことができた前半の演奏がいちばん良い出来だったのかもしれない。
ベートーヴェンのソナタをきっちりと弾ききるのは、次までのボクの宿題だ。
葵の言葉にそんなことを考えていると、葵がボクにこんなことを尋ねてくる。
『そういえば、プログラムを見てて少し気になったんだけどさ』
「うん?」
『曲目を選んだのって、栞自身なの? それとも里香さん?』
「弾く曲を選んだのはボク自身だよ」
曲を決めてから数カ月がかりで練習しないといけないから、選んだのはだいぶ前……葵と再会するよりも前だ。
ボクは去年のコンクールで弾いた曲を中心にして自分でプログラムを考えた。
「それがどうかしたの?」
『いや、この選曲とか配置って何か意味があるのかなって思って。……アンコールで弾いた曲も含めて』
「――」
あまりにも核心だった。
ボクは心臓が跳ねる。
クラスの友人ではなく、知識があってかつボクの想い人である葵からの問いは、大きな意味があった。
ボクは言葉を失った。
――今日のプログラム。
ショパンの練習曲、第3番『別れの曲』
同じくショパンの練習曲、第4番。
リストの超絶練習曲、第8番『荒野の狩』
そして前半の締めくくり、リストのスペイン狂詩曲。
休憩を挟んだ後半はベートーヴェンの月光ソナタに始まって。
同じくベートーヴェンの告別ソナタがトリだ。
まず、中心に据えられた2曲。
スペイン狂詩曲は、去年のコンクール決勝で弾いた曲。
ボクを優勝に導いてくれた立役者だ。
一方、月光ソナタは4年前にボクが失敗した曲だ。
過去の栄光と失敗。
正負の両面で、これまでのボクを象徴するような曲だ。
月光ソナタでは、葵が見ている前でボクはあの失敗を乗り越えることができた。
これまでのボクを振りかえると同時に、ボクは未来に向けて新たに歩き始めたのだ。
今日の月光ソナタは、その第一歩だった。
一方、ショパンの4番の練習曲とリストの『荒野の狩』も同様だ。
ショパンの4番は去年のコンクールの準決勝で弾いた曲なのに対し、『荒野の狩』は今回新しく用意した曲だった。
学生コンクールで優勝した過去の曲と、その「次」へ向けたボクの意思をみんなに掲げたのだ。
そして、そういうボクの意思表明は、プログラムの最初と最後に配置された2曲に支えられている。
――開幕に弾いた、ショパンの『別れの曲』。
ボクにとっての「別れ」とは、言うまでもなく葵のことだ。
4年前、出番が近づいていることに気づき、あわてた様子で舞台裏へと消えていった葵との唐突な別れ。
ボクはろくに別れのあいさつも、お礼の言葉すら満足に言えなかった。
コンサートの曲目を決めた時、ボクは葵と再会できることを夢見ていた。
だからボクは『別れの曲』を1曲目に選んだのだ。
葵と出会ったおかげでボクは失敗から立ち直ることができたし、ボクは葵と別れたままだったから。
そして、プログラムの最後に弾いた曲。
――ベートーヴェン ピアノソナタ第26番
「告別」という
ピアノソナタにベートーヴェンが自ら表題をつけたのは、この「告別」の他には第8番「悲愴」しかない。
このピアノソナタには、その作曲経緯に基づいた明確なストーリー性がある。
ベートーヴェンにとっての別れのストーリーだ。
ベートーヴェンが表現している「別れ」は、ベートーヴェンの最大の理解者にして支援者だったルドルフ大公(1788-1831)のことだ。
ルドルフ大公は神聖ローマ帝国最後の皇帝フランツ2世の弟という高貴な人物で、音楽を愛し、ベートーヴェンに作曲とピアノを師事していたことで公私ともに親しい仲だった。
そして偉大な音楽家としてベートーヴェンを尊敬し、多額の恩給を生涯にわたって施した恩人でもある。
1809年4月、オーストリアは当時破竹の勢いでヨーロッパ中を侵略していたナポレオン軍と交戦状態となる。
ナポレオン軍はたちまちのうちにオーストリアへ侵入、そして5月には首都ウィーンへと侵入してしまう。
このため皇族であるルドルフ大公は疎開のためウィーンを離れざるを得なくなる。
この出来事に寄せて書かれたのが、告別ソナタだ。
戦争が止み、ルドルフ大公がふたたびウィーンに戻ってくるのが翌年の1月。
このピアノソナタには各楽章に次のようなタイトルが掲げられ、その間の心情が描かれている。
第1楽章 『
第2楽章 『
第3楽章 『
第1楽章では、
続く第2楽章は、わずか42小節の短さの中に、会いたい人に会えない陰鬱でもどかしい気持ちをかき立てるのだ。
そして第3楽章、その不安をすべて帳消しにするような、歓びにあふれ生き生きとしたフィナーレを迎える。
再会を祝福する気持ちが煌びやかな奔流となって縦横無尽にはじけ飛ぶのだ。
元々、葵と再会する前に選んだ曲目だ。
ボクはこの曲に、葵と再会したい思いを託すつもりだった。
葵と別れ、会えないことへの焦がれるような思い。
こんなふうに再会できたらどんなに良いことだろうとずっと思っていた。
ボクはコンサートの最後、たったひとり葵のために気持ちをのせて『告別』を弾いたのだ。
葵との再会がボクにもたらしたのは、これまで経験したこともないような気持ち。
ずっと抑えこまれていた恋心が一気に解放されるような感覚だ。
ボクは弾きながら葵のことしか考えていなかった。
ボクがここに立っているのは、葵のおかげ。
その思いを伝えたかった。
そして、アンコールで演奏したのは次の2曲。
モーツァルト ピアノソナタ 第11番
シューマン=リスト 献呈
1曲目、いきなり軽やかなモーツァルトを弾き出してお客さんは面食らったかもしれない。
この曲は4年前のコンクールで葵が弾いた曲だ。
ボクが込めた想いは、もちろん葵への尊敬と感謝。
……コンサートの曲目を選んだ時。
葵が聴きに来てくれていても、ボクとの出会いを覚えているかどうか分からなかったのが不安だった。
だからボクはこの曲を弾くことで、「ボクはちゃんと覚えています」って伝えたかったんだ。
そして、2曲目。
今日のコンサートで、本当に最後に弾いた曲が『献呈』だ。
ロマン派の作曲家ロベルト・シューマンが書いた歌曲集『ミルテの花』。
その第1曲目にあるのが『献呈』で、それをリストがピアノ独奏用に編曲した曲だ。
愛とやさしさに溢れた曲だ。
ボクは今日、テクニック的に難しい派手な曲をたくさん演奏した。
だけどコンサートの締めくくりは、ボク含めみんなに暖かい気持ちでいてほしかった。
だから締めにこの曲を選んだ。
元の歌はこんな歌詞だ。
ドイツの詩人、フリードリヒ・リュッケルト(1788-1866)の詩による。
――シューマンは、9歳年下の女性ピアニスト・クララと大恋愛の末結婚したことで知られている。
『ミルテの花』が作曲されたのは1840年、ふたりがついに結婚する年だ。
そして結婚式の前夜、この歌曲集はクララに捧げられたのだ。
ミルテというのはドイツ語で、和名ではギンバイカ(銀盃花)という。
香りたかい白い花を咲かせ、花嫁衣装の装飾に用いられるのだそうだ。
女性の純潔を象徴する花だ。
その『ミルテの花』の第1曲目が、この『献呈』――『君に捧ぐ』と訳されることもある歌。
ボクが葵のために捧げた歌。
そこにボクがこめた気持ちは……言うまでもない。
『……』
「……」
『……栞? きこえてる?』
……このアンコールを含めて、ボクがコンサートの曲目にこめた思い。
ほとんど100%、ボクの個人的な感情で曲を選んでいた。
葵のおかげで4年前の失敗を乗り越えられたこと。
葵への尊敬と感謝の気持ち。
ボクの4年間の成長とこれから進む道を見せること。
そして、ボクが葵のことをとても慕っているということ。
……そんなこと、ボクの口から葵に言えるわけないじゃないか!
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お読みいただきありがとうございます。
作中の訳詞はわたしが辞書片手に頑張りました。
完全な素人ですので、訳の不備等あればご指摘いただければ嬉しいです。
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