#0011 綾の四つのお話 (1)
例の"顔合わせ会"から3日後。
おれは3姉妹の長女の綾さんに呼び出されて再び市内に向かう電車に乗っていた。
綾さんからスマホにメッセージが届いたのは"顔合わせ会"の翌日だった。
丁寧な文体で、またおれと会って話し合いをする機会を持ちたいということが伝えられた。
用件についてはあまり明確には伝えられなかったけど、できれば早く会いたいということだった。
夏休み中でおれも暇がちということもあって、再会の機会はその翌々日にとることができた。
栞と萌は都合が合わなくて、今回は綾さんとおれの一対一らしい。
天気は快晴。
夏の日差しは強く、屋外は午前中とは思えないほどの高温だった。
平日昼前の奥羽本線の電車内は空いていて、ロングシートに腰かけて揺られていると、ポケット内のスマホからチリンとメッセージの着信を告げる音が聞こえてくる。
綾『駅に着きました。改札のところで待ってます』
おれは『了解』とだけ返信してスマホを閉じる。
おれは市内ではなくて隣町に住んでる都合上、スケジュールが電車のダイヤに縛られざるを得ない。
待ち合わせ時間を決めて、「じゃあこの時間の電車で駅につくように行きます」と伝えたところ、綾さんは電車が着く時間に合わせて出迎えてくれているのだ。
礼儀正しくて律儀な女の子だ。
同い年であっても、3日前に初対面だったばかりのおれにきちんとした文面でメッセージを送ってくるくらいだ。
そうこうしているうちに、終点の駅に到着する。
うちの最寄り駅から市内の駅まで2駅だから、時間にしてだいたい20分くらいしかかからないんだけど。
降り立ったホームからエスカレータで改札のある階まで上がる。
そして改札を出る方向に目を向けると、一目で綾さんの姿が分かった。
市内の中心駅ということもあって、改札回りは結構な人通りだった。
その中で出迎えのためにひとり立っている綾さんの美しさは本当に別格だ。
この間着ていたのとはまた違ったワンピース姿は清楚そのもので。
小さめのカバンを手に静かに佇んでいる姿は可憐で、まさにお嬢様というイメージがぴったりだ。
綾さんの周りの空気だけ、明らかに清らかな色がついているように感じられた。
……おれ、こんな女の子とふたりきりで話すのか?
天使がそこにいたのだ。
「こんにちは。待たせてしまってごめんね」
おれは改札を抜けると気を取り直して綾さんに話しかける。
「こんにちは、葵さん。わたしが勝手に待ってただけですから、気にしないでください」
「いやいや、結果として綾さんのこと待たせる形になってしまったし。もとはと言えばおれが田舎なところに住んでるのが原因だし」
と、お互いに謙遜しあったところで、どちらともなく苦笑が起こる。
そもそもこの県自体、どこもかしこも田舎で不便なのだ。
「まあ、立ち話もなんだからどこかのお店に入ろっか」
ということで、綾さんを連れて入ったのは駅直結のファッションビル(先日綾さんたちと食事したレストランが入ってるビル)の1階に入ってるコーヒー屋さん。
ここのお店は、おれが市内に用事があってきたときに結構利用するカフェで、シンプルにコーヒーが美味しくて気に入っている。
日替わりのケーキも美味しくて値段もそこそこ手頃なので、長居して綾さんとお話するにはもってこいだった。
落ち着いた雰囲気の店内を、少し落ち着かない様子で見まわす綾さん。
聞いた話によるとこの近くに住んでるみたいだけどこのお店に入ったのは初めてらしかった。
ケーキとコーヒーのセットをふたり分注文したところで、綾さんが口を開いた。
「葵くんにしないといけないお話は4つあるんです。まずは葵くんに謝らせてほしくて」
「謝る? 綾さんがおれに?」
だいいち一昨日初めて会ったばかりだ。
もちろん綾さんがおれを怒らせるようなことはしていない。
そう思っていると、おずおずと綾さんが訂正する。
「……謝りたいのは、わたしのことじゃなくて萌のこと、です」
「あー……」
その一言で綾さんの意図をすべて察した。
綾さんは、"顔合わせ会"のあとにカラオケ店に行ったときに萌がおれにとったとった振る舞いのことを謝るつもりだ。
というか、この間の萌さんとのやりとりが綾さんに伝わってるとしたら相当恥ずかしい。
思わず引き攣ったような笑いになってしまう。
おれの表情を見て何を思ったのか、綾さんはなんだか真っ青な表情になって立ち上がり、テーブルに額をぶつけるんじゃないかという勢いで頭を下げる。
「本当にごめんなさい! 萌は、葵さんに謝る必要ないって言って来なかったんですけど、やっぱり怒ってますよね……、やっぱり初対面の人にとっていい態度じゃなかったです。あとで萌にもかならずちゃんと謝らせますので」
「待って待って! おれはぜんぜん怒ってないし、ぜんぜん気にしてないから。顔を上げてよ、ね?」
綾さんの謝り方は必死そのもので、さすがにおれも焦って頭をさげるのを止めさせる。
……心なしか、周囲のお客さんからの視線を感じる気がするけど、きっと気のせいだ。うん。
顔を上げた綾さんの表情は、少し涙ぐんでいて、悲愴的だった。
「ほんと、ですか?」
「うん。まあ、あの時はちょっとびっくりしたけどね。でもおこってはないから。色々お話聞けて楽しかったし、おれの方こそあの子に嫌われてなくてよかったと思ってるよ」
「……ありがとうございます。葵さんが優しい人でよかったです」
「正直な感想言ってるだけだよ」
「でも、やっぱり葵さんは優しいです」
ようやく、笑顔になってくれた。
そのホッとして嬉しそうな表情は、綾さんの美貌と組み合わさると純真無垢な信頼を向けられてるみたいで。
……もっと正直なことを言えば、あの時の"誘惑"に感じた女の子の身体の柔らかさは、いろんな意味で忘れられないものだった。
あの時の記憶は、こんな純粋な眼差しを向けてくれる綾さんには絶対内緒だ。
そんなよこしまな独占欲と劣情を胸にしまい込んでいると、女性の店員さんが注文したコーヒーとケーキが運んできてくれた。
淹れたてのコーヒーのいい香りがする。
口に含んでみると……うん、やっぱり美味しい。
「……ミルクもお砂糖も使わないんですね」
綾さんが自分のコップにミルクを垂らして一口飲みながら、ちょっと感心したみたいに言ってくる。
さっき謝ってきたときの鬼気迫った感じは無くなっていて、さっきまでの落ち着いた綾さんの表情と口ぶりに戻っていた。
美味しいコーヒーが、おれたちの気分を爽やかにしてくれた。
「うん。今日は甘いケーキもあるからコーヒーの苦味と丁度いいかなって思って」
「わたしはそのまま飲むのはちょっと苦手で……ミルクを入れたら美味しく飲めるんですけど」
「あはは、まあ自分がいちばん美味しい飲み方で飲むのが大事だよ」
そして、セットのケーキを一口頂く。
このお店のケーキは日替わりで、今日はフルーツタルトとチーズケーキだったのでおれはチーズケーキを選択。
綾さんはフルーツタルトだ。
「……おいしい」
「ね、おいしいよね。ここのお店」
綾さんもケーキを口に運んで、思わず感嘆の台詞が漏れたようだった。
おれも完全に同意する。このお店はお気に入りなのだ。
それにしても、綾さんがケーキを食べる姿のなんと絵になることか。
初めて会ったときからずっと綾さんは背筋がピンと伸びているし、座っていても姿勢が本当に綺麗な人だった。
ケーキを味わう姿とか、ため息が出そうなくらい清楚で美しかった。
気が付くと見惚れてしまっている。
それに、ふたりで駅で待ち合わせて、喫茶店でケーキを食べるなんて。
これってまるでデート、なのでは……
今更ながら気づいてしまうと、どうしても目の前の女の子を意識してしまう。
ただでさえ感動的なくらいの美人だというのに……
「それで、ふたつ目のお話なんですけど」
そんな綾さんの声ではっと我に返る。
今日は綾さんがおれにお話があるといってこうして会っているのだ。
忘れそうになっていた。
おれが自分に見惚れてる視線には、どうやら綾さんは気づいてないらしくて助かった。
「葵さんに受け取ってほしいものがあって」
そういうと、綾さんはカバンから何かを取り出して、これです、と手渡ししてくる。
それは長細くて、光沢のある紙のようなもので、
――――粕谷栞ピアノリサイタル ご招待券
そう書いてあった。
ドレス姿の栞が満面の笑みを浮かべてる写真の下に、プログラムの曲目と、会場はオホリホール……鮮烈なデビューコンサートを煽る文もあった。
日付はちょうど一週間後。
「これは栞から、だよね?」
「はい。本当は栞が自分で葵さんに渡したかったみたいなんですけど、レッスンと練習が大詰めで……ほかにも衣装合わせとかもあって、今日は来れなくて」
「中学3年でリサイタルやっちゃうんだから、相当すごいよ」
「葵さんも知ってたんですか?」
「元々聴きにいくつもりだったよ。チケットはまだ買ってなかったけど」
栞のことはもちろん4年前に会った時から知ってたわけだけど、そのあと全国の18歳以下の頂点に立ったコンクールの時、おれは実は演奏を聴いている。
まさか、栞がおれのことをそんな命の恩人扱いしてるとは想像してなかったけど。
だからおれは栞のピアノの実力は実際に聴いて知っているし、注目している。
この夏地元でコンサートを開くということも前もって知っていた。
まあ、全席自由だし、いくら優勝したといっても学生コンクールの優勝者なんて世間的にはまだまだ無名と言っていいから席が無くなることもないだろうと思って、チケットは当日のを買うつもりだったけど。
実力がすばらしいことはもちろん知っているので、とても期待している。
「こうしてチケット貰ったらますます行かないわけにはいかなくなっちゃったね。栞にはかならず聴きに行くから、楽しみにしてますって伝えておいてほしい」
「栞も喜ぶと思います。ありがとう」
この夏の楽しみがまたひとつ増えた気分だった。
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