初夏色ブルーノート 《Barライブ編》
野森ちえこ
第1話 バス待ちのオアシス
店にはいって六歩半。
頭上から、クッとくぐもった音が聞こえた。
視線をあげれば、そこには笑いを噛み殺しきれていない、さわやかイケメンの姿があった。
「笑ったな」
「すみません、つい。お疲れのようですね」
左手のひらにあるトレイには水とおしぼり。現在バリスタ修行中なのだという情報は、このまえ本人から仕入れたばかりだ。
「悪かったわねオッサンみたいで」
「そんなこといってませんよ」
「いわなくても思ってるでしょー」
「……思ってませんよ?」
わざとらしく目をそらすイケメンくんに、明子もわざとらしく睨んでみせる。
アンティーク調に整えられた店内は、狭いながらもゆったりとした空気に包まれている。
鼻腔をくすぐるコーヒーの香り。給仕してくれるのは見目麗しい青年。
仕事に疲れた心と五感がよろこぶ店である。一本逃すと二十分、タイミングによっては三十分待ちになるバスに感謝したくなるくらいだ。
♭
最寄り駅から明子が暮らすアパートまで、体力満タンで歩いたとしても三十分近くかかる。一日働いて重くなった足だとさらに数分プラスされる。
バス停はアパートのすぐまえにあるのだけど、いかんせん本数がすくない。どちらかといえば都会に分類される地域なのに、一時間に一本か二本。朝晩の通勤時間帯でも、せいぜい三本である。
部屋を借りる際しっかりチェックしなかった明子自身のせいなのだが、毎日のことだけにかなり不便だ。
そして、いつも悩んでいたのが会社帰りである。明子が停留所につく直前に、バスが出てしまった場合だ。
歩くべきか待つべきか。
歩いたほうが多少はやく帰れるものの、そのぶん疲れるし、数分の違いだったら待っていたほうがいいのではないか。けれど、ボケっと待っているのもそれはそれで疲れる。と、毎回悩んで、悩んでいるうちに三分五分と時間が経ち、結果的に『待つ』に軍配があがる。
そうなることは最初からわかっているのに毎回悩むという、なんとも不毛な葛藤をくり返していたのである。
そんな、ある種のルーティンに変化がおとずれたのは二か月ほどまえ。まだまだ冷えこむことも多い、三月なかばのことだった。
その日は風が強かった。ついでに夕方からは雨まで降りだした。駅からバス停までのわずか二、三分で全身びっしょり。グレーのワイドパンツなんて真っ黒になった。無情にもバスは出たばかり。交差点をまがっていくバスのお尻が見えたときの絶望感といったらなかった。
そうして明子は、現在のアパートに越してきて以来はじめて、悩まず迷わず歩くことにしたのである。が、五分も経たないうちに強風で傘の骨が折れた。
しかし明子は進んだ。進むしかなかった。なにしろ、目に見える範囲にはコンビニすら見あたらない。寒いし、びしょ濡れだし、傘はつかいものにならないし、気分的にはもう遭難寸前である。そんなときだった。
数メートル先のまがり角に『Cafe コモド』の看板をみつけたのは。
♭
コモドが店をかまえているのは、明子がいつも乗車するバス停の、ひとつ先の停留所。そこからほんの数メートルという場所だった。
おかげであれ以来、バスを逃しても悩まなくなった。ひどい目にあったが、結果オーライである。
店のオーナーはイケメンくんのおじいさんで、現在も日中は店に立っているらしい。
素人の明子からすればイケメンくんのコーヒーも十分おいしいと思うのだけど、『祖父のコーヒーには、まだまだとてもかないません』という彼の言葉はどうやら謙遜でもなさそうなので、今度の休みにでも昼間きてみようと思っている。
それにこのおじいさん、なにやらおもしろそうな人物なのだ。
♭
おまけですと、コーヒーにクッキーを添えてくれたイケメンくんは、はたして真のイケメンなのか、それとも女泣かせのプレイボーイなのか。
明子の見立てでは微妙なところであるが、観賞するぶんにはなんら差しつかえない。やはりイケメンは見て楽しむにかぎる。
コーヒーの苦味とクッキーの素朴な甘みに人心地ついたところで、低く流れている音楽に意識が向いた。
しゃがれた甘い歌声。どこかで聴いたことがあるメロディ。
ポップスかロックか、いや、ブルースロックか。そのへんのくくりは明子にはよくわからないし、洋楽はもっとわからないのだけれど、今日は店の雰囲気に音がとけこんでいる。
そう『今日は』である。
前回きたときはサンバだったし、いつだったか、ちいさい子がよろこびそうなアニメソングが流れていた日もあった。
なんでも、おじいさんの趣向なのだそうだ。
その日最初に来店したお客さんの印象、その場のイメージで、一日の音楽をきめるのだとか。たとえ常連でも、その日その日の印象で流す音楽が変わるらしい。
ちなみに、最初のお客さんがくるまでは、あたりさわりのない、朝っぽい音楽をかけているという。
人間観察の訓練とか、お客さんを理解するためとか、なにか理由があるのかといえば、そうでもないようで、本人はきっぱりと『ただの遊び』だといい切っているらしい。
真偽のほどはわからないが、おもしろそうな人であることは間違いない。ぜひ一度会ってみたいものだ。
どこかで聴いたような曲がおわり、つぎの曲がはじまった。
手に持ったカップが、口に届くまえに停止する。
これは、知っている。
とても、とてもよく知っている。
くらりと、めまいにも似た感覚をおぼえて、明子は反射的に目をとじた。
耳にはいってくるものとはちがう、もう一つの音が記憶の底で流れだす。
明子の脳裏に、ありありとよみがえってくる光景があった。
オレンジ色の光に包まれたステージ。
深く澄んだアコースティック・ギターの音色。
クセのある、かすれた歌声。
過去の音と今が、耳の奥で重なった。
(つづく)
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