その廿二 峠
「今はそっちさん行きなはらんが良かですもんな」
道のわきの石に腰を掛けて、五十恰好の人の好さそうな男が
この人も
「先生は今日は
向うは自分の事を見知っているらしい。
「はい、ちょっと本校の
「はあ、そぎゃんですか……」
自分はこの春から
今日は
それにしても、会議は中々終わらない。じりじりしていると、一人の先生がこちらの様子を心配して、
「ほら、川田先生な向こうまで帰らっさにゃいかんですけん」と教頭に促した。
「ああ、そぎゃな……。そるなら、本件は……」
――やっと終わった。
校長などへの挨拶もそこそこに、そそくさと校門を後にした。
寂しい峠を上ったり下りたり、気持ちは急くが歩みは思うようには捗らない。息を切らしながらようやくここまでやって来たが、下宿に辿り着くにはあと半里ほど同じような山道を辿らねばならぬ。
その上、この先には青緑色の汚い水をたたえた小さな沼がある。昼でも薄暗く、心持ちの良くない場所である。想像するだに何とも心細い。すっかり暮れてしまう前に何とかそこを通り抜けたい。
「まあ、先生もほら、そこに坐んなはらんですか。今は行かっさん
黄昏時に掛かりつつある時分、空模様も怪しいというのに、実に悠長なことである。それに、今は行かぬが良いとはどういうことだろうか。寂しい山道に連れが出来たことはありがたいが、ここで休んでいる
不審に思っていると、その人は左手に
まだ打ち立つつもりは無いのか――
「先生…… 先生な、そん
何本も何も、辻でも何でも無い一本道なのにおかしなことを聞くものである。
「一本にしか見えませんが……」
当たり前の事を当たり前に答えた。
「そうな、そぎゃんですかな…… あんな、
「はあ……」
「こぎゃん
男は澄ました顔で、頻りに莨を吹かしている。泰然自若たるものであるが、自分の苛々は一層増幅される。
やがて、男のまわりに烟が殊の外もうもうと立ち込めてきた。
いやに
みるみるうちに、男の輪郭が朧になって行く。
はて、これは一体?――そう思った途端、目の前から忽然と男も烟も消え失せ、ほんの今まで腰掛けていた石ばかりがそこに残った。
背中がぞわりとなって、体中の毛という毛が一本立ちするように思われる。
前を見ると、あの一本だった筈の道が幾筋にも分かれてあった。
あたりは一層暗くなる。冷たいものがぽつりと頬に落ちて来た。
<了>
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