第一話/おはよう、異世界
微かに風のようなものを感じた。わずかだが、暖かさも感じる。ゆっくりとだが目を開けるとそこから見える景色はいつもの白い天井ではなかった。
一言で表すなら、森だ。高層ビルような巨大な木々が、目の前に広がっている。
状況が理解できない。自分は確かにベッドに寝ていたはずだ。これは夢だと思った。
暖かい日差しに目が眩み、不意に腕が動いた。腕が動いた!?今まで自由にすら動かなかった腕が。
「あ、ああ…」
その様を感じて声が出る、まだ生まれて数年のように声が若い。
「こ、こえが…でる?」
夢としてはやけにリアルだ。自由に動く腕を動かしてみる。顔に向けた手のひらは、まるで子供のもののように小さい。
「あ、ああ、わあああああ!!」
驚嘆の声が漏れる。動く手を使いほっぺを思いっきりつねってみたが、状況は変わらなかった。
まさかとは思ったが、足に力を込めてみる。動いた…!
木の根を支えにしながらゆっくりと立ち上がり、掌を見つめた。体が動く。それも自由にだ。
「やった、やったあああああ!」
大声で叫ぶ。自由に動く手足は何よりもうれしいものだった。奇跡としか思えない。
一しきり叫んだあと唐突に我に返り、辺りを見回した。どこを見ても巨大な木が生えている。地面は草でおおわれてもさもさしていて、見渡せる景色は巨大な木々ばかりだ。
なにげなく自分の掌を見つめた。骨ばっていたはずの手は、明らかに幼い頃に戻っているように小さかった。
「夢じゃ…ない?」
自分の体をよく見てみる。ぶかぶかの服に子供の手足。動くだけじゃない、若返っている。
状況は分からないが、自分はどうやら見知らぬ世界にいるらしい。一つ分かったのはこれは夢じゃないってこと。
しかし問題はいくつもあって、冷静に考えればあまり喜べそうにない。まず、ここがどこか、が分からない。衣食住がない。もし、動物に襲われたら、一巻の終わりだろう。
そもそも武器があったとしても、幼いままでは無力に無駄だ。一刻も早く自分以外の人間に出会わなければ…考えてみれば、言葉が通じるかすら不明だ。
それでも、せっかくこの世界にやってこれたのだ。この世界をこの状況を楽しまければもったいない。もう一歩、もう少しだけ足を動かす。とりあえず、この森を出ることから始めてみよう。
何時間歩いたのだろうか。足はただの棒切れと化した。森は一向に景色を変えず、疲れだけが蓄積している。頭がくらくらして、その場に座り込んだ。息は荒く、呼吸も浅い。
ここはやはり地獄かもしれない。途中からそう考えて少し落ち込んだ。まず、川でも見つかればよかったのだろうが、神様はそこまではしてくれなかった。
このままここで休み、また明日にもう一度、可能性に賭けて進んでみよう。そう考えた時だった。
前から、何か近づいてくる音がした。枯れ葉と土を踏む音が。蓮はゆっくりと後ろに下がった。その音の主が、人間と決まったわけじゃないからだ。
下手をすれば、喰われてしまうかもしれない。じっと前を見る。ゆっくりと木々の隙間から現れたのは残念なことに人間じゃなかった。
「うそだ…」
つい本音を口にする。現れたのは一言でいえば狼だが、姿かたちが全く違う。微かな腐臭、らせん状の角。元居た世界には居なかった生物だ。
そいつは少年をじっと見つめ、笑ったように口角をあげた。
次の瞬きの前に少年は一目散に駆け出していた。アレは明らかに人間に害をなす存在だ。木々の根元に足を取られそうになりながら今までの疲れを吹き飛ばしたように走り続ける。
後ろからは木々の枝を折りながら、恐らくあの邪悪な笑みでこちらを食って掛からんと、追いかけている音が聞こえる。
もう息が切れ始めた。足がおぼつかない。目の前が点滅したかのように、見える。ふらついた体と思考ではどうすればいいかも分からない。
遂に足が木の根に引っ掛かり、大きく転倒した。すぐ先にあの生物が、品定めをするかの如くじっくりと少年の体を見ていた。口を大きく開く。
鋸の様な歯に少年は恐怖した、自分に対抗手段はない、このまま大人しく殺されるのだろうか。せっかく手に入れた病のない体をこんなことで終わらせたくなかった。
こうなると分かっていれば、あの白い部屋で一生を終えたとしてもよかった気さえした。
でも、それでも、これが夢だとしても、つかの間の冒険がこんなところで終わるのはとても悲しく辛かった。
頬を何かが伝う、涙だ。元の世界に居たときは枯れてしまっていた涙が、目から溢れている。
角の生物が、こっちに近づいてきたとき、右の方から音が聞こえた。不意に角の生物が、音の鳴ったほうに顔を向けた。
その瞬間に、風を切る音がして、角の生物の額に矢が突き刺さった。角の生物はゆっくりと倒れるとそのまま動かなくなった。
それの少し後で木々をかき分け、現れたのは弓を手にした背の高い何者かだった。木々の影のせいで顔はあまり見えなかったが民族衣装の様な服装だった。
「男の子だろ、そう泣くんじゃないよ」
声の主はどうやら女性の様だ。力強いが、優しさも秘めている声だった。その人物は、影からゆっくりとこちらに向かってきた。
光が当たり、顔が見えた。年齢は今の少年よりずっと上、三十代後半くらいだろうか。灰色の髪をしていて髪は長髪で、後ろ手に縛っていた。
「なんでこんなところに人がいるんだと思ったけど、まさか坊や……転生者かい?」
少しの沈黙の後、彼女はゆっくりと答えた。転生者とは初めて聞く言葉だった。転生ということは元の世界の自分は死んだのだろうか。
「よりにもよって、この千年樹海に落ちてくるとはねぇ…私がいたからよかったものの…坊や、悪運が強いみたいだね」
くすくすと笑いながら蓮に近づいてしゃがみ込み、やさしく頭を撫でた。
「あんた、名前は?ちなみに私はセロハ。ここで生活してる変わり者」
「蓮…、忠道蓮…」
「レン、ね。ここで話すのもなんだし、私の家においで。様子を見るに相当疲れてるみたいだしね。ほら立てる?」
差し出されたセロハの手は女性にしてはごつごつとしていて、男のようだった。レンはやっとの思いで手を掴む。その瞬間糸が切れたように、体の自由が無くなり、セロハの胸に倒れ込んだ。
「ちょっと、大丈夫?」
「…あ…」
その言葉を最後にレンの感覚は真っ暗闇に落ちていき、意識を閉じた。
次に目覚めたとき、一番最初に感じたのはふわふわでいい匂いの何かだった。どうやらレンはベッドに寝かされているようで、体は重いままだったが、ゆっくりだが頭は動いた。
頭を動かして辺りを見回す。巨大な木を削り作ったような空間。小さな部屋の様だ。見える範囲にある小さな机と小さな箪笥以外に特に装飾は見当たらない。ヒノキのような香りがした。
深く深呼吸して、状況を確認しようとしたとき、扉が開き、お盆を持ったセロハが入ってきた。
「目、覚めたみたいね。二日も寝てたから心配したわ。思ったより元気そうで何より」
お盆を机に置き、レンの枕元まで来たセロハは微笑みながらレンの額に手を当てた。
「熱も引いたみたいね。お腹すいているでしょう?。大丈夫、これを食べれば元気が出るから」
そう言って、お盆の上から木の入れ物に入ったスープを差し出した。かぼちゃのような美味しそうな香りがした。途端にお腹が鳴った。
「まだ、手、動かないのね。じゃあ、食べさせてあげる」
木のスプーンにスープを入れてレンの口の前まで差し出した。レンは弱弱しく口を開く。そっと流し込まれたスープはレンの体を暖め、ゆっくりと体全体に広がっていくような感覚にさせた。
「う、うううう」
途端に涙が溢れてきた。セロハの母のような優しさに、レンは心から涙を流した。嬉しかった、有難かった、そのすべての感情が涙となって溢れたようだ。
「ちょっと、そんなに不味いかった?味には自身があったのだけど…」
セロハは慌てたような表情になり、タオルでレンの涙を拭いている。
「……ありがとう、ございます…」
レンは小さく呟く様に言った。目の前は涙で見えなかったがセロハが傍にいてくれていることだけは分かる。
「どういたしまして」
セロハは微笑み、レンの頭をなでながら答えた。
それから少しの間はセロハの家に住まわせてもらった。もちろん無償ではない。水汲みや掃除など、レンの小さな体でもできる仕事をセロハは任せてくれた。
たまに狩りにも連れて行ってくれた。猪のような生き物やシカのような生き物を小さな弓で仕留めていた。セロハの技術は知識のないレンでも分かるような程、卓越したものだった。
レンを襲った角の怪物たちは魔物と呼ばれているらしく、狩りの最中に出会うこともあったが、セロハは無駄のない動きで処理していた。レンはこのセロハの技術に惚れこんでいた。
もし自分にもこんなに強い力があったら、もっといろんな場所に行けるのではないか、と。
でも、居候の身でそこまでお願いするわけにもいかないと思っていて、心の中だけで考えていた。
「レン、私の弟子にならない?このまま行くとこもないならさ」
居候してから大分たって、レンの体が完全に回復したとき、セロハが食事の席で突然言った。始まりはいつだって唐突なものだ。
「弟子になったら、衣食住はこのまま保証してあげるし、修行すれば、それなりに強くなれるよ。レンには才能があると、私は見ている」
真剣な眼差しのセロハと唐突な提案に若干驚いたが、今までの恩もあるしこれからの事を考えても断る理由はどこにもない。
「本当ですか?こちらこそ、どうかよろしくお願いします!」
「よし、いい返事だ。改めてこれからよろしくね、レン。それはそうと、これからは師匠って呼びな。そっちのほうが格好がいいだろう」
「今日はもう寝なさい。明日から忙しくなるよ!手加減はしないからね…!覚悟しな!」
セロハは立ち上がり、レンに握手を求めた。レンは心の底から湧き出る勇気と覚悟をもって、師匠の手を握り返した。
それから数年たった。
師匠の修行によって、鍛え上げられた肉体は元の世界での貧弱さをはるか彼方に忘れ去るほどのものになっていた。
レンには武器を扱う才能がなかったから、師匠が教えてくれたのは、体術だった。元来人に宿る「気」と、この世界に漂う粒子である「マナ」によって己の体を強化し、気の流れを操作して攻撃を繰り出す。その名を「天貫術」
師匠によると体術ならば王国の護衛兵士に引けを取らない実力まで上がったらしかった。
これも毎日欠かさず行っている修行のおかげだと思う。思えば初めこそ走り込みや、岩上げといったオーソドックスな修行だったのだが、徐々に崖を小さな突起だけを利用して駆け上がったり、
師匠との言葉だけの組手という地獄の、殺し合いのような訓練になっていった。もちろんだが、怪我も何度もしたし骨も折れた。そのたびに師匠の不思議な力で強制的に治され地獄の訓練は続いていった。
ある時を過ぎてから、急に怪我をする頻度が減り、師匠の攻撃が見えるようになった。これは師匠によると技術の向上によって得た、スキル、と呼ばれるものらしく、本来ならば勇者と呼ばれる存在にしか覚えることのできないものらしい。
それもこれもだが、師匠の修行を耐えられたのは、体が自由に動き、さらに自分を認めてくれる存在がいたことが大きかった。師匠から言われていた、よくやった、この一言だけで正直レンは三か月くらいなら耐えられるだろう。
そしてレンには夢があった。いつか師匠の下を離れ、冒険に出かけることである。せっかく異世界にやってきたのだ、それくらいしても神様から文句の一つ言われようはなかろう。
しかし問題点も多数ある。この数年してきたのは修行と文字の読み書きだけだ。師匠はこの世界の情勢も情報も何一つ教えてくれなかった。正直、金の数え方すらわからない。そもそも住んでいる土地から出たことすらない。
衣食住の全てがこの大樹に囲まれた家で完結していたからだ。
師匠の家はこの大樹の森、正確に言えば「千年樹海」には似つかわしくない平屋の家で、小さな小川のすぐそばに建てられている。小川から魚は取れるし、肉は師匠やレンが修行ついでに狩ってくる猪のような魔物がいるし、野菜は家の裏手に畑があった。
家は師匠がたった一人で開墾したという平地に立っており、家の四方に張られた結界によって住みやすい気温や天気を保たれているらしい。
部屋の数はリビングとキッチンの他に四部屋で、師匠の部屋が二つ、レンの部屋が一つ、あとはよく分からない武具や書物が納められた部屋が一つだ。家の地下は薬類を作る工房になっていた。
内装は大樹を利用して作られたという、木の温もりに溢れるもので、飽きはしなかった。というよりは白い世界だったあの頃が懐かしく感じる。
師匠は組手の時以外ほぼ書斎に籠っており、出てこない。書斎というよりは書庫といった風であり、ほかの部屋に比べて圧倒的なサイズであった。普段、レンは書斎に入ることを禁じられており、入ることはできなかったが、たまに、師匠の気まぐれで、
本を渡されたことはある。そういう日は珍しく修行は休みになるため、レンは噛り付く様に本を読んでいた。情報源がほぼ師匠のため、どんな本であろうとレンにとっては勉強の一部となる。
一番面白かったのは師匠が書いたという世界地図で、自分たちが住む、大陸について事細かに書かれていたものがあった。
千年樹海と呼ばれる大樹の森の北には、死の大雪原と呼ばれる場所があり、その先は未開拓となっていた。千年樹海を南下すると都市があるらしく、名は擦れていて読めなかったが、絵の大きさからして巨大なことは分かった。
だからとりあえず、ここを出るときはその都市を目指そうと思っていた。訓練のおかげでサバイバルには多少慣れているし、ちょうどいいかと思っていた。でも、師匠からのお許しが出ず、まだずっと先に話だと思っていた。
しかしそれは思わぬ形で実現することになる。
「レン、いるか?」
始まりは唐突だった。日課の水汲みを終わらせ、足早に家に戻った時、書斎にいる師匠が唐突にレンを呼んだ。いつもだったらもっと静かな声のはずだが、今日はどこか違う気がした。
「何でしょうか?」
少し不安があった。修行に不満があったのだろうか?魔物の間引きに不備があったのだろうか?レンは扉を小さくノックした。師匠は滅多に怒らない。
扉を開けるといつもの師匠が渋い顔で瞼を細めて座っていた。片手には見たことのない装飾の手紙のようなものを持っていた。
「レン、急なお願いで済まないが…」
「私の代わりに王都に向かってほしい、そこで行われる国礼祭に出ろ、日時はずっと先だからお前なら徒歩でも行ける」
「はい?」
いきなりすぎて、理解が追い付かなかった。
「私はこの大陸を離れられない。そこでお前の出番だ。お前ならもう、外に出ても大丈夫だろ」
「いやでも…」
「ずいぶん前から、外に出たいと言っていたじゃないか。ちょうどいい機会だと、私は思うがね」
「いえ…行きます!」
確かに、これは大きなチャンスだ。レンは深く考える前に二つ返事で見切り発車した。最近は外の事ばかり考えてるのもあって、それも大分後押しになっている。多分この時のレンは少しにやついていたと思う。
「そうと決まれば話も早い、早速準備しよう。ついて来なさい」
師匠は笑顔になって立ち上がり、書斎を出ていき、そのまま開かずの部屋に入っていった。レンも急いでそれを追う。
開かずの部屋はレンが立ち入り禁止になっている小さな部屋だ。師匠の部屋の奥にあって、不思議な結界で守られていた。
「ちょっと待ってろ」
師匠は結界を解くと、一言だけ言って中に入っていった。外から見た雰囲気はただの物置だった。別段変わったものもない。師匠が何かを探す音が聞こえ、埃が舞っていた。
「あった、これだ」
運び出されたのは長方形の箱だった。ふたを開けると、中には質素だが上等な質であろう服が入っていた。
「私のお古だが、男のお前でも着れるだろう。当時、ユグドラシアで流行った多機能の魔法ローブだぞ。魔法が使えないお前でも、力を発揮することができるだろうし…」
レンはこの世界の人間ではないから、魔法は使えない。天貫術はマナこそ扱うが、魔法のくくりには入らない。どちらかと言えば技術の方だ。
「こんないいもの、本当にいいんですか?」
「これを着るにはいろいろ制約があってな。今の私じゃ、着れないのさ。それなら扱うことができるお前にでも、旅立ち前の贈り物としてくれてやったほうがいい。さっそく着てみろ」
促されるまま、服に袖を通す。割と分厚いと思っていたが、不思議と重さは感じられなかった。それに、サイズも自分に勝手に合った気がする。
「いいじゃないか、似合ってるよ。ハシュタ工房製の魔法が掛かっているから、迷彩模様にもなるし、ポケットの内部の大きさもほぼ自由自在だぞ」
そういうと師匠は、開かずの部屋からもう一つ何か箱を取り出した。装飾は全くなく味気ない。ふたを開けると、信じられないほどギチギチにお札が詰まっていた。
「これは軍資金だ、二百万ベルカある。奴隷の一人くらいなら買えるだろう。ああそれと…」
「奴隷を買うならメイド教会で買えよ、必ずな。お前一人じゃ王都にたどり着けんだろうし。金の計算も危ういからな」
「師匠、待ってください、メイド教会っていったい…?」
レンは困惑しきりで師匠に詰め寄った。見たこともない大金に、謎の組織。考えるなと言ったほうが無理だ。
「メイド教会ってのはこの世界で一番大きな奴隷商ギルドだ。何をしてもいいメイドを売ってる」
「メイドっていうのは普通お屋敷にいて、主を待つものじゃないんですか?」
「特務型ってのがいてな、連れまわせるメイドがいるんだ。囮にして逃げてもいいし一緒に壁に立ち向かってもいいメイドがな。ま、安心しろ、お前が思ってるほどか弱くはない」
少しも想像ができない。連れまわせるメイドってなんだ?その考えがレンの頭を支配していた。
「それと、メイド教会の支部に着いたら、これを必ず渡せ、昔馴染みの好でなにかサービスしてくれるかもしれん」
そう言って、師匠から渡されたのは小さな手紙だった。
「知り合いがいるんですか、そのメイド教会に」
「…本当に昔の昔だがな。まああいつにはそれも関係ないか…」
「レン、南の結界は解いておく、出発するなら今日中に出ろ。まずは南下して大都市、果ての星クォーレイスを目指せ。そこから王都のある大陸に行くための船が出ている」
「そこで必ずメイドを買って、船に乗れ。あとはメイドがお前を支えてくれるだろう」
師匠はにこやかに言ったがレンには不安しかない。
「なぜ師匠はここを出られないんです?」
一つ気になったことを聞いてみる。
「…時が来たら正直に話す。それまでは聞くな」
少し影のある顔になった師匠がぼそりと呟くようにいった。こんな顔の師匠は見たことがなかった。
「それに、お前にもそろそろ経験を積ませたいと思っていたところだ、ちょうどいいだろ。ま、私の心配なんかしないで楽しんで来い」
「…はい!」
若干心に影が残ったが、割り切ることにしたレンは、師匠に勧められるまま出発の準備を始めた。
結局、準備がおしてしまって、いざ出発するころには太陽がすっかり真上まで来てしまった。準備の中身は、師匠が調合した即効性の回復薬数本と切れ味抜群のナイフ一本と野営用のテント一つ。
あとは恐ろしいほどの大金と師匠の手紙だけだ。食料はその場その場で調達することにした。
ローブのポケットに荷物を詰め込み、外に出しているのはナイフとリュックだけになった。あれだけの荷物を詰めておきながら、ローブは全く重くない。
「では、師匠、行ってきます!」
玄関に立ち、師匠に深々とお辞儀した。なんだかんだ言ってこれからの旅は楽しみで仕方なかった。
「ああ、気を付けて行って来い。お前の旅が良きものになることを願っている、元気でな」
師匠は微笑をレンに向けながら小さく手を振った。
少年は親元を離れ初めての一歩を踏み出す。胸に希望を抱き、背に期待を乗せて。
これからの旅が、素晴らしいものになるようにと願いながら。
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