夜行列車
列車が激しく揺れて走っていた。
窓の外を見るが、景色は夜に溶け込んではっきりしない。
山や草原があるのかもしれないが、みんなひとつの黒い塊になっていた。めまぐるしい速さで、夜色の世界は視界を滑っていく。
私は外の様子を眺めながら、窓側の席に座って頬杖をついていた。
随分退屈な景色だが、他に何もすることがない。せめて月でも出ていれば、面白味もない景色でも少しは楽しめるだろうに。
薄暗い常夜灯が車内を淡く照らしている。
他に光源らしい光源は列車の中にも外にもなかった。この車両には他に人はいない。列車が揺れる音だけが静かな車内に響いている。この無機質で規則的な音も退屈だ。
それにしても、目的地に着くまでに時間がかかる。
もう生涯をここで過ごしたのではないかと思うほど、列車内にいる時間は長かった。もう何日経ったのかさえ定かではない。この列車の終着駅はそんなに遠かっただろうか。景色が単調で退屈だから、そう感じているだけかもしれない。
突然、静かな車内にがたん、と大きな音が響いた。
車両と車両を繋ぐ扉を誰かが開けた音のようだ。開いた扉が閉まり、革靴で床板を鳴らしながら足音が近づいてくる。
私は突然この車両にやってきた異人には目もくれず、外を眺めていた。
すると、やってきた異人は私の向かい側の席に腰掛けた。席はいくつも空いているのに、何を好んで私の目の前に座ったのだろう。そんな興味とともに、私は向かいへ視線をやる。
夜色のスーツを品良く着こなした紳士が、姿勢よく座っている。
紳士は色褪せた革のトランクを横にして、膝の上に乗せていた。
その紳士は、灰色の毛の猫だった。
両耳の間に、黒いシルクハットが乗っている。その瞳は万華鏡だった。色も大きさもまばらなガラスが目の中に隙間なく嵌り、きらきらと光っている。
猫の紳士はガラスの瞳で私をじいっと見つめていた。感情のない、無機質な目だった。私は猫の大きな瞳を見返した。ガラスの瞳に、私の顔がたくさん映っている。
「こんばんは」
猫の紳士が口を開いた。
「今夜は月が綺麗ですね」
私は訝しげにちらと外を見る。外は夜の闇が広がるばかりで、月は出ていない。
「どこでお乗りになったのですか?」
紳士は唐突に尋ねた。突然話しかけられ、私は少々面食らった。
車内には何もないし外の景色もつまらない。紳士は退屈を紛らせるためにわざわざここに座り、私に話しかけているのかもしれない。そう思い至ると、この紳士との会話も暇つぶしにはちょうどいいかもしれないと思った。私は口を開いた。
「あなたこそ、どこでお乗りになったのですか?」
猫の紳士は答える。
「何をおっしゃるのです! 猫の国に決まっているではありませんか。猫はみんな猫の国からやってくるのですよ」
そうだっただろうか。長い間列車に乗っていたので、色々なことを忘れてしまった気がする。
私はふと北の地に小さな猫だけの国があったことを思い出す。それは常識だ。随分世間知らずなことを尋ねてしまったようで、私は少々恥ずかしく思った。
「どこでお乗りになったのですか?」
再び紳士に尋ねられ、さてどこから乗ったのだろうかと私は考えた。
乗ったときは確かに覚えていたはずなのに、駅名が出てこない。列車に乗ったとき、夕暮れが眩しかったことや、駅には他に誰もいなかったことは覚えている。
駅名だけが頭から抜け落ちたように思い出せなくなっていた。
私は外套のポケットに手を突っ込んだ。確か切符を入れたままにしていたはずだ。切符を見れば乗った駅名がわかるだろう。探り当てた切符をポケットから取り出す。
「え……?」
私は思わず声を上げた。切符の表面を確かめるように何度も見返した。
「駅名が、ない……」
切符は、真っ白だった。普通は乗った駅の名前や、日付などが一緒に書いてあるはずなのに、切符の表面はつるりとしていて一切文字が書かれていなかった。
それでは私は、一体どの駅で乗ったのだろう。一体いつからここにいるのだろう。
「どこで乗ったか、お忘れですか」
猫の紳士が私の持つ切符へ視線を向けていた。
「お忘れになったから、切符から文字が消えてしまっているのですよ。あなたは一体、どこからやって来たのでしょうね」
私は、一体いくつの風景を通り過ぎてしまったのだろう。長い時間この列車に乗ったままで、時間も風景も、どこから来たのかさえも、覚えていたものはみんな抜け落ちてしまった。
ぼんやりと景色を眺めている間に、私は色々なことを思い出せなくなっている。通り過ぎていく景色に思い出を置いてきたかのように。
「もうあなたは帰れませんよ。この列車は来た道を戻ることはないのです。何故なら、時間は決して逆戻りをしないのですから」
猫の紳士が言う。
激しく揺れながら、列車が進む。終着駅へ向かって慌ただしく走っていく。
「どうされましたか? 顔が青いですよ」
私は紳士を見返した。
呆然としたまま固まった私の顔が、鏡のように猫のガラスの瞳に映っている。
「……あなたはどこから来たのですか?」
ガラスの瞳に映ったたくさんの私が言う。
「猫の国に決まっているではありませんか! 長い九つの時間を終えたので、他の猫より一足先にこの列車に乗ったのですよ」
紳士は淡々と答える。
「月が綺麗ですね」
灰色の猫が言う。月のない夜空を見向きもせず、私をじいっと見つめたまま。私は列車に揺られながら、このまま終着駅へと連れていかれるのだろう。
「……そういえば、ひとつ思い出したことがあります」
猫の紳士が言う。
「どこから来られたのか忘れている方は、プラットホームから来られた方が多いのだとか。何故そうなのかは知りません。不思議ですね。別に冷たい土の中からでも、湖の中からでも、アスファルトの上からでも、火の中からでもいいと思いますが……」
私には紳士の言うことがいまひとつ理解できなかった。列車に乗るのだからプラットホームから来るのは当たり前ではないだろうか。それより、土や火の中から列車に乗るという意味がよくわからない。そんなところから列車に乗れるはずがない。
プラットホーム。
猫の紳士は、私がそこから来たかもしれないという。
確かに私はどこかのプラットホームからこの列車に乗った。それ以外に覚えていることは。
夕暮れがとても眩しかったこと。
駅には他に誰もなくてもの寂しかったこと。
列車がホームに近づいてくる音を聞いた気がした。そこから覚えていることはほとんどない。気がついたら、私はここに座って外の景色を見ていた。
「……もうすぐ、終点ですね」
猫の紳士がそう言うと、アナウンスを知らせる短い音楽がスピーカーから聞こえてきた。ざらざらとした耳触りのアナウンスが車内に響いた。
「……間もなく、終点」
どこかで聞いたことがある声だった。
「……間もなく、終点です。お降りのお客様は、お忘れ物のないよう、お降りください。間もなく、終点です」
ぷつん、とアナウンスの音が切れた。
終点。誰も行ったことのない駅。誰も見たことのない駅。行っても帰ってくることは決してできない駅だから、誰もその駅のことを詳しく知らないのだそうだ。
「……もうすぐ、終点ですね」
猫の紳士が言う。いや、目の前にいる紳士はもう猫の顔をしていなかった。
目の前にいるのは私だった。私と同じ顔をした紳士が目の前に座っていた。
甲高いブレーキの音を響かせ、列車の速度が落ちていく。
この音は、列車に乗ったときも聞いた。
そうだ。視界が真っ白になって、すぐに真っ暗になった。
そして気がついたら、この列車に乗っていたのだ。
「お忘れ物ですよ」
目の前にいる私が、膝にのせていたトランクを開けた。
すると、窓の外にプラットホームの景色が滑り込んできた。
夕暮れだった。外は夜だったはずなのに、いつ夕暮れになったのだろう。窓の外を覗き込んだ私は、眩しすぎる夕暮れに目を細めた。そのホームに、黒い影が立っていた。
あれは、私だ。
とても悲しそうな顔で、他に誰もいない夕暮れのプラットホームに立っていた。
何かを諦めたような、捨てたような、ふっきれたような顔だった。
夕暮れがとても眩しかった。駅には他に誰もいなくてもの寂しかった。
ホームを挟んだ反対側の車線から、列車がやってくる。甲高い、ブレーキの音を響かせて。
そしてプラットホームの下に広がる世界へ、私は飛び込んだ。
視界が真っ白になって、すぐに真っ暗になった。
そして気がついたら、この列車に乗っていた。
私は紛れもなく、プラットホームの下からこの列車に乗ったのだ。
私は、すべてを思い出した。
窓の外は夜のプラットホームの景色に戻っていた。
再びアナウンスが鳴った。列車はいつの間にか停車している。
「……終点。終点です。お降りのお客様はお忘れ物のないようお下りください。今夜は、葬送列車をご利用いただき、まことにありがとうございます」
私と同じ声が列車の名を告げた。
葬送列車。
私がこの列車に乗ったのは、プラットホームの下には、苦しみも悲しみもない世界が広がっていると思ったからだ。そこへ行けば苦しみのない夢のような楽園に行けるのだと信じたから。
辛いことばかりのこの世界から、飛び立てると思ったからだ。
がたんと、音を立てて列車の扉が開いた。
目の前に座っていた紳士はいつの間にかいなくなっていた。
ちょうど紳士が座っていたところに、開けたままのトランクが置いてある。
開いたままのトランクには、小さな切符がひとつ、ぽつんと置かれていた。いつの間にか私が持っていた切符はなくなっている。
切符には「プラットホームの下に広がる世界」と、この葬送列車に乗った場所がしっかり書かれていた。
切符を手の中に握りこんだ。
私はトランクの蓋を閉めてそれを手に取り、列車を下りた。
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