マリンブルーの瓶詰
私は海鳴りの音を気に入っている。
知人や親戚はあのざわざわとした音がうるさそうだと言うのだが、そう思ったことは一度もない。両親も既に他界した今、茫洋とした一人住まいにこの波の音はかえって心地よかった。
この家は周囲に民家もなく、自分の心臓の音や息遣いだけが聞こえるという日も少なくない。そんな暮らしの中では、海鳴りは生活を賑やかにしてくれる頼もしい存在でもあった。
家の窓からは海が見える。窓を開けると潮の香りがした。
夏の盛りでもあまり暑くないし、べたべたしないさっぱりとした風が吹く。冬の間は寒さが厳しいが、夏は避暑によい地だ。
両親が死んでから私は都会を離れ、祖父が昔暮らしていたこの家に移り住んだ。
都会らしい密集した建物もビルもなく、車や人が行き交うめまぐるしさも人混みもない。喧騒に苛まれることのない静かな生活を送ることができる。
家は浜から近くの小高い丘の上にある。私は日課の散歩に出た。
家を出て道なりに丘を下ると、すぐに海辺に出る。
雲一つない晴天だった。日照は厳しく、頭の上がじりじりと焦げるようだった。白い砂浜が陽の光を照り返して白く輝いている。眩しくて目を細めた。
砂浜はずっと向こうの岬までだらだらと続いている。
砂浜に白波と潮騒が打ち寄せては返ってゆく。
暇つぶしに海辺を散歩するようになって久しい。ここ数年は変わりばえのしない生活に飽きてこうして海辺に出るようになったが、この散歩ですらその生活の一部になっていた。
だが最近、そんな生活に新しい変化が訪れた。
私は砂浜をのんびり歩きながら、波がやってこないぎりぎりの場所を歩く。海からは木端や塵などが打ち寄せられている。それらを注意深く見下ろしながら私は進んだ。
塵芥の中にガラス瓶を見つけ、私は立ち止まる。
どうやら今日も打ち上げられてきたようだ。私は波が引いたときを見計らって瓶を拾い上げた。
海水と砂浜で汚れた透明なガラス瓶は少し青みがかかっていて、ごつごつとした凹凸がある。コルクで封がされた瓶の中には、いつものように紙が丸まって入っていた。私は満足し、しばし散歩を続けてから家に戻った。
私の最近の楽しみというのが、このガラス瓶である。
このガラス瓶は毎日のように浜に打ち上げられてくる。
拾った瓶は軽く洗ってから部屋の棚に並べられ、もう十以上の数になっていた。どこからやってくるのか、誰が書いているのかは知らない。ただ海の向こうからやってくるボトルメッセージに興味を覚え、ふと拾って読んでみたのだ。
それから私は、退屈しのぎにガラス瓶を拾い、中を読むようになった。
他人の手紙を覗き見るというのはひどく背徳的で、それゆえに蠱惑的だった。その恍惚は何もない私の暮らしの、大きな刺激となっている。
この辺りには私しか住んでいない。所々に金持ちが避暑に訪れる別荘があるが、それもここからは少し離れている。
私がやってくる手紙を拾い読んだところで誰も得も損もしないだろう。そもそも海に手紙を流している時点で、どこに行き着くのかはわからない。間違いなく届けるのなら普通の郵便を使った方が正確だ。そんな手紙を私が読んでも、書き手に文句を言われる筋合いはないはずだ。
そう開き直って、私はガラス瓶の中の手紙を読んでいる。
手紙は続き物になっていて、拾った順に読めばすべて内容が繋がっていることがすぐにわかる。ひとつにまとめて流せば手間もなくていいだろうが、毎日続き物の本を読んでいるような感覚になるので、私としてはありがたい。
手紙は、恋人らしき男に宛てているらしい。書き手の女は柔らかな筆致で、男への想いや二人の思い出を綴っていた。今日の分の手紙を瓶から取り出し、広げてみた。
***
貴方に会えなくなってから一体どれくらい経つのでしょう。
私は今なお貴方のことを想い、恋い焦がれています。私の目はすっかり光を失ってしまいましたけれど、それより以前の、貴方と過ごした眩いあの日々のことは鮮明に覚えております。
貴方は覚えていらっしゃるかしら?
水族館に行ったときのことです。私、お気に入りのワンピースを着ていきました。それに合う帽子をかぶって、ちょっとはりきってみましたの。あの水色のワンピースです。
覚えていらっしゃるかしら?
公園で待ち合わせて、私は少しだけ遅れてしまったの。それでも貴方は「大丈夫だよ」と笑ってくださった。貴方の優しさが嬉しくて、私、その日はいつもよりはしゃいでしまいました。
いつもより周りが見えなくなっていたけれど、アクアリウムの中で海の生き物たちが泳いでいるところを見られたのはとても素敵でした。
***
今日はここで終わっていた。
私は手紙を瓶に戻し、棚に並べた。棚に増えた瓶を見渡してみる。
ずらりと並んだ瓶にはすべて手紙が入っている。
何通も想いを綴るほど、女は男を想っているらしい。だがその手紙は、どこにいるともしれぬ男には届かない。私が拾い、こうして読んで集めているのだから。
私は次の日も砂浜に出てガラス瓶を探した。
ガラス瓶はやはり打ち上げられていた。
私は瓶を拾い上げ、昨日と同じように砂浜を散歩した。昨日と同じような盛夏の炎天だった。
昨日よりも風はなく、家に戻ると私の首筋には汗が浮かんでいた。水をコップに注ぎ、私は瓶を並べている部屋へ向かう。コップを机に置き、ガラス瓶の中の手紙を取り出して広げた。
***
愛しい貴方。貴方は遠くへ行ってしまった。
私はただ、貴方の傍にいたかっただけなのに。
嗚呼、ここで心を焦がして待つより、私は貴方の身元へ参ります。
ですから、貴方が私を裏切ったことなど、怒ってなどいません。貴方がいなくなったことがただ悲しく、貴方が私の元を去ったことがただ辛いのです。
ですから私、貴方の元へこの手紙を届けることにしました。貴方は私のこの想いを受け取ってくださっているでしょうか? それすらもわからないのはなんてもどかしいのでしょう。
嗚呼、愛しい貴方、すぐそちらへ参ります。早く貴方にお会いしたい。
***
女は、どうやら男と別れるか、男に捨てられるかしたらしい。
女は男を想うあまり、どこにいるかもわからない男に会いに行くという。私は手紙を広げたまま首を捻る。一体どうやって男の元へ来るというのだろう。
私は疑問に思いながらも、この手紙の主に興味が湧いていた。明日の手紙はどんな文面になるだろう。もしかしたら手紙は来ず、本当に女は男を求め旅立つのかもしれない。
私はコップの水を飲み干した。その日は手紙の続きが気になって、なかなか寝つけなかった。
翌日も私は砂浜へ行った。ボトルメッセージは届いているだろうか。
空はここ最近と同じ晴天だった。日を遮るものがない砂浜の日差しは厳しい。いつものように打ち寄せる波の横を歩いていくと、やはりガラスの瓶はあった。
私は嬉しさのあまり瓶を拾うとすぐに家に持ち帰り、いつもの部屋で手紙を開いた。
***
愛しい貴方。もう少しで貴方の元へ行くことができます。
貴方にもう少しで会えると思うと、心が張り裂けそう。
貴方が私を置いて行ってしまったことなど、もう何とも思っておりません。だって、もう少しで貴方に会えるのですもの。そんなことはもうどうとも思っておりませんわ。
私、きっとすぐに参ります。貴方は覚えていらっしゃるかしら?
一緒に出掛けたときのことを。私、水色のワンピースを着ていました。帽子もかぶって、貴方と会うのをとても楽しみにしておりましたのよ。水族館に行ったの。
貴方は覚えていらっしゃるかしら?
貴方は私にとても優しくしてくださった。
それなのに貴方は私を裏切った! 何故、あんなにも惨い仕打ちをなさったのです!
私、貴方に首を絞められて殺されてしまいましたのよ。
苦しかったですわ。私、すぐに死んでしまいましたもの。
そうして動かなくなった私を、貴方は山に連れて行って埋めてしまいました。貴方は覚えていらっしゃるかしら?
私、暗いのは苦手ですのに。とても冷たくて、暗くて、怖かったわ。
それから貴方は遠くへ行ってしまった。罪が暴かれるのを恐れて、都会から遠い、海の見える小さな家へと逃れてしまった。
私、貴方に裏切られたことは怒っていないのです。だって、もうすぐそちらに参って、貴方に会えるのですもの。
もう離れない。ずっと一緒ですわ。
もうそこまで来ていますから、待っていてくださいね。
***
読み進めていくにつれ、私の全身が小刻みに震えていった。
――この女は、この女は……!
夏だというのに寒い。冷や汗が背中を伝い、何度も全身がぞくりとした。
――まさか、今まで死人が手紙を書いて出していたとでもいうのだろうか?
――それも、あのときの女が……!
私は駆け出していた。手紙を握りしめたまま家を飛び出し、砂浜を走った。
砂上の地面に足を取られ、何度も転びそうになった。海水が跳ねる。押し寄せる波で私の足がしとどに濡れる。濡れた浜が泥のように跳ねて私の足を汚した。
ふと、海の向こうから何かが流されてくるのが見えた。私は足を止めた。
それは私に近づいてくるように波に乗ってきた。薄汚れ、敗れた淡い水色の布切れのようだった。それに見覚えがあった。白い帽子が、流れてきたそれから取れて波間に漂っている。
ぼろぼろの布切れは、いつかの水色のワンピースだった。
ワンピースを着た白骨が、私の元へ流されてきた。
ぽっかりと穴の開いた眼窩が、私をじっと見つめていた。
私は凍りついていた。
その場から早く逃げ出したいのに、がくがくと全身が震えて動くこともできなかった。
ふと、傍に見知ったガラス瓶が落ちているのが見えた。
中には手紙が入っている。私はおそるおそる腕を伸ばし、それを拾った。手がひどく震えて、コルクを外して手紙を取り出すだけに随分時間がかかった。
震える手で手紙を、そっと開いた。
***
やっとお会いできましたわね、貴方。
もう離れない。
ずっと一緒よ。
***
私は一人、何かを喚きながら駆け出していた。その場から、その女の死体から一刻も早く逃げ出したかった。
ずっと向こうの岬まで一気に駆け抜けた。
だが岬の向こうが断崖になっているのに気づいたのは、私が足を滑らせた後だった。
波間に、私の身体が吸い込まれていく。
海鳴りの音がざわざわと騒々しかった。
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