6-1.放浪者と巫女
王城の高層階には王に仕える巫女の
「ふぅ……ここ最近よく眠れませんね……」
ベッドから起き上がると洗面所に向かい、顔を濯ぐ。ふと顔を上げると鏡に艶のない自分の顔が映り込んでおり、額には玉の様な汗が張り付いている。それ以上見ていることが出来ず夜風に当たるためベランダまで移動する。
窓を開け、椅子に腰掛ける。眼下にはジルフェルナンの街並みが一望できた。王城の外壁や警邏の詰め所など僅かな場所以外に灯りはなく静まり返っている。夜空には彼女の心情とは正反対の美しい月と星々が煌めいていた。春の終わり独特の涼しく心地よい夜風が彼女の体を撫で幾分か気分が落ち着く。
「あの方はいったい……」
脳裏に焼き付いて離れないのは、英雄に相応しい力と知恵、人格を持ちながら自らのことを
今でも謁見の時の会話は一言一句間違わずに思い出せる。武器を取り上げられ、力を使うことを禁止されても揺るがない強靭な意志、近衛騎士に刃を突き付けられても微動だにしない胆力を持ち、そのうえで魔王よりも弱い力で魔王に立ち向かうと言い切った男。
「ではなぜ自分こそ召喚された英雄だと言ってくれないのですか?」
そう、そこが彼女にとっての問題だった。いや彼女だけにとってではない、きっとあの謁見の場にいたすべての者にとっての問題だろう。スール家とレグランデ家に信用されるほどの男なのだ。自分こそ英雄だと言ったとしても疑うものは少ないだろう。
「世界の守護者、巫女としての、私の使命……」
トウコクホウノフキノヒメは再び洗面所に戻り、今度は全身が映る大鏡の前に立つ。ゴクリと唾を飲み込んで決心すると着ている寝間着を脱いで下着だけになった自分の身体を見る。
自惚れるわけではないが美しい方だと思う。女性の中では長身なフーリナイアと並ぶ長身、
しかし――
「……っ! いや! やっぱりだめ!」
自分の体を抱きしめてその場に崩れ落ちる。息を荒くし、肩を震わせながらただ涙を流していた。
逆に
しかし
「母上、ご先祖様……私は怖い。自分が自分でなくなりそう……」
王家に仕える高潔な巫女などと言われていながら今自分がしていることは他人を外見と噂だけで判断し、保身に走ろうとしている。こんな自分に英雄と添い遂げる資格などあるのだろうか? いやそれ以前にこんな自分を先祖たちが見たらなんと思うだろうか? 叱責されるだろうか? 呆れられるだろうか?
怖いのだ。これから起こる全てのことが。謁見で
ああいっそのこと……彼に力ずくで押し倒され、襲っていただければ言い訳も出来るのに……いや、何を考えているのか、それも責任を
そもそも、なぜ彼は自分を呼んでくれないのだろうか。フーリナイア様に聞いた話ではすでに妻がいると聞いてはいるが、この一ヶ月書庫にある様々な書物を読み漁っている以上巫女の役目は知っているはずなのに。
もしかしたら……と嫌な予感が頭を過ぎる。
「謁見の際に私の恐れや未熟さを悟られたのでしょうか……それとも、私があまりにも
考えれば考えるほど不安と焦りが大きくなり何もかもが分からなくなる、涙が溢れて止まらない。御伽話ならここで慰めてくれる人物が出てくるのだろうが現実はそう甘くない。
彼女を慰める者がいないまま、夜は過ぎていった。
――――
「おはようございます、
「ああ、おはよう」
食堂に集まっている召使達が
最初
あまりしつこく言うのも
さて、
「今日も書物庫に行かれるんですか?」
「ああ、その通りだよ。調べたいことはまだまだあるからね」
「よく朝から夕まで集中力が持ちますねぇ、私なんか三十分だってあのかび臭いとこにいられませんよ」
「俺だって別に勉強が得意なわけではないんだけどなぁ」
「ところで、巫女殿とはどうなっているんですか?」
対面に座っていた男が話しかけてくる。他の召使や侍女たちも興味深々といった表情だった。予想していなかった質問に
「どうなってるとは?」
「いや、巫女殿との関係は進んでいますか? ていう意味なんですけど」
「巫女との関係ってなんだそれ……彼女とは謁見の時に会っただけでその後は会話どころか顔もあわせていないよ」
その返答に食堂中がざわめいた。召使たちは顔を見合わせたり、肩をすくめたりし、侍女たちはひそひそと何か話し合っていた。なぜか侍女達からは「信じられない」だとか「巫女様かわいそう」とかいう会話が聞こえてくる。
召使が何か言おうとした時、ちょうど始業の鐘がなり、皆慌ただしく自分の持ち場へと散っていく。一人の侍女が
「巫女様のことは早めに手を打っておいた方がいいですよ。フーリナイア様のこともありますし」
「はあ……?」
王城の書庫は素晴らしいものだった。王家に仕える魔法使いたちの術によって外から見るよりはるかに中は広く、神話や伝記、歴史書から学問書まで古今東西のあらゆる書物が収められていた。
「おはようございます、
「やあ、おはようアルイナン」
書庫長のアルイナンに挨拶をする。彼自身気性の穏やかな人物ではあるが、王に認められたのならと
――――
「おや……?」
正午まであと一時間ほどかという時。
ふと、視線を感じて目をやると書棚から白い服の端がチラリと見えていた。どうやらその人自身は隠れているつもりらしい。
実はここ一週間同じような視線を感じていたはいた。しかし話しかけてくる様子はなかったし、
ところが、今回は何か違った雰囲気を感じ取ったため
「あの、なにか御用ですか?」
「ヒャイッ?!」
声の主であるトウコクホウノフキノヒメは驚いた猫のように飛び上がると慌てて
肉食動物に追い詰められた小動物のように体を震わせている彼女をなんとかテーブルにまで連れていき座らせる。
とりあえず落ち着かせようと新しいカップにお茶を注いで渡す。先ほど侍女に頼んで淹れてもらったばかりのものだ。
「どうぞ」
「……」
しかし、トウコクホウノフキノヒメはお茶には手を出さず何も喋らない。時々
「どうぞ」
「……」
やはり彼女は黙り込んだままだった。
「あのう、すいません。あと私に差し出せる物と言ったら外套かこの指輪くらいしかないのですが。何か私が知らぬうちに無礼を働いてしまったのでしょうか? もしそうなら謝りますが」
「ち、違います! お茶をいただきます!」
「あ……まだ熱いからゆっくり飲んだ方が――」
トウコクホウノフキノヒメは
「熱ーーーっ!!」
思いっきり噴出した。
「あ……ああ! 申し訳ありません!」
「私に何か用事あるのでは?」
その問いかけに彼女はまたもや俯いてしまったがやがて意を決したのか顔を上げると言った。
「ほ、
「は? なんて?」
だから彼女の口から出た予想外の問いには答えを用意してなかった。
「えーと、女性の方がそういう話を好むのは知っていますが……、見ての通り私は現在いろいろと忙しい身でして、もし危急でないのであれば後回しにさせていただきたいんですが」
トウコクホウノフキノヒメは自分で言ったことがあまりに場違いな事と気付いたのかまたもや顔を真っ赤にすると「す、すいません今のは忘れてください!」とだけ言って脱兎の如く書庫から出て行ってしまった。
「なんだったんだ……」
朝食の時召使や侍女に言われたことを思い出し一抹の不安を感じながらも
――――
「進捗状況はどうですかな?」
昼の休憩が終わり、お茶を飲みながら歴史書を読み進めていた
「いまだにこれといったものは……」
「
「それに関しては私も真っ先に疑った。だから戸籍を管理している部署にお願いをして調べてもらったんだ。その結果私が目星をつけた魔王を打倒した英雄や賢者は子孫が直系で残っていることが分かったんだ。もし、かつての魔王が復活したのならその血筋の者達が気付かないはずがない」
「なるほど。となるとあの部屋に入ることになるのも遠い未来の話ではなくなってきたわけですね」
そう言ってアルイナンは書庫の中でも特に異様な雰囲気に包まれている一角を見た。そこには呪文がびっしりと書かれた鋼鉄の扉があった。
そこにはこの書庫の中でも特別で、王や元老院、書庫長など多くの賢人達が議論に議論を重ね、必要だと認められた場合のみ入ることを許される禁制区であり、そこに収められているものは
「まあ、危険な手段を取ったからといって必ずそれに吊り合った結果が得られるとも限らないし、とりあえずは自分が目星をつけたものを総洗いするよ」
それから数時間一人で読書に耽ったり、アルイナンや他の司書達たちと書物の解析に勤しんだりしていると鐘が鳴った。終業の時間が来たのだ。
「そういえば昼前にまた巫女殿が来られていた。私に何か用事があるようだったのだが、結局何も話さずに帰ってしまったのだが。私は何か彼女に悪いことでもしたのだろうか?」
ふと気になって
「
「はあ……? 私に? それはまたなんで?」
司書達は朝の召使たちと同じような表情で顔を見合わせた。
「え?
「今朝従者や侍女達にも同じこと言われたよ。なんで巫女と俺の関係にそこまで興味があるんだ?」
「そりゃあなたが――」
「おーい、鍵閉めるぞー」
今日という日はどうも巡り合わせが悪いのか、アルナインの言葉に司書たちは慌てて書庫を出て行きまたもや聞き逃してしまった。
結局、この日も目新しい情報を得ること出来ず少し落胆した気持ちで
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