第31話 【閑話】恋(前編)

 柔らかな朝の日差しに包まれながら二人は寝台から起き上がった。手際よく身支度を整え、静かに部屋を出る。家主であるイリスに礼とお詫びをしようと居間を覗いてみるが、彼女の気配がどこにもない。いくつかの部屋のドアをノックしてみても、中からは物音ひとつ聞こえなかった。二人揃って首を傾げていると、かちゃりと扉を開く音が聞こえ、美しい細工を施した玄関扉を開けてイリスが中へ入ってくるのが見えた。


「おや、おはよう。少しは眠れたかい」


 二人の姿を見たイリスが優雅に微笑む。レティリエはパタパタと彼女のもとへ駆け寄ると、ペコリと頭を下げた。


「イリスさん、昨夜は部屋を貸してくださってありがとうございました。ご迷惑をおかけしてしまってすみません」

「なに、謝ることではない。久しぶりの夫婦の時間だ。色々と積もる話があっただろう。おっと、私は昨夜フェルの所へ行っていたからね。何も見ていないし、聞いてもいないさ」


 そう言ってニッと口の端を持ち上げるイリスを見て、レティリエの顔がぼっと熱くなる。確かに昨夜は愛を交わしたが、それ以上に置いていかないで、一人にしないでと子供のように大声で泣いていたことの方が恥ずかしい。あの時は周囲のことを考えている余裕さえ無かったから、彼女の気遣いにただただ感謝するばかりだ。

 真っ赤になってもじもじしているレティリエの肩をひとつ叩くと、グレイルも前に進み出でてイリスに礼を言う。礼儀正しく頭を下げるグレイルを見て、イリスは快活に笑った。


「いや何、そんなにかしこまるな。私も久しぶりの来客で嬉しいよ。それより、君達はこれからどうするんだい?」

「まずは一旦安全な場所へ逃げている俺達の村の長を探します。可能であれば今すぐにでも。まずは機動力がある俺だけで心当たりがある場所を探ってみようかと」

「ふむ、そうか」


 グレイルの言葉に、イリスが顎に手を当てて唸る。そのまま少し考えるそぶりを見せた後、イリスはゆっくりと口を開いた。


「村の危機だ。君達が焦る気持ちもわかる。だが、この子も疲弊しているはずだ。ここに来たとき、この子の顔は真っ青だったからな。今日一日くらいゆっくりしたって罰は当たらないだろう?」


 イリスの言葉にグレイルがちらと気遣わしげな視線をよこす。今までの自分であれば、大局を見て一番良い選択肢を選んでいたのだが……今は少しだけ、自分の気持ちに正直になりたいと思った。


「グレイル。もうちょっとだけ私の側にいてほしい……って言ったら、ダメかしら」


 責任感の強い彼は、今出ていったらきっと夜まで帰ってこないだろう。探す場所によっては下手をすると野宿をする可能性もある。折角会えたのに、また離ればなれになるのは寂しかった。

 おずおずと言葉を紡ぐと、グレイルが少し驚いた顔をした後、優しく微笑んでレティリエの頭を撫でた。


「ああ、わかった。……俺も少しだけ体を休めよう」

「決まりだな」


 イリスが腕を組みながらにこやかに頷く。そのまま彼女はレティリエの手を取ると、台所へいざなった。


「さぁ、まずは腹ごしらえだ。朝食の支度を手伝ってくれるだろう?」


 そう言って笑うイリスに、レティリエも快く返事をした。



 厨房に行き、イリスと並んで朝食の支度をする。グレイルはその間、フェルナンドと一緒に狩りへ行くそうだ。狼と同じく森に生きるエルフ達は狩猟生活を基本とする。己の肉体を使役して狩りをする狼と違って、彼らは馬と弓を使って獲物を狩るそうだ。

 エルフの文化について話を聞きながら、レティリエは籠に入っている艶やかなりんごを手に取った。皮を剥こうと小さめのナイフを手に持つと、イリスが「貸してごらん」とレティリエの手からりんごを受けとる。そのままりんごの側面に刃をあて、複雑に動かしながら滑らしていくと、あっという間に彼女の手には、花の形にくりぬかれたりんごが乗っていた。


「わぁ、素敵」


 花弁の縁取りは赤く、白くみずみずしい果肉を花に見立てた細工だ。手のひらに咲き誇るりんごをキラキラした目で見つめていると、イリスがもうひとつりんごを手に取り、同じ様にスルスルと剥き始める。


「長生きをするとなると時間ばかりはたくさんある。こういうことをしていないと、退屈で死にそうなのさ。良かったらやり方を教えてあげようか」

「本当ですか?」


 彼女のありがたい申し出に、レティリエも目を輝かせる。今よりもっと食卓が彩れば彼も喜んでくれるかなぁなどとぼんやり思っていると、イリスの目がいたずらっぽく弧を描く。


「もちろんさ。君の夫も喜ぶだろうよ」

「いえ、その、私は……」


 まるで心の中を読まれたようで急に恥ずかしくなってうつむくと、イリスが優しく微笑んだ。


「図星かな。君は本当に彼を愛しているんだね。確かに彼はなかなか端正な顔立ちをしていて男気も色気もある。美しい君が惚れるのもわかるよ」


 エルフの恋愛観は美しさが基準となるようだ。狼の考え方とは少し違っているものの、自分の大切な人も彼らのお眼鏡にかなったのが嬉しく、心が浮き立つようにふわふわする。ツンツンとした黒髪と、切れ長の凛々しい金色の目を思い出した途端、急に彼が恋しくなった。さっきまで一緒にいたのに、いや一晩中愛し合っていたのに、もう既に彼に会いたくなっている自分に気づいてレティリエは心の中で苦笑した。

 頬をほんのりピンク色に染めたレティリエを見て、イリスがにやりと口の端を持ち上げる。


「フェルが君のことを口説いたんだって? まったく、女心がわかっていない男だね。今度注意をしておくよ」

「えっ。どうしてそれを……?」

「昨日本人から直接聞いたのさ。久しぶりにフェルの所に泊まったからね。ああ、私達はそういう関係ではないよ。ただの腐れ縁だ」


 言いながらイリスが戸棚から食器を出し、盛り付けの準備をする。「フェルの皿はどこだったけな……」という独り言からも、彼がたまにイリスの家に遊びに来ているであろう仲の良さがうかがえた。


「エルフは他種族とも結婚できるのですか?」

「いや、私達も基本的には同じエルフと婚姻関係を結ぶことが多いよ。でも私達は長寿の民だからね、ごく一部の者は、若い時に異種族と婚姻関係を結び、適齢期になってから同じエルフを生涯の伴侶に選ぶ。まあ私達は異種族と子は成せないから、ほんの戯れさ」


 手際よく野菜を切り、まとめて鍋に入れながらイリスが答える。


「フェルも昔から散々遊び回っていてね。まぁ遊ぶといっても、きちんと相手が寿命を迎えるまでは一緒にいるみたいだがな。フェルの前の妻は確か人魚だったが……彼女が老いて若い頃の美しさを損なってからも、彼女の命の灯火が消えるその瞬間まで一緒にいたよ」

「優しい人なんですね」

「さぁ、どうだか」


 鍋をかき混ぜながらイリスが言う。事も無げに言うものの、その慈愛に満ちた目に彼女の心の底に潜んでいる想いが垣間見えた気がしてレティリエは微笑んだ。手元にあるりんごにナイフを添えて、教えてもらった通りに刃を動かす。


「ほう、なかなか上手いじゃないか。君は器用だな」


 時折コツを教えてもらいながら丁寧に花弁を作っていく。これを見たときの彼の表情を思い浮かべながら、一枚一枚に想いをこめて。


「さぁ、そろそろ腹ペコの男達が帰ってくるだろう。少し支度を急がねば」

 

 イリスの言葉にレティリエも嬉しそうに返事をして手を動かす。白磁の皿の上にポンと置かれたりんごの花は、白い地面に可憐に咲き誇っていた。


※※※


 一方、グレイルはフェルナンドと共に里の外へ出ていた。森を抜けて連れていかれたのは広々とした草原だ。群れを成した鳥が大空を舞い、たくさんの草食動物達があちらこちらで草をんでいる。

 グレイルも狼の姿になったまま、姿勢を低くして獲物を見定める。獲物との距離を目算で測っていると、白馬にまたがり、金糸の髪を風にたなびかせているフェルナンドがこちらを見やった。


「そういえば君がレティリエちゃんの伴侶なんだろう? ふむ……少し想像していた姿とは違ったな」

「どういうことでしょうか」


 フェルナンドの言葉に、グレイルは首を傾げた。相手の言葉の意図がわからず、いぶかしげな目線を送るグレイルに、フェルナンドは涼やかな目で見返す。


「おっと随分と距離のある言葉遣いだね。君は意外と礼儀正しいんだな。でもそんな言い方はよしてくれよ。僕たちは対等な関係なんだから。レティリエちゃんをめとる男として」


 フェルナンドの言葉に、グレイルの耳がピクリと動く。黒狼の眼に鋭い光が宿ったのを見てフェルナンドは面白そうに口角をあげた。


「狼はもう少し野性的な種族だと思っていたんだけど、彼女は僕らから見ても本当に美しい。正直、あんな綺麗な子がいるのであれば、僕ももう少し結婚相手を狼の女の子から探したんだかなぁ」

「よく意味が……わからないのだが」

「そのままの意味さ」


 そう言ってフェルナンドは 背負っている矢筒から矢を取り出し、優雅な動作で弓を引く。


「僕はね、彼女に惚れたのさ。あんなに綺麗な子を泣かせるようなこと、僕はしない。彼女には僕みたいな男が相応しい」

「俺の前でそれを言うのか?」

「君だから言うんだよ」


 言いながらフェルナンドが天に向かって矢を放った。矢は見事に空を飛ぶ一羽の鳥にあたり、射られた獲物はまるで引き寄せられるかのように地面へと落下する。フェルナンドは涼しい顔でそれを眺めていた。まるで狼には決してできることがない、空の狩りを見せつけるかのように。


「確かに君はなかなか凛々しくて魅力的な男だというのは認めよう。だが、少し優雅さには欠けるかな。ああいう綺麗な子の隣には、僕みたいな美しい男が似合う」

「優雅さか。狼には不要なものだな」

「君たちにとってはね。でも他種族から見ればどうかな?」


 そう言うと、フェルナンドは馬の腹を蹴って勢いよく駆け出していった。ハッと気づいたグレイルも一歩遅れて後を追う。

 フェルナンドは揺れる馬上を物ともせず、弓に矢をつがえてキリリと構える。狙うは前方で草をんでいるシカだ。


「狼の狭い社会の中で生きていくならそうなのかもしれないが、こうやって僕たちのような他種族と交流するのであれば、彼女はとても見目麗しい。きっと寄ってくる男はたくさんいるだろうな。その場合に、本当に自分が彼女の隣に相応しい男と言えるかい?」


 言いながらフェルナンドが次々に矢を放つ。美しい青年だが、弓の腕前は本物だ。彼が放つ矢はほぼ一撃で獲物を次々と捕らえていく。若い雄ジカを矢で射ったフェルナンドは、隣で並走する黒狼にチラリと視線を向けた。


「僕は狙った獲物は確実にしとめるよ」


 黒狼が無言で頭をあげ、視線を返す。フェルナンドは得意気な顔をしてその視線を受け止めると、背中の矢筒に手を伸ばして再度矢を手に取る。狙うは前方にいる、この一帯を支配しているであろう大イノシシだ。イノシシは今、鼻で地面を掘り起こしながら食事にありつこうとしていた。

 並走しているグレイルが速度をあげ、フェルナンドの乗っている馬より少しだけ前に出る。だが、いくら狼が身体能力に優れているとは言え、生身の体と弓矢では速度が天と地ほども違う。フェルナンドは余裕の表情で再度矢をつがえた。

 狙いを定めて矢を放つ。フェルナンドの金糸の髪がふわりと宙を舞う。と同時にグレイルが吠えた。狼の声に驚いたイノシシがビクリと体を震わせて逃げだし、一歩遅れて放たれた矢が地面に突き刺さった。

 フェルナンドに並走していたグレイルがイノシシを目指して左へ舵を切る。急旋回できないフェルナンドは、馬の方向を変える為に手綱を引いて即座に体勢を整えるも、その間にグレイルはどんどんとイノシシとの距離を縮めていく。


「なかなかやるね」


 フェルナンドも矢をつがえながら後を追う。黒狼はもうイノシシの目と鼻の先まで近づいていた。だが彼にはこの距離からでも確実に獲物を射る自信があった。

 フェルナンドが矢を放つ。鋼鉄の矢が空気を切り裂く。だが、矢がイノシシの体を捕らえようとした瞬間、黒い風がイノシシの体を起動からそらし、標的を失った矢が地面に突き刺さった。馬の足を止め、構えていた弓矢を下げると、フェルナンドはフッと微笑む。


「なんだ。──やればできるじゃないか」


 イノシシの首に食らいつき、地面にねじ伏せた黒狼が、金色の目を光らせながらこちらを見ていた。


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