第29話 再会
目を射すような眩しい朝日を浴びて、レティリエはパチッと目を覚ました。ゆっくりと起き上がって辺りを見回すと、見慣れた、けれども見慣れない部屋が視界に映る。染みひとつない真っ白な白磁の壁に、大理石でできた机と椅子。ベッドや棚など家具に掘られた彫刻は繊細で美しく、寝具も絹のように光沢があり、滑らかだ。何日もここにいるのだからもうとっくに見慣れてもいいはずなのに、木と土の香りと共に生活する彼女にとっては、未だに見慣れない光景だった。
レティリエがぼんやりと部屋の中を眺めていると、コンコンと扉を叩く音がして、銀盆を持ったイリスが部屋の中に入ってきた。
「よく眠れたかい?」
イリスがベッドの近くのある大理石のテーブルに銀盆を起き、レティリエの隣に座りながら問う。レティリエはコクリと頷くと、頭を下げた。
「はい、お陰さまで。毎日ありがとうございます」
「いや、何、構わないさ。私達の寿命は君たちと比べると遥かに長い。たまにはこんなことも起きないと、人生がつまらなくて仕方ないさ」
イリスの言葉に、レティリエも微笑む。軽く数百年の時を生きるエルフは長寿の民だ。フェルナンドやイリスも、二百歳を越えていると言うが、エルフの中ではまだまだ若造扱いらしい。
イリスが銀盆に乗っている水差しからグラスに水を入れ、手渡してくれた。冷たくて仄かに甘い水が喉を潤し、レティリエの頭もハッキリとしてくる。本の少しだけ顔色を取り戻したレティリエを見て、イリスが優しく微笑んだ。
「私も未だに伴侶に恵まれなくてね。君みたいな綺麗な子が来てくれて私も嬉しいよ。さぁ、一緒にご飯を食べようじゃないか」
イリスが手を伸ばして大理石のテーブルに誘う。レティリエもありがたくその申し出を受け入れることにした。
二人揃ってテーブルにつき、食事に舌鼓をうつ。皿の上に乗っているのは肉や野菜、果物など普段自分達が食べているものとそれほど変わりは無かったが、ソースに香草が混ぜてあったり、果物が凝った形に切られていたりと、彩りも見た目も美しい。
勿体ないと思いながらも食事に手をつけていると、イリスがぶどう酒を飲みながら口を開く。
「ところで、君は敵に村を襲われて逃げてきたんだったな。迎えが来ると聞いていたが、その後何か変わったことはあるのかい?」
イリスの言葉に、レティリエは力なく首を横に振る。
「いいえ、ありません。そもそも、迎えに来てもらっても、私が一緒に帰ってもいいのかもわからないんです」
「だが彼は君の伴侶だろう?」
レティリエの言葉に、イリスが不思議そうに言葉を返す。
「はい……でも、私とは本来結ばれるべき人では無かったんです。きっともっと相応しい相手がいたはず。私と一緒になるべきではなかった」
「ふむ。君みたいな綺麗な子なら、男が放っておかなそうだがな。君の夫はよほど美しい男なのだろうか」
イリスの言葉に、レティリエは微笑んだ。異種族の価値観に触れることは驚きが多い。価値基準が違うとはいえ、素直に自分を肯定してくれる言葉は今はとてもありがたかった。
「狼は強さが価値基準なんです。私は狼になれないから、種族としては、本当は弾かれるべき存在なんです」
「ううむ。異種族の価値基準はよくわからん。こんなに美人でも受け入れてもらえないとはな……だが、君の夫は君を選んだんだろう?」
「一度だけ、私が仲間の力になれたことがあったんです。それを認められて婚姻を許されましたが、本当はそうするべきじゃなかった。彼は優しいから、きっと私の気持ちを知って結婚してくれたんだと思います」
言いながら、自分の目尻が熱くなっていくのを感じた。苦しくなるので、ここにいる間はなるべく彼のことを考えないようにしていたのだが、話をしているうちにあの優しい黒狼の姿を思い出して、レティリエの目からポロリと涙がこぼれ落ちた。
「村でずっと疎まれてきた私を、救ってくれたんです。私の大切な人。心から好きな人。でも、私は彼の力にはなれなかった。大好きなのに、私は側にいちゃいけなかった」
吐き出すように言葉を紡ぐと同時にポロポロと涙がこぼれ落ちる。人前で泣くなんて恥ずかしいことなのに、あふれでる思いはとめられなかった。
イリスが立ち上がり、レティリエの横に座るとゆっくりと背中をさすってくれる。
「大変なことを思い出させてしまったね。すまない。私は構わないから、君の気が済むまでここにいるがいい」
イリスの優しい言葉に、またもや胸が熱くなる。レティリエは申し訳なく思いながらも、彼女の腕の中で、また静かに涙をこぼした。
※※※
朝食の片付けを終え、レティリエは外に出た。高い場所に建っているイリスの家からは、壮大で美しいエルフの里が一望できるのだ。
なにもすることがないレティリエは、景色の良い場所に座ってぼんやりと時間を過ごすことが多かった。本来であれば、何か自分にできることを探して居候の恩返しをするべきなのだろうが、今は何もやる気が起きず、胸の内で暴れまわる痛みと向き合うことしかできなかった。
レティリエはその日も、広場に備え付けられている大理石の長椅子に座り、里の様子を眺めていた。
山の斜面に連なるように立つ白磁の建物。谷の底を流れる青く澄んだ川。精巧な意匠が施された建物と、それを彩る鮮やかな花々は、目に鮮やかだ。所々にある鳥かごのような建物の中では、女性達がおしゃべりをしたり繕い物をしたりと各々の時間を楽しんでいる。
いつもはこの美しい光景に心を慰めながら一日を過ごしていたが、今日はいつものようにはいかなかった。今朝の会話を引き金に、無理やり忘れようとしていた彼のことを思い出して胸が痛くなる。レティリエは胸に手をあてて、なんとか気持ちを切り替えようと大きく深呼吸をした。
自分が彼に片想いをしていた時のことを思い出す。そうだ。元々、自分とグレイルが夫婦になること自体奇跡のようなものなのだ。だから、これまでの生活は一夜の夢だったと思えばいい。それで元通りだ。自分は遠くから眺めているだけ。それでいいはずなのに。
でも……既に自分は知ってしまったのだ。彼から愛される喜びを。優しく抱き寄せられる感覚を。愛を交わす時にぶつけられる情熱的な思いを。
とうとう堪えきれなくなって、レティリエは両手で顔を覆った。
会いたい。彼に会いたい。遥か昔からこの胸の内に秘める思いは、もう忘れることなどできなかった。
顔を覆いながらさめざめと泣いていると、ふわりと甘い、花のような香りが鼻をくすぐる。顔をあげてそちらを見ると、フェルナンドが優雅な笑みを称えて隣に座っていた。
「やぁ。美人は泣いている姿も綺麗だね。でも、君なら笑っていた方がもっと美しいかな」
フェルナンドが手を伸ばし、目尻の涙を優しく拭ってくれる。
「良かったら僕にその涙のわけを話してごらん」
「彼のことを……思い出してしまって……」
涙混じりの声で答えると、フェルナンドは鷹揚に頷いた。
「そうか。君は狼になれないんだったね。でも、そんなことどうだって良いじゃないか。もし行くところが無かったら僕のところにおいでよ」
彼の言葉に驚いて目をしばたくと、フェルナンドは太陽のようににっこりと笑った。
「そうだ。それがいい。エルフと一緒なら君が狼になろうがなるまいが関係ない。それに、君ももしかしたら僕たちと縁がないとはあながち言えないかもしれないよ」
そう言って、フェルナンドがレティリエの輝くような銀髪を一房救いとり、恭しくキスを落とす。
「君のこの輝くような銀の髪と女神も嫉妬してしまうような美貌はエルフの特徴だ。その昔、我々は種族を越えて婚姻できたと聞いている。昔の僕たちは、異種族とも子を成せたんだ。今はもうエルフの血が濃くなりすぎて無理だけどね。でも、もしかしたら君は僕たちと同じ血が流れているのかもしれない」
そう言うと、フェルナンドは突如レティリエの腰に手をあててぐっと抱き寄せた。花の香りが濃くなる。フェルナンドはその端正な顔を近づけながら耳元で囁いた。
「僕の前の奥さんは人魚だったんだ。とても綺麗な子だったよ。まぁ、僕たちと彼らでは生きる時が違うから、彼女の方が先に逝ってしまったけど」
フェルナンドの手が顎に添えられ、優しく上を向かせられる。
「でも、僕は君より先に逝ったりしない。君を悲しませることもない。側にいてくれるだけでいいのさ」
フェルナンドがゆっくりと近づいてくる。彼の吐息を感じ、口先が触れあいそうになった瞬間──レティリエの目から涙がこぼれ落ちた。
「……ごめんなさい」
絞り出すように言葉を紡いで彼の胸を押すと、驚くほどアッサリと腕を緩められる。そのままレティリエは長椅子を立ち上がると、一目散に駆け出した。
(違う……違う。違う)
走りながら心の中で叫ぶ。愛をささやいてくれるのも、優しく抱き締めてくれるのも、他の人ではダメなのだ。彼以外の人に求められても少しも嬉しくない。
宛どころもなく走り続けているうちに、やがて里の周囲の森に出た。もちろん、自分に優しくしてくれるこのエルフの里が嫌なわけでは決してない。だが、肌に感じる木と土と緑の温もりを感じた瞬間、レティリエは近くの切り株に突っ伏してワッと泣いた。
「グレイル……どこにいるの? 私のこと見つけてよ! 私のこと……置いていかないで!」
恥も外聞もなく泣き叫ぶ。それは魂から出た悲鳴だった。頭の中では離れなくてはと思っていても、自分の心の叫びは、理性など簡単に打ち砕いてしまった。側にいるだけでいい。それさえ許してもらえればもう何にもいらない。
早く私を見つけて。
私に会いに来て。
私を置いて……どこにもいかないで。
だが、自分の叫びで心が壊れそうになった瞬間、忘れたくても忘れられない、愛しい人の匂いが自分を包み込んだ。顔をあげるより早く、突っ伏しているレティリエの両脇に腕が差し込まれ、そのままふわりと持ち上げられる。まるで小鳥にでもなったかのように宙に浮く体に驚いて視線を落とすと、そこには焦がれていた最愛の人の姿があった。
グレイルが優しく微笑みながら自分を見上げていた。
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