白銀の狼 Ⅱ【続編】

結月 花

第1話 平和な日々

 レティリエの朝は孤児院の厨房から始まる。


 今日も彼女は甘い湯気に包まれながら鍋をかき混ぜていた。

 開け放たれた窓から差し込む陽光が彼女の銀色の髪を煌めかせ、昨夜の雨に濡れた深みのある緑の匂いが風に乗ってやってくる。

 今日のジャムはキイチゴだ。台の上には、洗ったばかりのキイチゴがこんもりと入った籠が置いてある。今朝早くに摘んできたばかりのそれらは、赤い宝石の様に艶やかだ。今日はおすそわけの分もあるので、少し多めに採ってきたのだ。

 

 新しい鍋を用意し、キイチゴが入った籠に手を伸ばした所で、レティリエの狼の耳がピクッと微かに動いた。

 その耳が拾うのは、サクサクと草を踏みしめる音。音が近付いてくるにつれて、レティリエの胸も嬉しさでトクトクと鼓動を打ち始める。誰なのかは確認するまでもない。扉が開く音と共に振り向けば、この冬に伴侶となったばかりの人狼が台所に入ってくるのが見えた。


「お帰りなさい、グレイル」


 パタパタと駆け寄って出迎えると、グレイルも口許に笑みをたたえながら持っていた野うさぎを差し出した。


「おう。これ、今日の昼にでも使ってくれ」

「わぁ、大きな野うさぎね。皆も喜ぶわ、ありがとう」


 目を輝かせながら野うさぎを受けとると、グレイルも優しい笑みで返してくれる。集団で狩った獲物は基本的に皆に平等に分配されるが、個人で狩ったものに関してはその限りではない。なので、彼は朝の狩りに行く前に、何匹かしとめて孤児院の皆の為に持ち帰ってきてくれるのだ。

 レティリエが野うさぎと一緒に使う食材を確認していると、グレイルがふんふんと鼻をひくつかせた。


「いい匂いだな。ジャムか?」

「ええそうよ。毎朝子供達が食べるからすぐ無くなってしまうの。あと、レベッカの所にも持っていこうと思って」

「あぁ、そうだな。彼らも喜ぶと思うよ」


 言いながら、甘い香りに誘われるようにグレイルが鍋の側に近寄ってくる。レティリエの後ろに立ってヒョイと鍋を覗き込むと、大柄な彼の体がすっぽりと自分の体を覆い、背中に熱を感じてレティリエの胸がとくりと鳴った。

 そのままグレイルは右手を伸ばすと、籠の中のキイチゴを摘まんで口に入れた。


「うん、まだ少し酸っぱいな」

「もう、つまみ食いなんて子供みたいね」


 レティリエがクスクス笑いながらからかうと、彼は口の端を持ち上げてニッと笑った。まるで悪戯がばれた少年みたいだ。普段は硬派で雄々しい彼だが、自分と二人だけの時は少しだけ子供っぽくなる所が、レティリエは好きだった。二人が幼馴染みの間柄だからというのもあるのだろうけど、こういう一面を見ると、昔のやんちゃだった時の彼を思い出して心が少しだけくすぐったくなる。


「こっちも味見してみる?」


 そう言いながら、とろりと赤いジャムにスプーンをくぐらせる。子供達の為に作ったものだが、甘いものが好きなグレイルにも喜んでもらえるように、ちょっぴり甘めに作ってあるのだ。

 彼の方を向き、そのままスプーンごと渡そうと、目の高さまで持ち上げた瞬間、グレイルが身を屈めてパクっと口にくわえた。


(わぁっ……!)


 不意打ちで急接近する愛しい彼の顔にドキリと胸が高鳴る。夫婦になってもうすぐ一年経つのだから、もうだいぶ慣れたはずなのに、長年抱き続けてきた恋心は簡単には冷めそうにない。

 彼の顔に釘付けになっていると、グレイルの金色の瞳が悪戯っぽく弧を描く。そのままレティリエの腰に手を回し、ぐっと力強く抱き寄せた。よろめいた弾みに彼の厚い胸板に顔を埋める形になり、レティリエは息を飲む。思わず彼の顔を見上げると、グレイルが身を屈めてゆっくりと顔を寄せてきた。

 彼の意図を察し、レティリエもそっと目を伏せる。閉じられた視界のせいで、自分の胸の鼓動がいつもより大きくはっきりと感じられた。グレイルの腕ががっちりと自分の腰を捉え、ゴツゴツした指先がぐっと肌に押しこまれる。彼の口先が微かに触れたその時だった。


 カタリ。


 微かな物音に、グレイルの体がビクッと大きく震える。慌てて手を離し、気まずそうに後ろを向く彼につられてレティリエも振り返ると、そこにはニヤニヤと笑うマザーの姿があった。


「おや、朝から仲良しだこと。さあさ、あたしのことは良いから、続けておくれ」

「マザー、い、いやこれは、その……」

「やれやれ。あんたは武骨ものだと思ってたけど、意外と情熱的なんさね。あんな小さな子狼が、立派になったもんだ」


 からかうように言うマザーだったが、その目は優しそうに笑っていた。マザーから見れば、レティリエもグレイルも可愛い我が子だ。二人が仲の良い夫婦生活を送っている所を見るのは彼女にとっても喜ばしいことなのだろう。

 マザーのからかいに、グレイルがわかりやすくあたふたと身支度を整え始める。


「ほ、ほら、レティ。今日はドワーフの集落に行く日だろ。そろそろ準備をした方がいいんじゃないか?」

「え、ええ。そうね」


 そう言いながら、目線をあげて背の高い彼の横顔をチラと盗み見る。高い鼻梁と切れ長の目。精悍な顔だちが、今はほんのりと赤く染まっていた。村一番の強さを誇る歴戦の雄狼も、育ての親の前では子供に戻ってしまうみたいだ。

 レティリエはクスッと笑うと、先ほどジャムを入れた瓶に蓋をして固くしめた。


「じゃあ行ってくるわ、マザー」

「ああ、気をつけて行ってくるんだよ」

「うん、今日はルーシーが来てくれるみたいだから、私達はあちらの家に帰るわ」


 レティリエの言葉に、マザーは笑って頷いた。レティリエとグレイルの家は村から大分離れたところにある。子供達の世話もある為、普段は孤児院で生活をしている二人だが、ドワーフの所へ行く時は、彼らの集落に近い自分達の家に帰ることが多かった。最近ではルーシーを筆頭に、孤児院を出た女の子達が頻繁に帰ってマザーの手伝いをしてくれるので、彼女の負担もだいぶ減っていた。

 レティリエは瓶詰めのジャムをかごに入れると、マザーに手をふり、グレイルと共に外へ出ていった。


 外に出ると、湿った緑の香りが二人を包み込む。孤児院は村の東側にあるから東の門から出ればすぐ森へ行けるのだが、二人は村の南側に位置する村長の家──今はローウェンとレベッカの住まいになっている場所へ足を向けた。


「ほら、レティ。行くぞ」


 自然と出される彼の手を取って歩き出す。力強く自分を引っ張ってくれる逞しい背中に見とれて、レティリエは思わずその腕にしがみついた。


「どうした? 甘えん坊か?」


 グレイルがおかしそうに笑う。その優しい笑顔にまたもや胸がきゅっと締め付けられるのを感じ、レティリエはグレイルの服の裾をそっと引っ張った。


「ねえグレイル、さっきの続き……してって言ったら、ダメ?」


 我ながら大胆だったかもしれない。急に恥ずかしくなってうつ向くと、グレイルがレティリエの腕をぐいと引っ張った。

 そのままするりとヤマモモの群生地に入ると、木の幹を背にした状態でレティリエを立たせる。グレイルが少し身を屈めて木の幹に両手をつくと、小柄な彼女の体はすっぽりとその中に収まった。

 淡い期待の心地よさを胸にそっと彼を見上げると、力強く光る金色の瞳が視界に映った。グレイルの手が自分の頬に触れ、指で優しく唇をなぞられる感覚にぴくりと体が震える。静かに目を伏せると、そのままくっと顎を持ち上げられ彼の微かな吐息を感じた。

 

 口先からゆっくりと重ねられる唇。彼の唇が自分の口先を優しくついばみ、わずかに離れたと同時に角度を変えてまた柔らかく包みこまれる。食むように角度を変えて何度も何度も交わされる口づけに、思わず理性を飛ばしてしまいそうで、レティリエはきゅっとグレイルの服を掴んだ。夫婦なのだから、キス以上のことだってしているはずなのに、人目を忍んで愛を交わすという背徳感が、二人を情熱的に燃え上がらせる。

 そしてそんな自分達の姿が、かつて森の中で見た恋人同士の逢瀬と突如重なった。ドキドキしながら木陰で盗み見た恋人同士のキス。その姿に自分とグレイルを重ねて叶わぬ恋に胸を痛めたかつての記憶を思い出し、レティリエの目からポロリと涙がこぼれ落ちた。


「レティ……?」


 唇を離したグレイルが、気遣わしげにこちらを見やる。レティリエはふるふると首を振り、指で涙をぬぐった。


「ごめんなさい……。でも、私、嬉しくて……」


 幼い頃から想い続けてきた優しく逞しい幼馴染み。ずっとずっと触れたくて、触れてほしくて、でも弱く立場がない自分にはそれは許されることではなくて。遠くからひっそりと見守ってきた長年の想いが、かつての思い出と自分達を重ねることであふれでてきてしまったのだ。

 でも、今は違う。ずっと恋い焦がれてきた彼に抱き寄せられ、口づけを交わせる喜びを感じることができるのだ。


「グレイル……私、今とっても幸せだわ」


 目に涙を溜めながら、喜びに満ちた顔で見上げると、グレイルが優しく笑って濡れた目にそっとキスをしてくれた。


 そのまま二人はもう一度口づけを交わし、ヤマモモの木の下で再び永遠の愛を誓い合うのだった。

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