第9話

 そうだ今夜はクリスマスイブ!


 世間の人は家族や恋人と集い、ケーキを食べて楽しく過ごしているのだ。あの悪夢の瞬間、廊下に落っことした苺ショートの箱を思い出し、あたしは無性に悲しくなった。

 電気を点けて枕元の目覚まし時計を見る、十時少し前だ。毛のスリッパをつっかけると思いきり伸びをした。昼間の服装のままだった。洗面をすませ、それからイブのこの日のために買ったアザミの刺繍に彩られた赤いカーディガンの上に、いつものコートをひっかけて外に出た。

 寒かった。日中晴れていただけに、そのぶん空気が冷え切っていて、オリオン座が南天にくっきりと顕われていた。月はさっき見た時よりも、さらに煌々と輝いている。形容しがたいほど妖しげな、ねっとりと濃厚なオレンジ色。きっちりした半分になれそうでなれない、歪な丸みの半月だった。

 あたしは通りを横切り、繁華街に向かって歩き出した。ウエストポーチには財布と携帯電話、かれんさんの名前の名刺が入っていた。店の場所におおよそその見当はついていた。

 色とりどりの眩いネオン。千鳥足の酔っぱらいや呼び込みに精出すホステスのお姉さんやボーイたち。彼らを横目に、あたしは目的地へとひたすら進んだ。

「これこそ人生の縮図だと思わないか?」

 大学のクラスメイトの陳腐なセリフが頭に浮かぶ。酒場に行くたびに、ネオン街を歩くたびに彼は口にした。安直にさもわかった風に。でもここは太陽が隠れた闇の世界だ。どんなに明るくても、所詮まがい物の光でしかない・・

 ほどなく、名刺に記載されたビルが見つかる。雑多な店の看板スタンドに「きまっぴー倶楽部」は八階に表示されていた。

 以前かれんさんに訊いたことがある。

「きまっぴーって意味があるの?」

「ああ、オーナーの飼い猫の名前らしいよ、もう亡くなったらしいけど死ぬほど溺愛してて復活させようと店作ったんだって」

「へええ王妃様のためにタージマハール作った王様みたいだね」

 世間にはいろいろな人がいるものだ。

「船橋に最近「きまっぴー組」っていう店もオープンしたみたい、天国の愛猫にネコ友作ってやりたいんだってさ、酔狂な話だね」

 そんなやりとりを思い出しながらエレベーターで上り、スナックやクラブを横目で数軒通りこす。本命の店の重厚な扉には、華やかなクリスマスリースが掛かっていた。色とりどりの飾りつけ、羽をつけたエンジェルが柘植の顔と重なる。

「よし、行くぞ」と勇んだものの、やはり腰がすくむ。おどおどと、ためらいがちに扉を開けたとたん、澱んだ空気と矯声が一緒くたになって、どっと押し寄せてくる。

「いらっしゃいませ、お一人ですか」

 全身黒づくめのバーテンが待ち構えていたように飛び出してきた。夜のニオイが染みついた、いかにも遊び人風の優男だ。

 店は想像していたよりも広く、琥珀色の照明が退廃的な雰囲気をかもしだしていた。ボックス席は先客で埋めつくされ、あたしはカウンターに案内された。

 一番奥のL字型のソファに、かれんさんの姿を見つけた。両脇を背広姿の男性客にはさまれ笑い転げている。

「ご指名はありますか?」

 バーテンはカウンターのなかに入り、シェイカーをしゃかしゃか振りながら、あたしに訊いた。

 振り返って、もう一度かれんさんを見る。客から客へと目まぐるしく動き回る、かれんさんの視線があたしの前を素通りした。が、次の瞬間かれんさんは弾かれたように立ち上がりフリルのついたドレスの裾を持ち上げ、驚いた様子でこちらに走ってきた。

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