ハーフムーン
オダ 暁
第1話
昔、この小説に登場する、かれんさんに似た知り合いがいました。
大好きなキャラクターで、その人を準主役の話を書きたかったのです。
北海道の田舎に引っ込んだけど、元気でやっているのかな?
そして、後半出てくる、「きまっぴー」というお店の名前は、天国に移住した愛猫の名前。両者に捧げます!!
老若男女の皆様方ぜひ読んでください。
・・視線が痛い。
氷のように突き刺す彼の鋭い両の眼。職人みたいな真剣さで、じっと、あたしを見つめている。イーゼルに掛けた白いカンバスに、鉛筆を持った右手を気ぜわし気に走らせながら。そして時折、動きを止め小首をかしげて思案するように天井を見上げる。
遠い眼、まるで現実の世界からかけ離れた、絵の中の住人にでもなったように。
あたしは赤いビロード張りの肘掛け椅子に身を沈め、すましたポーズをとったまま、彼の網膜の中でがんじがらめになって身動きひとつできない。呼吸さえもままならず、まるで窒息しそうな気分だ。だけど嫌じゃない。このまま、ずっと時間が止まってくれたらいい、と思ってしまう。
しんと張り詰めた空気は、こわいほど静謐なのに、どこか甘美で、あたしは不思議な陶酔に包まれていた。
「ああ、お疲れ。少し休憩しましょう」
とつぜん彼は手を休め、緊張から解き放たれたのか口角を上げて微笑んだ。人の心をとろかす
作品を紡ぐ節太の長い指。右手の人差し指には太いゴールドの指輪がはめられ、迷彩柄のバンダナで長髪をうしろで一つにくくり、汗で光る小麦色の頬や首筋をタオルで拭う仕草はタメ息がつくほど素敵だ。
彼の名前は江崎省吾。インディアンさながら粗削りな骨格と煌めく瞳を持つ男。
あたしは、とろんとした意識が急に覚め、彼の一挙手一投足に目が釘付けになる。
「ずっと座りっぱなしで疲れるでしょう。お茶でもいかがですか」
椅子に座ったままの私の正面に、彼はやってきて、優しい口調で声をかける。
「・・いただきます」
さっきまでとは全然違う、穏やかな眼差しが、あたしを見下ろしていた、厚い唇と癇の強そうな高く薄い鼻梁。下からのアングルもいいな、と、ふいに思った。
江崎のアシスタントの柘植尚人がソファからおもむろに立ち上がり、窓際のラワン材でできたアンティーク調の丸テーブルに行き、ドリップ珈琲を手慣れた様子で淹れる。板張りの床に散乱した何枚もの下絵。むせかえるオイルと油絵具に混じって、珈琲の香ばしい匂いが漂ってくる。
大学は赤レンガの塀に囲まれ、木々の緑はしだいに萌えていく。校舎の二階にあるアトリエの硝子窓に陽が射しこんで、ゆらゆらと光と影の陰影が遊んでいる。スロープが所々にある青々としたキャンパスは美麗でフォトジェニックな壮観。夏の扉が開く前の、どこか中途半端で危うい季節。
美術部の年季の入った木の開き戸をあけると、突き当りの壁に大きなラックがあって種々の美術雑誌が並んでいる。その横には、大人がゆうゆうと横たわれそうな傷だらけの黒革のソファがあり、窓辺には丸テーブルとスチールチェアが置かれていた。
部室には奥行き十メートル程あり、パーテーションで縦に仕切られ、日当たりの良いスペースはアトリエになっていた。そとのスペースには幾つもの胸像が不規則に配置され、ギリシャ彫刻のように彫の深い厳かな作品もあれば、どきりとさせる奇異で面妖な作品もある。贅肉のない少女の初々しい裸のブロンズ像の隅には、部員らの描きかけのカンバスや画材道具が無造作に置かれていた。
あたしは今こうしている瞬間も、夢の中の出来事としか思えない。まさか自分が彼の絵のモデルになる日が来るなんて想像すらしなかった。
同じ美大生でも凡庸なあたしと違い、彼の描く絵は本物の輝きを放っていた。それは例えるなら模造ダイヤや金メッキではない正真正銘の産物とでも言おうか。
たぐいまれな彼の実力は、まわりの学生はむろんのこと、しかめつらした教授らさせも手放しで認めている。大学開校以来の久々に出現した天才と称賛されている彼の風貌は、クールな表情の内側に何とも形容しがたい凄みが潜んでいた。
ひとつ疑問なのは、彼がなぜあたしをモデルに選んだのかだ。特別に美人でもなく目立つキャラクターでもないのに、それだけは今でもわからない。
彼はもしかしたら、グラマラスな女性ではなく、少年風なユニセックスなモデルをさがしていたのかもしれない。現にあたしはとても痩せていて、短髪で化粧っけもなく今日もそうだけど綿シャツにブルージーンズというラフなスタイルだ。男の子に間違えられることさえ、たまにある。
「ちょっと、いいかな?」
ゴールデンウィーク前のある日。カフェテリアで友人のマリとお茶を飲んでいた時、彼は突然あたしたちの卓にやってきた。
「僕は絵画科の江崎省吾。もし良ければ僕の絵のモデルになってくれない?」
絵のモデル・・何であたしなんかに?
からかわれているのかな、それとも彼はやはり奇妙奇天烈な人間なのかしら?
なんて、あたしは困惑した。
「君と会った瞬間、この人だ!と思った。君の専攻は絵画?それとも彫刻?」
「美術部絵画科です。今年、入学しました」
「そうか。だから今まで顔を見たことが無かったんだ」
興奮して熱っぽく語る彼の言葉の魔法に舞い上がり、これが夢なら覚めないで嘘でも何でもいいと、あたしは心から願った。そうして信じられない気持ちでモデルになることを承諾したのだった。
卓の真ん前で顛末を聞いていたマリは「いいなあ、うらやまし」としきりに連呼した。自分の方が女子力あるのに、という自負心があるのだろう。選ばれなかったことが不服そうな様子がみえみえだったが、あたしは無視した。
「珈琲、冷めちゃいますよ」
柘植尚人に呼ばれ、あたしは慌てて椅子から立ち上がり、用意の整ったテーブルに向かう。江崎は足を組み、ソファの背に深々ともたれて新聞を読んでいる。
湯気のたった珈琲をすすりながら、あたしは尚人の顔を盗み見た。アイドル系の超美形彼は、江崎とは別の意味で学生たちの注目を浴びていた。江崎が芸術を生み出す創造主ならば、尚人は芸術品そのものだ。色白で、さらさらの髪もまつげの長いつぶらな瞳も濃い鳶色。上背のある江崎と身長は同じくらいだが、きゃしゃで、その辺の女性よりよほどキレイだ。洋服に無頓着な江崎と違いファンション雑誌から抜け出したようなセンスのいい洒落た格好をしている。
絵の方の腕前もなかなからしいが、彼は江崎のアシスタントという役目に満足しているように見える。事実、彼らは互いを
「省吾」
「尚人」と呼びあい、とても仲よさそうだった。片耳だけ同じピアスをペアで飾り、それは二人の絆の証のようで、メリハリの効いた補色の関係みたいだと秘かにあたしは分析したりもしていた。
学内には彼らの追っかけの女生徒があまたいて、エザキハーレム、ツゲハーレムと呼ばれている。女性には孤高の存在の江崎と対照的に、柘植はとっかえひっかえ女を変えて、全く節操がない。噂では短くて三日、長くても一か月がせいぜいらしい。
なぜ?
珈琲を飲んだあと、あたしはまた元の肘掛け椅子に座りモデルの続きをした。途中、何度も、夢なら覚めないで、と心の中で祈っていた。
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