五話 見知らぬ私
行き先はやっぱり図書館だ。
息があがりつつ入ると、カウンターに先生は立っていた。
「あれ、布河さん朝に来るなんて珍し」
「せんせ、」
先生の話し声を遮る。少し驚いた顔をされるが、焦っているせいか気にすることができない。
「人と関わるのって、どうするんですか」
「……っと、今関わってるよ?」
「違う、せんせは」
すごく困った顔をされている。
でも、だって、と言葉が浮いては沈んで、自分のちいさな体の中で暴れていた。
色んな音も頭の中でぐるぐる回る。
「……布河さん、何があったの?」
針の穴に糸を通すように、すっと私の耳に先生の声が通った。体の中で暴れてた音も言葉も、全てが静まる。
「今別に人いないし、僕でよければ聞くよ」
カウンターから出てきた先生は、奥の部屋のドアを開け、手招いた。
◇◆◇
「それで、どうしたの?」
「……な、何から話そう」
話したいことはいっぱいある。
昨日出会った楽器のこと、人のこと、本のこと。
それについて考えたこと、体の反応、その他、いっぱい。
いっぱい、話したくなったけど。こんなこと初めてで、わからない。
「待った、一度落ち着こう」
吸って、吐いて……また吸って、吐いて……。
先生の声に合わせて呼吸する。段々と心が落ち着いてきた。
自然と口が動く。
「……昨日の放課後、帰りに」
先生は相槌を打ちながら聞いてくれた。
知らない楽器の音が、すごく心に響いたこと。
覗きに行ったら、同じクラスの人に「吹こう」と言われたこと。
今朝その人は他の人と話してたこと。
「……それで、本当は私、あの人に話したいこと、あったけど」
「うん」
「いざ会うと、心が落ち着かなくて」
それで、嫌になって、逃げてきた。
改めて言葉にすると、さっきはわからなかったことがよくわかる。
……こんな経験も、初めてだ。
「……それで布河さんは焦って、ここに帰ってきたわけか」
こくりと頷く。
すると、突然先生は笑いだした。
それは馬鹿にするようなものではなく、どこか楽しげで、懐かしげだ。
「そっか、僕の近くにはそういう人が集まるんだなぁ……」
「そういう人?」
頬に手を当て、どこか遠くを見つめる。何かをゆっくり思い出すように。
時がゆっくりと動いていた。
鳥の鳴き声が聞こえる。生徒たちの喧騒も遠い世界の話みたいで、自分が誰だかを忘れられそうだ。ほのかに匂う紙の香り、まだどこかひんやりとした空気が私を包み込む。
その空間を私も楽しむ。先生の横顔はどこか美しく感じた。
「……そろそろチャイム鳴るよ、この話が聞きたかったら放課後おいで」
はたと思い出したように先生が言う。
頬杖を片手でついたまま、いつも以上に柔らかい笑顔で手を振られ、見送られた。
◇◆◇
教室は相変わらずうるさくて、思わず耳を塞ぎたくなる。
「それでさ」「頼むよぉ、宿題見せてくれって」「せんせぇ、今日の」「お前ってやつは」
色んな言葉が断片的に耳に入っては、出ていく。一つ一つが心にも残らず、風のように通り過ぎ。
窓際の席に静かに座り、ぼーっと黒板を眺める。
あの楽器は、オーボエ。
お母さんがなぜ買ったのかわからない、吹奏楽ハンドブック、的な本に載っていた。
この楽器、どこか懐かしい響きの名前だ。聞いたことないはずだけれど。
不思議なこともあるんだね、楽器は人並みにしか知らないし、なんならクラリネットが何かも知らないのに。木管金管の違いも分からないし。
そう話したかった。彼ならしっかり教えてくれそうだ。根拠もないけれど。
オーボエ。口だけ動かしてみる。
昨日聞いた音が頭の中で流れ出す。どこか寂しげだったり、かと思ったら楽しげだったり。
目を閉じると景色も流れ出す。夕日に照らされて、綺麗な吉野くん。
「名前」
声を拾った。主は隣の席の人だ。
そちらの方をみると、嬉しそうに驚いている吉野くんがいた。
「知ってたんだ?」
恐る恐る頷く。今の、口に出てたのかな。
ぱあぁっと顔が一気に明るくなった。どこか眩しい。
「すっごく嬉しいっ、どうして知ってたの? もしかして経験者だったりする? 珍しいよね、こんな弱小な吹部にオーボエがあるなんてさ! 俺も最初はすごく驚いたし、まさかちゃんと使えるものだとも思ってなかったし! 中学でお別れだと思ってたから、ほんっっとうに嬉しくて!」
キラキラとした瞳で見られる。あの先輩と同じような血でも流れているのだろうか、その弾丸のように投げつけられた言葉が痛い。悪意は全くなさそうだけれど。
「高校になってオーボエ吹けなかったら、糸川先輩に無理やりフルート吹かされてたか、いっそ帰宅部で勉強に打ちこんだか、はたまた別の文化部に入ってたと思うんだ、どれでも死んだ顔だっただろうけど! だからかな、余計嬉しくって、もう、ほんとに、ね、ふふふ」
その後、チャイムが鳴るまでの約二分間、吉野くんは一度も黙らなかった。
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