欲望の果実

上海公司

第1話

 それは広大無辺の草原に佇む、一本の樹の果実だった。その色、黄金なりて人を魅了する。その味、甘美なりて人の渇きを潤す。それは人の欲望を食し、願いを叶える。それを人は呼ぶ、「欲望の果実」と。


「王宮からあなた様への招待状でございます」


「ありがとう。だけどどうして私に。」


男は王宮からの使者に率直な疑問をぶつけた。


「私は一介の使者にすぎませんので主の意図は分かりかねます。」


「そうか。とにかく遠いところをありがとう」


 使者は一礼してから連れていた馬に跨り、来た道を帰っていった。遠のいて行く使者の背中を見送ってから、男は先ほど手渡された羊皮紙に目を通した。文頭には確かに自分の名前が記されていた。どうやら間違いではないらしい。自分を王国の催事に招待する、という内容の事が書かれていた。王国が行う催事というのは半年に一度行われる競技会の事で競技内容は分からない。競技者は国から七人が選出される。何の因果があって自分が選ばれたのか男には皆目見当がつかなかった。男は歴戦の勇者ではなかったし、有名な芸者でもなかった。もし招待状に優勝者の報酬の事が書かれていなければ、男はこんな催し事に興味は持たなかっただろう。しかし羊皮紙に記されたその一文は男の目を釘付けにした。


 優勝者には「欲望の果実」が与えられる。

「欲望の果実」。その名を知らない者はこの国にはいないだろう。食べるとどんな願いでも叶うという幻の果実。噂では近年まで続いていた隣国との戦争に勝利できたのもその果実の力だという。本当にそんな果実が存在するのだろうか。男の頭に苦い記憶が蘇る。


「私、来月結婚するの。」


 男がその言葉を聞いたのは確か今から半年前だったろうか。春の暖かい日だった。男が十年近くも思いを寄せ続けていた女性は幸せそうな顔でかれに告げた。あの時の彼女の顔を、彼女の声を、彼女の仕草の一つ一つに至るまでを彼は鮮明に記憶していた。聞くところによれば彼女は隣町の貴族の家に嫁ぐのだという。それはいい、どうかお幸せにと男は言った。結婚式には来て下さるのかしら、という彼女に、是非行かせてもらうよ、と男は答えた。それを聞いて彼女は嬉しそうに笑った。彼女を見たのはそれが最後だ。結局男は彼女の結婚式には参加しなかった。十年もの間思いを寄せ続けていた女性が別の男のものになるところを、彼は正気を保って見ていられないだろうと思ったからだ。ずっと自分の事を見てくれていると思っていた。幼いころから同じ村で育ち、村のどの子供よりも彼女とは仲良しだった。言うなれば自分と彼女は特別な関係だった。だが、そう思っていたのは自分だけだったという事に、男は今になってようやく気付いた。彼女はもう別のところに行ってしまったのだ。そう思うと男の心はまるで悪魔の手によって捻じ切られようとしているかの如く痛んだ。彼女を自分の元に呼び戻す事が出来たらどんなに救われるだろうか。男は考えた。そんな事が本当に出来るのだろうか。「欲望の果実」の力は人の気持ちさえも変えうるのだろうか。男は家の中に引っ込み、扉を閉めた。

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