石田

@haru0143

石田

 あれは随分と前の夏のことだ。彼女は私よりも数十歳年下だった。初めて出会ったとき、私は彼女に惹かれた。今となればあの感情は恋だったのだろう。とても可愛らしい顔をしていた。とても魅力的な顔をしていた。そういう事実だけは覚えてる。幾度となく彼女が出てくる夢を見て、その度に私は彼女の顔を凝視するのだ。しかし、そこにはまるで、ぽっかりと穴が空いたように彼女の顔が真っ白に塗りつぶされていた。可愛らしく、魅力的で、一瞬で惹かれたあの顔を―――


 ―――彼女の顔を、私は思い出せなかった。






 まだ太陽が街を照らして間もない早朝、私は人気のない道をぶらぶらと歩いていた。

 朝の散歩は私の日課である。誰もいない朝の街は、まるでこの世界には私だけしか存在していないのではないかと錯覚させる。創作することが生活に直結する人生において、創作物のインスピレーションを探すのもまた仕事の一つである。

 歩き始めてからいくらか時間が経った。私は足に疲労感を感じて、目に入った近くの公園のベンチで少し休もうと思い、公園に入る。公園には一人だけポツンと先客がいた。白いワンピースを着ている少女は公園に咲いている花を見ている。年齢は十歳後半ぐらいだろうか。まるで花しか視界に入っていないかのように花に見入っている。そんな彼女を見て、少しいたずら心が湧いた私はお構いなしに、わざわざ少女のすぐ横のベンチに座った。しかし少女は私に気づいていないのか、微動だにせずに花を見ている。それが私には無視されたかのように感じて、しばらくそこに座ってみたが、やがて負けたかのように少女に話しかけた。

「あの……」

「……!なんでしょう?」

少女がこっち向いてくれて、私は嬉しい半面、内心焦っていた。話しかけたはいいものの、この後の言葉を用意していなかったからだ。何を話そうかと悩んでいると、少女にとってその沈黙は辛かったらしく、また花の方に意識を戻した。

そこから私はしばらく彼女の横顔を見ていた。迷惑だろうか、変に思われていないだろうか、そんな不安を抱えながらも私は彼女から目を離すことができなかった。

すると彼女は苛立ったかのように、もう一度私の方を向いて言った。

「あの、何か言いたいことがあるならはっきり言ったらどうですか?」

正直に言うと、私はこの言葉を全く聞いていなかった。ただ、こちらを向いてくれたと、いう嬉しさと、正面から見た彼女の顔にうっとりすることで頭がいっぱいになっていたのだ。しかし、私の口はまるで意志を持ったかのように、反射的に、食い気味に、早口で言った。

「あなたを描かせてくれませんか?」


言い忘れていたが、私は画家であった。





 ふと我に返ったときには私は自分のアトリエにいた。どうやって彼女をここに連れてきたのか、まず彼女はどうして自分の誘いを承諾してくれたのか、様々な疑問が頭の中でぐるぐるとまわったが、私の体はそんな私の困惑もよそに勝手に動き出す。

「とりあえず、どうぞ、この椅子に座ってください。今お茶を出すんで。」

随分と気の利く体である。

 紅茶のパックにお湯を注ぐ頃、ようやく意識が体に追い付き始めた。私が彼女に絵のモデルの誘いをしたとき、彼女は少し悩んでから了承してくれた。どうしてこんな怪しい誘いを受けてくれたのかは未だに分からないが、


 

 


 あやは石田のモデルになることを二つ返事で引き受けてくれた。石田はあやを田んぼに囲まれた小屋へと案内すると、彼女を汚い木製の椅子に座らせ、自分も絵を描く準備をする。準備が整うと、さっそくキャンバスに鉛筆の芯をのせ始めた。少しだけ埃が舞う部屋に静かに鉛筆の走る音が鳴る。やがてキャンバスを照らす光が月明かりだけになると、帰りたい、とあやが言った。石田は初めて経過した時間に気付く。絵はまだ微塵も終わっていなかった。石田は頼んだ。明日もここに来てくれないか、と。あやはまた二つ返事で了承してくれた。

 次の日、石田はまた絵を完成させることができなかった。次の日も、その次の日も。しかしあやは嫌な顔一つせずに毎日石田の家に来てくれた。やがてあやは石田の家に行くこと、石田はあやを描くことが日常の一部と化してきていた。それでも石田の絵は完成しなかった。

 ある日のことだ。石田は今日のあやに違和感を感じていた。親ですら気付きもしない違和感。しかし毎日彼女を描いている石田からすると、その違和感は絵を描く上でとても邪魔なもののように見えた。違和感の正体を知るべく、石田は思わずあやに聞いた。

「一体何があった?」

「え?」

何があったのか、その質問にまるで心あたりがあるかのようにあやは目を逸らす。

「今日のお前は何か……何か違う。誰かに悪口でも言われたのか?」

「いや、違うんですけど、その……」

まるで人のようにあやは言葉を詰まらせる。彼女の違和感は徐々に膨れ上がっていく。


「―――私も絵を描いてみたいなって」


石田の時間が止まる。まるで心にぽっかりと風穴を開けられた気分だった。

「そう、か……」

その虚無感は描いている手にまで這い上がり、今まで積み上げてきたものを黒く塗りつぶしてしまうほどである。

石田は椅子から立ち上がり、玄関に向かう。

「あの、どこに行くんですか……?」

そんなあやの問いかけに答えもせず、その場から立ち去ろうとする。まるで興味を失ったかのように。

「あ、あのっ!」

立ち去る石田を止めようと走り出したとき、ふと石田のキャンバスに目がいく。


―――既にそこに自分はいなかった。

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