夜の鼓動が聞こえる

@ryo_namikawa

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 森の小道を抜けると、すぐに太陽の光に輝く水面が目に入った。

 雲一つない空を青く映し出している湖は、記憶よりもずいぶんと小さかった。というか、この大きさならどう見ても池といった方が正しい。

 そういえば、ここまで来るのも思ったほど時間はかからなかった。そう思って振り向くと、病院の色あせた赤いレンガの壁が木々の向こうにハッキリと見えて、こんなにも近くにあったのかと驚いた。

 あの時は全てが果てしなく見えた。永遠の時間とどこまでも広がる世界を願った。それだけ必死だったのだろう。

 僕も。彼女も。

 文字通りの意味で。

 あれから数年。僕は回転の鈍い頭になんとか知識を詰め込んで大学生になり、課題に追いまくられる日々をようやくの思いで切り抜けられる程度の体力もついていた。

 相変わらずスポーツ全般は苦手だけれど、それでも山道を問題なく歩けるくらいには手足も自由に動かせるようになった。

 それは大変な時間に違いなかったけれど、それでも過ぎ去ってみるとあっさりとした印象しか残っていなかった。

 そうなるまでの期間が、僕の人生の中であまりにも大きな比重を占めていたからだ。

 彼女と出会って、そして彼女が死ぬまでのあのわずかな時間は、きっと永遠に僕の人生の中心であり続けるのだろうと思う。

 一時も忘れたことはないけれど、こうやって実際にその中心の場所を再訪すると、どうしても意識は過去へと飛んでいきそうになる。

 僕は湖のほとりに沿うようにゆっくりと歩き出した。

 名前も知らない鳥の声や風で枝が揺れる音は、すぐに意識の外へと消えていった。

 やがて少しだけ森の奥まったところに、周囲に比べて一回りくらい大きな木が見えた。僕はその後ろに回り込んで、ふっと笑みを浮かべた。

 それは木の陰に隠れるように、ひっそりとあった。

 いや、残っていたと言った方が正しいかもしれない。

 少しだけ尖った形のこぶし大の石が地面に突き立てられ、その周りを小さな白い石がまばらな円を描いて取り囲んでいる。

 一見すると、それは人の手で作られた代物には見えなかった。だが、確かにこの小さなオブジェは僕と彼女が作ったものだ。

 それは墓だった。

 彼女が自分で用意した小さなお墓。

 とはいえ、僕はそいつに向かって手を合わせたり近況を報告したりするつもりでここに来たわけじゃなかった。

 なぜなら、彼女はきっとまだここには眠っていないだろうから。

 今もこの世界のどこかで、彼女の魂は生き続けているだろうから。

 そんな自分の考えに、僕は自然と笑っていた。感傷的な考えだからじゃない。それを事実として信じている自分を改めて感じたからだ。

 僕はその場に佇んだまま墓を見下ろしながら、そっと目を閉じた。

 そうすると、僕の心はあっという間に過去へとさかのぼっていく。

 あの時、僕が半身を失ってかろうじて生き永らえたあの時間が、ありありと瞼の裏に再生される。


 夜の気配がした。

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