悪魔くんと聖女ちゃん

エノコモモ

悪魔くんと聖女ちゃん


「聞いたか?」

「ああ。アンドレアス様の話だろう?」


その日。魔界に住む悪魔達の話題は、あるひとつの噂でもちきりだった。主に魔界王十三席が一席、その七番目を継承するアンドレアスの召喚に関する事柄である。


「アンドレアス様を召喚する人間が現れたとか」


人間が悪魔を呼び出す理由はただひとつ。その身に宿す飽くなき願望を叶える為だ。そう、自身の魂と引き換えに。


「ああ。悪魔と契約した人間が行き着く先は、地獄の奥底。そこで永遠に魂を焼かれ続けるのだ。まさに死よりも恐ろしい」

「更に言えば、大悪魔アンドレアス様を呼び出せる者は限られる。一体どれほどの欲望を持った人間なのだろうな」


そこで言葉は切られた。彼らは目を合わせ、ごくりと唾を飲む。


「これは、人間界が荒れるぞ…!」






「我が名はアンドレアス。無慈悲の大悪魔。我を呼んだのは貴様だな?」


そしてアンドレアスは、渦中の人間を前にしていた。仰々しい魔方陣の中に佇むのは、ひとりの少女。


彼女の名前はリーゼロッテ。人間にしては珍しい、真っ白な瞳と真っ白な髪が特徴的だった。


「…ほお」


彼女の姿を見て、アンドレアスは目を細め笑う。


「貴様、聖女か」


彼の口からは、到底似つかわしくない言葉が出た。全ての教会の中でたった1人だけが与えられる特殊な身分。しかしながら、彼女が現在居る場所は、聖職者が入るべき、教会に設えられた墓所ではない。辺境の地、二度と日の目を見ないよう奈落の奥底に。大罪人を生き埋めにする処刑場である。


「神に背いた聖女か!これは良い!人間にも主にも捨てられた憐れで罪深いその命。我が貰い受けよう!」


アンドレアスは大きく手を広げた。緩慢に、それでいて惑わすように語りかける。


「さあ。何を望む?心を満たす復讐か?それとも世界を手に入れる力か?この名にかけて、我は約束する。貴様がたった一言唱えるだけで、何千、何万と言う軍勢を凪ぎ払い、大地に災厄をもたらそう」


彼の言葉に、はじめてリーゼロッテが反応を示した。白い髪がさらりと揺れる。残り僅かな蝋燭の火に照らされて、瞳は鮮やかな金色に染まった。


「この命を懸け、わたくしは望みます…」


両の拳をきゅうと握る。そのまま彼女は、力強く声を発した。


「『しゅきしゅきせっくしゅ』を!」


リーゼロッテの言葉は狭い地下で反響し、辺りに響き渡る。しばらく時が経った後で、彼は呆然と声を発した。


「…は?」


大悪魔アンドレアス。彼の途方もなく長い生において、初めて聞く単語であった。


「なんだその、しゅ…それは」


あまり言いたくなかったのでそっと端折る。困惑したアンドレアスを前に、彼女は厚みのある本を取り出した。


「実は…わたくしの愛読書はあの!『食卓の上は恋の大戦争!~深夜のスイーツ達はより甘く~なのです!」

「知らん」


間髪を容れずそう返す。ぱちりと瞬き、少し驚いた後で、リーゼロッテは説明を始めた。


「主人公のホイップ・クリーム嬢がプティング伯爵を巡って争いを繰り広げる恋愛譚です…。注目すべきは最終章!恋仲となったふたりはしゅきしゅきせっくしゅにてひとつに結ばれ、プリン・ア・ラ・モードへ…」


アンドレアスからすればまるでふざけているのかと怒りたくなるあらすじだが、彼女のその瞳に映るのは本気の憧れである。一通り聞いた後で、彼は思った。


(趣味悪…)


思わずそのくだらない本を床に叩きつけたい衝動に駆られる。しかしリーゼロッテは本気だった。そして好きなものを語る年頃の乙女は止まらない。


「わたくしは聖女と言う身分でありながら、このしゅきしゅきせっくしゅなるものが、具体的に一体どのような行為であるか、ずっと気になっておりました…」


彼女は両手を合わせ壁を見る。感慨深い表情で、息を吐いた。


「本書によると、しゅきしゅきせっくしゅの達成はとても困難で、それ故に溢れんばかりの幸福に満たされたものであるとのこと…」

「……」

「そして、聖女と言う身分がお役御免となった今、もうこの好奇心を止めるものは何もない…。その為にアンドレアス様をお呼び立て致しました」


考えうる限りでこの世でいちばんまともでない目的で悪魔召喚をした聖女は、勢いよく大悪魔を振り返った。


「さあ!わたくしにしゅきしゅきせっくしゅをご教授ください!」






(くだらん…)


翌日。アンドレアスは人間の住む街にいた。


空は快晴。陽気は穏やか、魔界にはない柔らかな風が頬を撫でる。しかしアンドレアスの気分は到底晴れない。原因は当然、リーゼロッテと取り交わした契約、その内容にある。


(久方ぶりの契約だと思ったが、まさかあのようにくだらない依頼だったとは。何故このアンドレアスが、しゅ…など、せねばならんのだ)


頭の中でさえ言いたくなかったので、そっと端折る。件の本は、一応目は通した。しかし主人公とその恋人が7回目の心のすれ違いを迎えたあたりで、アンドレアスは読むのを止めた。


(あれほど生産性が無い話があるか。くだらなさすぎて、頭が痛くなったぞ…)


それでも、例の言葉がどのような行為を指すか、理解はした。


(即ち人間共が言うところの「愛情の伴った性行為」のことだろう。全くくだらん)


肉欲のみを追求した話ならともかく、精神的な繋がりに重きを置いた行為など、悪魔の管轄外である。少なくとも、普段のアンドレアスであれば、決して受けぬ依頼だった。


(が。聞くところによれば、あの娘は稀代の悪女。聖女と言う立場を利用し、国を滅ぼしかけた正真正銘の罪人よ)


生前、多くの憎悪を受けた者ほど、強い因果を背負う。この罪の深さを悪魔は好む。彼女がアンドレアスを呼び出すことができたのも、その辺りが大きいだろう。


(地獄に、より上質な魂を届けられれば、我の次期魔王の地位は揺るぎないものになる。その為には手段は選ばん。適当に相手をしてやれば、あの女も満足して…)


「あの」


腹の中で算段を立てる彼の元に、控えめな声がかかった。


「来たか」

「ええと、アンドレアス様…ですか?」


視線を上げれば、初めて会った時とは少し印象の違うリーゼロッテの姿があった。特徴的な髪を黒く染め、一般人と何ら変わり無い見た目。そんなリーゼロッテは青く塗られた目を丸くして、アンドレアスを見ている。


「そのお姿は一体…」

「フン。我は大悪魔。貴様は処刑された筈の罪人、そのままの姿でいれば騒ぎになるからな。多少は形を変えねばならん」


言いながら、アンドレアスが腰かけていた広場のベンチから立ち上がった。その姿は悪魔ではない、人間である。


「高位の悪魔に不可能は無い。貴様の毛色を変え、我の姿を人間共が言う優男にするなど容易いこと。そして、そのように人気がある男を隣に引き連れて歩く、貴様も悪い気はしまい」

「……」


アンドレアスにとって、手足の数、目鼻の数を人間に揃えることなど朝飯前。美術品のような造形美を描く輪郭、切れ長の瞳。顔の中心をすらりと通る高い鼻。長い手足など、全てに置いて完璧な青年に、アンドレアスは自身の容姿を仕上げた。事実、街中ですれ違う多くの若い乙女が頬を染め、人間となった彼に熱の籠った視線を向けてきている。


「そうですか…」

「……?」


しかし、リーゼロッテの反応は彼が思っていたものとは違った。彼女の表情に笑みは無く、眉尻はしょんぼりと下がる。まるで期待を裏切られたとでも言うように、こちらを見ている。落胆したその様子に、アンドレアスの中でひとつの可能性が落ちた。


(まさか、この見た目が好みじゃなかったのか?)


その時になって、この元聖女は趣味が悪かったことを思い出した。自身の労力を省み、思わず舌打ちしたくなる。


(クソが。…まあ良い。策はある)


「手を出せ、人間」


リーゼロッテに向かって命令する。そして言われるがまま差し出された、小さな手を握った。


「まあ」


そのまま手を引っ張るように歩き出すと、リーゼロッテの頬がぽんと赤く染まった。それを見て、アンドレアスはほくそ笑む。


(思った通り。ちょろいな)


リーゼロッテは手のぬくもりに、恥ずかしそうに頬を染めた。


「わたくし、産まれる前から聖女になることが決まっておりましたので…こうして殿方と手を繋いで歩くなど、夢のようです」

「そうだろうな」


そう言ってフンと鼻を鳴らすアンドレアスの心に宿るのは、自信だ。


(男を知らん小娘1匹ごとき、1日もあれば落とせる)


そう、リーゼロッテの願望は愛情を伴う性行為。けれど当然、アンドレアスが彼女に契約相手だと言う以外の感情を抱くつもりは毛頭ない。ただ、リーゼロッテに、そこに愛があるのだと錯覚させれば良いのだ。


(さっさと惚れさせて、今夜にはしゅ…くだらん願望を叶え、終わらせる。明日の朝にはこの女は地獄行きよ)


口の端だけをつり上げ、アンドレアスは笑顔を作る。彼女を振り返った。


「さあ、これから我は貴様の恋人だ。手始めに、貴様の好きなように呼んでやろう。呼び名は何が良い?」


幸いにしてアンドレアスは大悪魔。彼には自信がある。あらゆる技術、そして甘言を巧みに操り少女の心を奪う自信が。


(その為なら手段は問わん。この小娘の希望は何でも叶えて…)


「ええと。そうですね…。近しい方からはリーゼと呼ばれることが多かったので…」


そんな思惑など知らないリーゼロッテは、無邪気にはしゃぐ。嬉しそうに顔を上げた。


「らぶらぶリーゼたんなど如何でしょう?」

「断る」


彼の口からは間髪を容れずに拒否が飛び出た。残念ながら、アンドレアスの覚悟を以てしてもその言い方は厳しかった。


「何でもと仰いましたのに…」


そして断固却下されたリーゼロッテと言えば、眉尻を下げ悲しそうな顔を向けてくる。


「絶対に言わないからな」


大悪魔は釘を刺しておいた。






「アンドレアス様。大丈夫ですか?」


そしてそんな不穏な始まりから、数時間が経過した。真上にあった太陽は落ち、既に地平線の彼方へ消えようとしている。人もまばらになった広場にて、ぐったりとベンチに腰かけるアンドレアスを、リーゼロッテは心配そうに見つめていた。


「やはり悪魔の方が人間界で過ごされるのはご負担がかかるのですね。わたくし、何か飲み物を持ってきますわ」

「……」


アンドレアスは無言を返す。下級の悪魔ならともかく、大悪魔たる彼にそのような制約はない。貴様のせいだと口にしたい気持ちを何とか抑える。


(想像の100倍はくだらなかった…)


遠ざかる小さな背中を睨み付けながら、アンドレアスは今日1日を振り返る。彼の具合が悪くなった原因は、リーゼロッテとの恋人ごっこにある。


(あの女、言うことにかいて『普通の恋人のように食べ物から飲み物に至るまで食べさせ合いたい、手を繋いでふたりで笑顔でスキップがしたい』などと…!)


リーゼロッテの要求は、少々狂気じみていた。そもそも彼女がデートの参考にしている愛読書が、致命的に趣味が悪いのだ。


(何が普通の恋人だ…!今どきそんな馬鹿がいるか…!大悪魔にあのような真似をさせおって…!)


相手の要望をあまり断り続けるのも、契約に差し障る。その為に致し方なし、本当に致し方なしにアンドレアスはリーゼロッテの要望を叶えた。羞恥に震えながらあーんをし、ひきつる笑顔でスキップをした。うっかり周囲を焼き尽くしそうになる手を必死で止めたものだ。


(あれを見た人間共はあとで全員殺してやる…)


強く心に誓うアンドレアスの目に、ふと気になる景色が入ってきた。こちらに向かってくるリーゼロッテ、そして彼女よりも小さな人影がいくつか。


何かのきっかけで仲良くなったのだろう。広場で遊んでいた少年達と、何事か話している。その元気な声は、アンドレアスの耳にも届いた。


「大きくなったら騎士になるのが、僕らの夢なんだ」


玩具の剣と盾を振り回しながら、彼らは意気揚々と宣言する。


「悪い聖女をやっつけるぞ!」


そう言って、笑顔で背を向け去っていく。


(フン。件の聖女ならそこにいるがな)


彼らは目の前にいるリーゼロッテが当人だとは気付かない。当然だ。悪い聖女は処刑されたのだから。


「小娘」


遠ざかる彼らを黙って見送るその小さな背に向かって、アンドレアスは口を開く。


「今からでも願いを変えたらどうだ?」


背後から忍び寄る。ゆっくり、ゆっくり黒い言葉を吐く。


「憎いだろうこの国の人間が。貴様に罪を被せ死に至らしめ、のうのうと生きる連中が」


1日も共にいれば分かる。彼女には国を滅ぼす程の野心も、力もない。少しだけ夢見がちな、どこにでもいるごく普通の少女だ。ならばどうして国中から恨まれ処刑されることになったのか。


「冤罪だな」


その言葉に、リーゼロッテの小さな肩が、ぴくりと動いた。


彼女が現役の聖女であった時に、この国の中枢で大きな変化があった。政権を握る者が代わり、教会が解体されたのである。


「しかし、そう簡単に人間は信仰を棄てられん。強制的な棄教は混乱と反抗を招き、下手をすれば国はふたつに割れる」


背後から話しかけている為に、リーゼロッテの表情は見えない。けれど確信を持って、アンドレアスは先を続ける。


「その為に教会の象徴たる貴様を悪人に仕立て上げ、民衆が自発的に信仰を棄てるよう仕向けたのだろう?」


彼は肩を揺らして笑う。


「聖女の皮を被り国を破綻に導いた悪女を、光の騎士が処刑。お前たちは騙されていたのだ!…いかにも、愚かな大衆が食い付きそうな筋書きよ」


アンドレアスがリーゼロッテの前に立つ。彼女に向かって、自身の手を差し出した。


「さあ。我の手を取れ」


リーゼロッテが顔を上げる。それと同時にアンドレアスが掛けていた術が、ゆっくりと剥がれ落ちて行く。彼女本来の色が表れ、そしてアンドレアスの背中から羽根が生える。


「貴様にありもしない罪を被せ処刑した人間を、そしてそれを簡単に信じた人間共を、全員を皆殺しにし、国を滅ぼそう。今、貴様の前にはその力がある」


真っ黒な羽根が少女を包む。大悪魔は笑って、無慈悲に誘う。


「さぞ気持ちが良いぞ?お前を死へと追いやっておきながら、のうのうと生きる奴等を意のままに蹂躙するその瞬間は…」

「わたくしが」


アンドレアスの言葉は、強い声に遮られた。あまりに凛とした声だった為に、目の前の彼女が発したのだと理解するのに、少し時間がかかった。


アンドレアスと目が合うと、彼女は優しく微笑んで口を開く。


「わたくしが、提案したのですよ」

「…何?」

「教会が解体されると決まった時。聖女であるわたくしを悪人として処刑するように、わたくしが提案致しました」


リーゼロッテの説明は、彼の想像したどんなものとも違った。戸惑ったアンドレアスの口からは、自然とその理由を聞く言葉が漏れる。


「…何故だ?」

「……」


彼女の真っ白な瞳が目に入る。けれどその瞳はアンドレアスを見ていない。彼の背後、街並みを映す。夕陽に染まり輝く、たくさんの人間が生きる家々を。


(…馬鹿な)


アンドレアスが、有り得ない結論に至る。彼の言った通り、無理矢理信仰を曲げれば多くの血が流れる。だからリーゼロッテは選択したのだ。死なせない道。自分以外の誰も。


(馬鹿な!生まれる前から決まっていた地位が勝手に破綻しただけ。この娘は他人に振り回され殺されたようなものだ!)


リーゼロッテが憧れた本では、最後には主人公は恋人と結ばれ幸せなまま一生を終える。けれど、彼女の人生に幸福な結末は無かった。


(黙っていれば、信奉者に守られ少なくとも死ぬことはなかった。そんな状況で、自分を差し出す人間がいる訳が…)


「ですが、たとえ魂だけを天にお呼び頂いても、しゅきしゅきせっくしゅだけは体験できません…」


呆然とするアンドレアスを置いて、リーゼロッテは力強く口にする。


「その為に教会の没収品にあった悪魔の書で拝見した、アンドレアス様をお呼びしたのです!」


そのまま弾けるような笑顔を浮かべ、アンドレアスを振り返った。


「今日1日、普通の女性のように過ごさせて頂いて、わたくしとても幸せでした。お付き合いくださり、ありがとうございます」


そう言って、リーゼロッテが再び遠くを見る。夜が近くなってきた街並みに、ぽつぽつと明かりが灯っていく。彼女の横顔に宿るのは、慈愛と憧れ、そしてこの景色を守ったのだと言う確かな自負。


「……」


(…本当に、趣味の悪い女だ)


それを眩しそうに見ながら、アンドレアスは小さく舌打ちをした。






「いよいよなのですね…」


リーゼロッテの口からは、どこか緊張した声が紡がれる。小さな両手が、高鳴る胸へそっと当てられた。


夜は更け、ふたりは小さな宿屋へやって来た。そう広くはない寝室で、蝋燭の炎が揺らめく。期待に胸を膨らませる少女を前に、アンドレアスは口を開く。


「ああ。しゅ…これが終われば、契約は達成。貴様の魂は地獄へ…」


ふと口をつぐんだ。黙ってしまった彼を前に、リーゼロッテは首を傾げる。


「…アンドレアス様?」


その言葉に、アンドレアスは我に返る。契約が達成されれば、彼女の魂は地獄へ献上される。リーゼロッテがアンドレアスを召喚したあの時から、既に定められた運命だ。


ただ、少しばかり、惜しいと思ってしまった。


(バカな。我は魔界王が一人、無慈悲のアンドレアス)


頭を振って、湧いた感情を振り払う。彼女がこの先どうなろうと、アンドレアスの知ったことではない。


「達成後、貴様の魂は地獄へと堕ちる。悪魔も恐れる苦しみが永遠に続くのだ」

「ええ」


救いのない未来を予言されようと、リーゼロッテの顔に迷いはない。覚悟を決めたように微笑む。


「破門されこそしましたが、わたくしも聖職者のはしくれ。悪魔の方に願いを叶えていただく代償も、すべて理解しながらお呼びしました」


(…フン)


胸に湧いた情に蓋をして、アンドレアスは彼女を見る。黒い瞳が冷たく光った。


(どちらにしろ、一度取り交わした契約は悪魔本人でさえ撤回できるものではない)


アンドレアスは悪魔である。リーゼロッテは人間。魂と引き換えに願いを叶える、それ以上の関係は無いのだ。


(しゅ…行為を終えた時点で、契約は達成。この娘の魂は地獄の業火で永遠に焼かれ続け――)


「あの」


思惑は、控えめな声に遮られた。アンドレアスが我に返ると、リーゼロッテがじっとこちらを見ているところだった。白い瞳が迷うように揺れる。


「行為にあたって、ひとつお伺いしたいのですが…アンドレアス様は、どんなお姿にもなれるのですか?」

「ああ。何にでも姿形は変えてやろう。金髪碧眼の優男でも、目にするだけで腰がくだけるような美男子でも、貴様が望むままにな」


一介の人間を前に、大悪魔は手を広げて笑う。自身が関わる以上、契約の達成に後悔があってはならない。完璧な形で叶えなければ。


すると、リーゼロッテの表情がぱあっと輝いた。


「であれば、最初にお会いした時の…あのお姿でお願いできますか?」

「…ん?」


その申し出を受けて、彼はぴたりと止まる。リーゼロッテと初めて相対した時、即ちアンドレアスの召喚時は彼本来のありのままの姿であった。魔界の悪魔達すら恐れ、人間とはかけ離れた異形の姿。到底今から初夜を迎える乙女が望むべきものではない。


(何故、その姿を…)


「少し恥ずかしいのですが…」


戸惑うアンドレアスと、リーゼロッテの目が合う。そして趣味の悪い元聖女は、白い頬を桜色に煌めかせ、恥ずかしそうに微笑んだ。


「その、一目惚れです」






「聞いたか?アンドレアス様の話」

「ああ」


その日。魔界に住む悪魔達の話題は、あるひとつの噂でもちきりだった。主に魔界王十三席が一席、その七番目を継承するアンドレアスの契約に関する事柄である。


「契約した人間を魔界へ連れてきたらしいな」


アンドレアスが人間界に召喚されて数日。飛び込んできたのは、驚くべき内容だった。


「願いを叶えず地獄へ送らず、あえて手元に置き飼い殺す…さすがはアンドレアス様。我らが想像だにしないことをやってのける」

「無慈悲のアンドレアス。彼の手にかかれば、地獄での責め苦などぬるま湯に浸かるようなもの。今頃、件の人間はそれはそれは悪魔も震えるような仕打ちを受けているに違いあるまい」


そこで言葉は切られた。彼らは目を合わせ、ごくりと唾を飲む。


「ああ恐ろしい…」




と言うわけで、アンドレアスとリーゼロッテは一緒に暮らし始めた。その目的が悪魔達の噂とは少々違うことは、お察しの通りである。


ちなみに先に交わしてしまった契約により一向に手が出せず、しばらくの間アンドレアスを地獄の苦しみが襲うこととなる。


ふたりが肉体的な意味で結ばれるのは、契約解除の手続きが済み、天より高いプライドを持つ大悪魔が1人の少女に抱く気持ちを無事に伝えられてから。それはそれは途方もなく長い道のりとなる。


そう、しゅきしゅきせっくしゅの達成はとても困難で、それ故に溢れんばかりの幸福に満たされたものなのだ。

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悪魔くんと聖女ちゃん エノコモモ @enoko0303

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