第7話 ある日の放課後

 ある日の放課後。

 その日は少し汗ばむ陽気で、ぼくは帰宅する前にどうしても炭酸系の飲料水が飲みたいと思い、校舎の外れにある自販機へと向かった。

 湿気混じりの熱気が外を舞っており、着ていたシャツを汗ばませる。自販機に辿り着くと、偶然にも澄香さんに遭遇した。彼女はペットボトルのお茶を片手に、晴れ渡った空をただボーっと見上げている。

 珍しく加奈と春はおらず、一人だった。彼女はぼくの存在に気付くとペコリと会釈した。ぼくも「やぁ」と声を掛ける。

 澄香さんの横を通り抜け、自販機でお金を入れて炭酸飲料水を購入する。一度は、彼女は無言のまま空をじっと見つめているだけであった。

 炭酸水の蓋を開け、一口飲むと、ぼくは澄香さんに問い掛けた。


「どうしたの?」


 そう尋ねながら彼女の隣に移動する。


「……あの雲」


 ぼそりと澄香さんが呟く。ぼくも空を見上げた。赤みがかった青い空には筆でサッと刷いたような白い雲が漂っている。


「あの雲がどうかしたの?」

「……名前」

「え?」


 小さな声で呟く。


「なんて……名前だったのか、思い出せなくて……」


 少しの間を置いて、ぼくは思わず吹き出してしまった。澄香さんは怒ることもなく、いつもの不思議そうな顔でぼくを見つめる。


「なんだ、そんな事かぁ」


 クスクスと笑い終わっても、彼女は何も言わずこちらを柔らかい眼差しで見据えるばかり。


「一人で空を見上げているから、てっきり思い悩んでいるのかと思ったよ」


 悪戯気味ににやけるぼく。


「そう…見えたの?」


 ゆっくりとした口調で話す澄香さん。


「そりゃあ、ただ一人で無言で空を見上げる人を見れば、そう思うよ」

「そう…なのかなぁ…」


 そう囁くなり、澄香さんはまた遠い空を見つめる。

 ぼくは思わず問いかける。


「澄香さんは空が好きなの?」


 ぼくの問いに一度振り向き、また空を見上げると首を傾げた。


「……どっちなんだろう……?」


 ぼくに向き直り、さらに続ける。


「でも、空が嫌いな人は……あまりいないような……気がする」


 澄香さんの言葉に僕は納得した。確かにそうかもしれない。雨が嫌いな人や曇りが嫌いな人は居るが、空自体をあまり嫌う人は出会った事がない。


「確かに言われてみれば、そうかもしれない」


 クス、とぼくは笑う。

 今日まで、ぼくはなんだか彼女は遠い存在だと思っていた。本を書いて有名になり、いつも誰かがそばにいる。けど彼女はただ空を見上げ、流れるすじ雲の名前が出て来ない、幼気な一人の少女に過ぎないのだ。


「どうしたの…?」

「いや、失礼。大した事ではないんだけど、ぼくは今日まで澄香さんを誤解していた気がする」


 澄香さんはぼくの意味深な(ぼくがそう思ってるだけかもしれないが)発言に怪訝な表情を浮かべている。


「気を悪くしないで聞いてもらいたいんだけど、ぼくは澄香さんの存在は、どこかあの雲のように遠い存在な気がしてたんだ」

「そう、なんだ……」

「意味が分からないかもしれない。いや、むしろ分からなくてもいいんだ。でもこの会話で君は地面に降り立ったんだ」


 ぼくの意味不明な説明に、曖昧な表情を浮かべる澄香さん。ぼくは無理矢理笑みを浮かべ、炭酸水を一気に喉に流し込む。


「なんだかわけのわからない事を言ってしまったね。ぼくはそろそろ帰るけど、澄香さんは帰らないの?」

「うん、私も帰るところ……」

「そっか。なら一緒に行かない?」


 少し間があき、澄香さんはコクンと頷いた。


「いいよ……」


 ぼくらはそのまま並んで校門へと向かう。校門を抜け、バス停まで歩き、二人でバスを待つ。

 そのあいだにぼくと澄香さんは適当な話をした。このあいだタっちゃんがコンビニで買ったばかりの飲み物を教室で盛大に零したこと。澄香さんの妹が子猫を拾ってきたこと。


 バスが来て、乗り込んだ車内の中でもぼくらの会話は止まらない。他愛のない会話に花を咲いて、ぼくはなんだかときめいていた。それは本当に、澄香さんがぼくと同じ高さに降りてきたからだと思う。

 しばらくして会話が止まり、小さな沈黙が生まれた。別にぼくは気まずくはない。あらかた話したい事は話した。仲のいいタっちゃんとだって、会話に飽きて沈黙はあるもんだ。

 窓の外の景色に目をやろうとした時、クスリと隣で声がした。

 声に振り返ると澄香さんが口元に手を当て、声を殺すように小刻みに震えてた。


「どうしたの?」


 問いかけると小さく息を吸い、ふう、と一息吐いていう。


「いや……学校でね……宗谷君が言った…」


 学校での会話を思い出そうと頭を上げる。澄香さんはまた笑いがぶり返したのか、肩を小刻みに揺らしながら続ける。


「わたしが……地面に降りたって……ちょっと、想像したら……」


 そう言われて、気後れしながらも「あぁ」と返事をした。確かに、思い返してみれば訳の分からない事だった。本気で考えてしまったのだろう。ひとしきりクスクスと笑う彼女に苦笑気味に問う。


「そんなにおかしかったかな?」


 照れたような笑みを、ひた隠ししながら返す。また強くぶり返してきたのだろう、周囲の人の目を気にしてか、クスクスと口元に手を当てて笑いを殺す。

 なんだか、彼女の本当の笑顔を初めて見た気がする。そんな瞬間にぼくの心は冬の陽だまりのような安心感と暖かい心地よさに包まれた。


 ふと、昔付き合っていた恋人の事を思い出す。

 藤沢ミライ。

 どうしてだろうか、未だにあの子の面影が陽炎のように浮かび上がる。

 しばらく考えたのち、そういえばあの娘と付き合い始めた時も、こんな気持ちだったなぁと改めて実感した。

 そうだ。付き合ってすぐの初心な頃の自分に似ている。

 初恋のリメイク。そんな表現がよく似合う。

 

 窓の外から強い西日が差し込み、長い髪に透けて通るその姿は、とても素敵だった。

 空から舞い降りた彼女は、帰宅途中の学生や会社員の乗ったバスで心地のよい春風のように微笑んでいた。

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