第4話 作家のサイン
バスは定刻通りに学校の前に到着した。ぼくは少し足早に降りる。
校門を抜けて玄関ホールを抜ける。教室に入ると澄香さんは既に自分の席に座っていた。この頃には女子たちも興味を示さなくなっており、澄香さんの周りにはいつも一緒にいる友人二人だけであった。
それを確認したぼくは自分の席に荷物を置くこともなく、迷いのない足取りで彼女に近づく。ぼくの気配に先に気付いたのは取り巻きのふたりで、同時に顔をむけた時にぼくはいった。
「おはよう」
澄香さんと取り巻きのふたりは一瞬とまどい、不思議そうな顔でぼくの顔を見つめるばかり。ぼくは返事を待たず続ける。
「ぼくは石野宗谷っていうんだ伊達政宗の“むね”に、“たに”で宗谷っていうんだ。自己紹介でも話したと思うけど、ソーヤって呼んでくれればいい。よろしくね」
取り巻きのふたりは互いに困った顔を見合わせる。先にいうが、ぼくは別にナルシストではない。ナルシズムに少しあやかっただけだ。周囲で談笑して数名のクラスメイトもぼくらの様子に気付き、奇異な視線を感じた。さすがのぼくでも、ここまで反応が鈍いと焦りを覚えはじめ、無理やりに言葉を紡いでいく。
「あのさ、大沢さんの小説を読んだんだけど、中々面白くってさ。急で申し訳ないんだけど……サインを貰いたいなって思ってさ」
後半は咄嗟に思い付いた言葉だ。サイン。果たして、彼女がそんなものを用意しているのだろうか?
「お、なんだぁソーヤ。ナンパか?」
茶化しを入れたのはたまに話すお調子者で、斜に構えた二枚目気取りの
これをいいことに、ぼくは皆の注目が集まりきったのを確認するとお調子者を演じた。
「なんだよみんな。考えてみろよ、賞も取ってるんだぜ? すごい事じゃん。今のうちにサイン貰っとかないと、次にチャンスはないかもしれないぜ?」
注目を逆手に取るように、おどけた声で言い返してやる。やましいことはない、これもぼくの本心だ。皆から様々な言葉が飛び交うが、動じることはなかった。
「おまえそれ売るつもりだろー」
「えー、そういってホントは大沢ちゃんのこと好きなんじゃないの?」
ぼくは別にピエロになっても構いやしなかった。クラスの皆の嘲笑が響く中でそれは聞こえた。
「あの、色紙を……」
掻き消されそうな声に、ぼくはハッと澄香さんの方に振り返る。周囲の皆と違い、澄香さんだけは薄く唇を開いたままこちらを見上げていた。
あっと思い、急いで鞄を開ける。至極当然だが、サイン色紙など持ち合わせていない。そこには昨日買ったばかりの未開封の漫画コミックが数冊あるだけであった。
咄嗟に口にした言葉に、ぼくは数秒前の自分に失望しながらも、仕方なしに一冊のコミックのビニールの包装を破り、表紙カバーを外した。
「あ~ごめん、これしかないんだ。悪いんだけどこれにサインして貰えないかな?」
おどけながら言って漫画を差し出すと、いつの間にか居たタっちゃんが大笑いする。
「なんだよお前。せめて本人の本か、サイン色紙ぐらい持って来いよ!」
タっちゃんの言葉に連鎖するように、周囲のみんなからはちきれんばかりの笑いが沸き起こる。ぼくも誤魔化すように薄く笑ってみせる。残念ながら彼女の本が発売されるのは夏ごろ。それくらい、彼女の小説を読んでいればわかってしまうこと。
一方で澄香さんは不思議そうにコミックを受け取り、カバーが外れた表紙を見つめていいた。
その時、教室の前方のドアをガラガラっと開いて金井先生が入ってきた。ぼくらは誰ともなく笑い声を消し、顔に笑みを残したまま自分の席に向かい始める。
金井先生は先ほどの笑いを訝しんだが、すぐにいつもの調子で「ほらー席に座れー」と発した。
ぼくは自分の席に戻る途中で、後ろ髪を引かれる思いで澄香さんを一瞥した。彼女は金井先生の目が届かぬよう、机の下で渡した漫画本をじっと見つめてばかりだ。
「お前らーはやく席に着けー。今日はホームルームはないからすぐに授業始めるぞー」
金井先生の授業はゆるい雰囲気だが、生徒の細かいところまで目を届かせる人で、隠れてスマホを操作している生徒に口頭注意をしてくる。没収することは稀な方だ。それに加え、黒板に書かれたことをしっかり板書していれば、テスト問題は難なく解くことが出来る。ぼくらにとっては優しい先生だ。
日直がすぐに号令を掛ける。礼、着席と一連の流れが終わるなり授業をはじまった。
「じゃあ前回の続きからいくからな。教科書の二十四ページをひらけー」
席についた皆が慌ただしく教科書とノートを取り出す。ぼくも慌てて鞄から教科書とノートを取り出し、鞄を机の横に引っ掛ける。
「よし、鎌倉時代のとこからだったな。じゃあ小出、阿弥陀念仏(あみだねんぶつ)の宗派のところを立って読み上げろー」
金井先生が言うと、大柄で肥満体系の大人しい小出が上擦った声で返事し、落ち着きなく立ち上がる。やがてボソボソと小さな早口で、つっかえながら教科書の文章を読み上げるものだから、まったく聞き取れやしない。
「すいません、肉が喉に詰まって聞こえません」
後ろの席の剣崎が金井先生に届かぬような小さな声でふざける。周囲でクスクスと笑い始める。
相変わらずロクなことを言わないな、と半ばあきれがちにそっと剣崎に振り返る。
その時、澄香さんに目がいった。視界の隅で金井先生に見つからぬように、机の下でぼくが渡した漫画を読んでいる。
授業のことや剣崎のふざけた声など全く聞こえないのだろうか?
さきほど起きた喧騒など気にもせず、真剣なまなざしで漫画を読み耽っている。通下校のバスでよく見かけた光景のはずなのに、ぼくの心臓は知らぬ間に早鐘を打ち始める。
これはいったいなんだ?
朝の日差しが差し込む教室。太陽の光が澄香さんに届くには、距離があった。
なぜだろうか、澄香さんの周りはどこかキラキラしているのだ。
きっと錯覚なのかもしれないが、それがあらゆる思考を吹き飛ばしたのだ。
見つめたのはものの数秒だが、そんな短い時間のあいだに視線以上のなにかを奪われた気がした。ぼくの中で眠っていた大事ななにか。
彼女を目にした瞬間、それが無意識に強奪された気がしてならないのだ。
無理に視線を剥がし、黒板の方に顔を向ける。
金井先生がチョークで黒板に文字を走らせるも、手に持つシャープペンシルが動かない。落ち着かぬ胸の鼓動に、授業に集中できなくなっていたのだ。
もう一度振り返りたい衝動を抑えながらも、板書を続けた。もちろん、黒板に書かれているものが頭に入ってくることはなかった。
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