#2
「あんた、ただいまくらい言いなさいよ」
「っさいなぁ、た、だ、い、ま!」
「何よその口の利き方! 待ちなさい!」
階段に上る途中で、しつこく挨拶なんかを強要してくる母親に、罵声のごとく発し
た「ただいま」を浴びせ、激昂する母親に背を向けたまま、二階の自室へと逃げ込ん
だ。
「あと何日だろうか」
私は、不満の声を漏らす。あと何日、あの人たちに庇護されながら生きていくのだ
ろうか。早く一人暮らししたい。
高校も、大学も、行きたくない。
早く義務教育を修了して、どこでもいいから就職して、金を稼いで、自分だけの力
で生きたい。
今まで衣食住や学習、一切合切をすべて返済し、親に育ててもらった事実を稼いだ
金で相殺したい。
でも今は。
子供のままでいられる今は、学校よりも狭苦しい空間で、しかし学校なんかよりも
心が安らぐ空間で、A3サイズのスケッチブックを広げ、思い思いに、鉛筆を走らせ
る。
骨組みを描いて、それに肉付けして、脚色して、影を付けて、立体感を意識し
て…。
「ふぅ…」
微かに溜まった額の汗を拭う。
書き始めて数分後。
でこぼこの月面が出来上がった。足元に広がる月面と、遥か遠くに見える地球。も
しも自分が今、月面に立っていたら、そんな空想から生まれた絵画。姉以外の人間な
んかよりも数倍の価値がある私の空想。これだけは、この時間だけは誰にも邪魔させ
ない。
ふと、窓を見やる。
まだまだ青を残した夕方の空に、真っ白な三日月が見えた。
そして、次に描くのは、『設計図』
今しがた、絵を描いたものとは別のスケッチブックを取り出し、私が望む、あいつ
の死に方を、描く。
苦しむあいつの顔を描き、胴体に刺さったナイフと、そこから吹き出す血しぶきを
描く。
自然と、笑みがこぼれていた。
6月の、今にも雨が降り出しそうな雨の下、グラウンドに出ていた女子たちは、終
わりのチャイムが鳴るといつもより早足で校舎へと戻る。
私を除いて。
用具の片づけは、一授業で交代制になっている。私たち一年三組と、隣のクラスの
一年四組から一人ずつ選出されるのだが、私のペアとなる隣のクラスの女子に、私は
苛立っていた。
『目黒さんごめん、昼休みは、五限に小テストがあるから勉強したくて、今日は、
片付けてくんない?』
申し訳なさそうな顔を作って、懇願というよりは命令に近い圧を私にぶつけ、私が
反射的に頷くのを見ると、「ありがと、今度何かで埋め合わせするねっ」などと調子
のいい嘘をつき、駆け足で、自分の教室へとそそくさと戻っていた。
私だって、古典の小テストがあるのに。
どうせそんなことを訴えたところで、うちのクラスのサルどもと友好関係にあるあ
いつが聞く耳を持つはずがない。私がイエスと答えて当然だと思っているから。
これだから学校は。
雨が降り出した。
サーっと、海のように大きな雲が、乾いた土にシャワーのように細切れた水の線を
幾筋も降らせた。
本当は知っていた。
私が弱いことを。
言い返せなかった。
体育倉庫の庇に守られるように、私はこの空にも嫌われていた。
今日はドッジボールの授業だったが、後片付けになって初めてボールに触れた。遊
ぶだけ遊んでおいて、後始末は私にさせる。
二つのボールをかごに入れたが、そのうちの一つをすぐにまた、持ち上げて、胸に
引き寄せた。
壁に背中を付け、床に尻を付けた私は、抱え込んだボールを抱きしめるように、小
さく震え続けた。
涙がじんわりと目の奥から溢れだしそうだった。
どうして私が、こんなに不幸にならなきゃいけないの?
どうしてあいつらが、不幸になるべき白木圭が、誰かと隣で笑い合って幸せそうな
の?
「お姉ちゃん…、お姉ちゃん…」
もう限界だ。
お姉ちゃんみたいになる、と意気込んでいたくせに、こんな下らないことで打ちの
めされるなんて。
涙が出そうになった、その時だった。
「あー、どうしたもんかねー」
部屋の奥から、気だるそうな人間の声が聞こえた。
次に、たたん、という小気味のいい音が数拍の間を置きながら繰り返し鳴り響く。
自分の他に誰かがいることに驚き、警戒し始めた私は、涙なんかあっという間に引
っ込んでしまった。
立ち上がり、恐る恐る、奥を確認すると、今しがた壁に背中を付けて床に尻を付け
た私と全く同じ姿で座っていた。
ただ、唯一違うのは、野球のボールを壁に向かって投げては、返ってくるそれを受
け取る、の動作を繰り返していた。
壁にぶつかる直前に、床にボールが跳ね返り、斜め上に進行方向を変えたのも束の
間、壁の低い位置にぶつかり、持ち主の方へと正確に返っていく。
なんだか、つまらないような、それでも少しだけ面白みのあるような行為を、まじ
まじと見つめていると、私の視線に気づいたその人物が、ボールを投げるのをやめ
て、こちらに視線を向けた。
「あっ」
隠れそびれた私は、観念したように立ち尽くし、うつむいたまま、しかし目線は彼
の方へと注いだ。
「ああ、ごめんごめん! 驚かせたか?」
色は違えど、私と同じく体操服をまとった男子が、そこに座っていた。
「なんだ? お前」
前髪から襟足、もみあげまでが、校則違反ギリギリを狙っているような長さの、男
子にしては全体的に長い髪をした男子が、きょとんと不思議なものを見るような目で
私を見た。
「い、いや、その…」
声が上ずってしまう。
そわそわと身体を動かしながら、どう事情を説明しようか、たじろぐ。隣のクラス
の人間に登板を放棄された挙句、雨が降り出して教室に戻れなくなった、なんて言い
たくなかった。
黙り込んでいる私に「ああ」と彼は何かを察する。
「ちょうどよく降って来たわけね」
「あ…、はい…」
外に向かって指をさす彼に、私は頷く。
「で、昼休みの時間が少しずつ潰れていくわけか…」
「…」
黙って頷く。
自分だって、雨に閉じ込められてるくせに、よく言う。
私は、耐えがたい不愉快感に、拒絶反応を示しそうだった。
だって、この人。
「よっしゃ!」
彼は、立ち上がった。当たり前だが、小柄な私なんかよりも上背がある。むくりと
立ち上がると妙に威圧感があった。
私は、彼のことを知っている。
だから、必死で食い止めた。
「結構です!!」
きっぱりと、断りを入れた。さっきは同級生相手にもできなかったくせに。
ルックスと暴力こそが、学校において絶対だと思っている私だが、しかし彼だけが
イレギュラーだった。
「おいおい、まだ何にも言ってねえだろ!」
「なにもしてくれなくて結構です。私に関わらないでください」
彼のやりたいことは何となくわかった。雨の中を走り抜けて私と一緒に相合傘でも
するのだろう。
汚らわしい。
だから私は、そんな恐怖を未然に感じ取り、彼の厚意に見せかけた卑しさを阻止す
る。
灰岡翔。
学校中の、嫌われ者。
こんなやつと一緒にいるところを見られたら、ただでさえクラスで控えめな人間だ
と見下されている私の格が、さらに落ちてしまう。
私までもが、笑いものにされてしまう。
今、二人でいることですら鳥肌が立つほどに嫌悪感を覚えるのに、親しいなんて思
われてしまった日にはもう…。
「待って!」
「んあ?」
思わず敬語を取り払ってしまった。いや、それ以上にこれだと、私が彼の方に好意
があるみたいじゃないか。
怪訝そうに振り返る彼に、急いで前言撤回しようとするも、
「心配すんなって! 俺がパパっと行って、傘取って来るからよ」
「だから…、ちが…」
「じゃっ! いい子にして待ってなよ! なんてな」
「あっ…!」
雨の中を、異なる色をした体操服の上級生が、べちゃべちゃと濡れたグラウンド土
を踏み荒らすようにして校舎へと向かう。
終わった。
私の学校生活に終止符を打たれる瞬間だった。
白木圭への復讐を達成できないまま、私のすべてが終わる。彼が戻り、傘を一本差
し、無理やりその傘に入れられて、校舎の窓から目撃されて、私は、嫌われ者の女と
しての汚名を着せられて、社会的に死ぬ。
「お姉ちゃん…、うっ…」
今度こそ、泣きそうだった。
「はあっ…はあっ…」
彼が戻って来た。
手遅れだった。涙が目元から滑り落ちる。
咄嗟に下を向くも、きっと彼には悟られている。「何泣いてんだ」と無神経にから
かってくるだろうか、それとも、私の表情なんて気にも留めず、女子と相合傘するた
めに鼻息を荒くしたままだろうか。
全部、こいつのせいだ。
こいつのせいで、あいつへの復讐が、私の学校生活が…。
すると、視界の隅に、一本の棒のような形状の、ボタンの留められた傘が突如とし
て現れた。
なぜ?
傘を打つ雨の鈍い音は、依然として鳴りやまないのに、庇に立ち尽くす私と向かい
合う彼は、庇の下にいないのに。
まさか…。
「ほら、これ、俺のだけど、使いたくなかったら使うな」
彼は壁にそれを立てかけて、私に笑いかけた。
「コンビニで買った安物だから、別に返さなくていいぜ。帰りもたぶん降るだろう
し、そのまま貰っとけよ」
顔を上げると、傘を差していた彼が、歯を見せて笑っていた。
「じゃっ、俺、先に行くわ。嫌われ者と一緒にいるとこ見られたら、まずいしな」
「あっ、そういうことじゃ…」
そういう訳では、あった。
しかし、傘を二本持ってくるなんて、想像もできなかった。
灰岡翔。
学校中の嫌われ者。
そして、白木圭に絶交されたと噂されている人物。
私は、少し大きな傘を差し、彼に追いつかないように、地面の土を弾かないよう
に、ゆっくりと歩き始めた。
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