第三章 青島美奈は、思い出したかった

第22話 支配

 「ありがとね」


 数日前にも同じ言葉を違う人からもらった僕は、木造の本屋を後にする。


 「ああ、この二か月間で読み終わりそうかな」


 買ったばかりの文庫本を袋から取り出し、間に合わないことへの不安を募らせる僕

の気持ちをよそに、隣を歩く転校生・桃井春流は、まるで辞書のように分厚い小説を

三冊も買って、いたずらっぽく笑う。


 「大丈夫だよ。白木くん、頭いいからすぐに読み終わるし、感想文だってすらすら

書けるよ」


 フォローというよりも嫌味のようなフォローで僕をからかう小柄な桃井さんは、額

にびっしょりと汗をかいている。


 「あっ! 意外と汗かきなんだなぁとか思ってるな、その目は!!」


 目線よりも少し上に注がれる視線に気付いた彼女は、慌てたように両手で額に溜ま

った汗を隠した。


 「い、いや…、そんなことは!」


 「いいですよ~、別に。生まれつきだからあんまり気にしてないし」


 図星を指された僕に、少し不貞腐れたように頬を膨らませる彼女。


 「ふっ」


 「どうしたの? 急に」


 「いや、何でもない」


 最初に出会った時に比べると、二人の間に遠慮が無くなっていくのが、少しだけ嬉

しくて、笑ってしまった。


 「ただ、桃井さんがいてくれてよかったなあって」


 蓮井君の件だって、桃井さんが見つけてくれたからこそ始まったわけで、そもそも

僕の行動力のなさを補ってくれなかったら、蓮井君やチナツのような煌びやかな人間

に感謝されることは無かったし、出会えてすらなかった。


 「なっ、なにそれ!!?」


 彼女は予想以上に取り乱した。


 「あああ、ごめん! 急にこんなこと言って、気持ち悪かったよね?」


 「い、いや、そんなことは…」


 絶対、そう思われてる。


 夏休みの炎天下、僕もまた、大量の汗を掻いた。






 「ああ、涼しい」


 「うん!」


 じりじりと差す夏の日差しから逃げるように入り込んだカフェで、僕たちは気のす

むまで冷房の効いた空間で冷たい飲み物を味わい尽くす。


 「やっぱり、ここの店は良いよね~。お客さんがいっぱいだけど、雰囲気がよくて

僕は好きだな、って…」


 一息ついたところで話を振る僕の声は、彼女の耳には届いていなかった。


 本の虫、と呼んでしまいたいくらいに、分厚い本を、貪り食うようにして視線を固めたまま読書する彼女は、外部の音を完全に遮断しきって

いた。


 「っ…」


 息が詰まった。


 素敵な人だな、と思った。


 素敵、なんてフィクションの世界でしか使わないような語彙が、今、この瞬間の彼

女を目にして、自然と頭に思い浮かんだ。


 付け入るスキのない彼女の集中は、途切れることなく、三時間が経った。


 「…はあっ! 面白かった!」


 まるで悪しきものを封印するように、分厚い本を大儀そうに両手の平で閉じる彼女

の顔は、好奇心で溢れかえっていた。


 「どんな話だったの?」


 「聞きたい?」


 待ってました、とばかりに鼻を膨らませて丸く大きな目をさらに大きくする。


 あと二時間くらいはこの店にいることになるだろうな、と苦笑交じりに、それでい

て楽しみでもあった。


 本が好きな友達なんて初めてで、別の世界に生きる人のようで、彼女の話や考えを

聞くのは、退屈しなかった。


 しかし、そんな彼女の話を、僕は聞くことが出来なかった。


 「お客様…」


「あっ、すいません! …あれ、こんなにかかるもんなの!? 都会のカフェっての

は…」


もうすっかり客数の減った店内では、店員や他の客、一人一人の声が、よく聞こえて

くるものだが、とりわけ耳に入って来たのは、出入り口の前にあるレジのあたりで、

女性店員と、僕らと同じくらいの年齢の女の子が何やら揉めている声だった。


 目線を遠くへやる僕に異を唱えることなく、むしろ彼女も、そこに視線を注ぐ。


 「お金、ないのかな」


 「あの人、結構長居してたからな」


 「なんで分かるの? 好みのタイプだから見てたの?」


 「い、いや、そういうことじゃなくて…」


 なぜだか知らないが嫌味っぽく、脇を鋭く突くように僕を睨む桃井さんに、苦笑い

してどうにか誤魔化す。


 僕は、あの子を知っていた。


 だって…。


 「えっ…、白木くん!?」


 僕は席を立ち、そのままレジの方へと向かった。


 「あの…、良いんですか、お客様?」


 「ああ、この人、僕の連れなので」


 バーの客じゃあるまいし、と場違いにも自分の言動をおかしく思うが、今はそれどころではない。


 せめて、といういやらしさが、僕の心を支配していた。


 これだけで、僕は罪を償えるとは思っていないが、せめて、こんなことくらいはし

てやりたい、しなければならないと思っただけだ。


 偽善でも、何でもいい。


 桃井さんと同じく、本屋で目にしたことのある女の子は、不幸にも、未だに僕の

『チカラ』を解ききれていなかった。




 「「家出少女!?」」


 芝生がびっしりと広がる大きな公園のベンチで、僕らは二人そろって仰天した。


 「うん」


 間延びした声で、茶髪に髪を染めた女の子は、隣に備え付けられたブランコに揺ら

れながら呑気な調子で応える。


 「うちさ、こんな公園すら、あんなカフェすらないド田舎にあって、父親がそこで

病院を開業してるらしいんだよね」


 一部に引っかかりを覚えるが、彼女の話を黙って聞く僕ら。


 「でもさ、私がこんなだろうから、父親が毎日うるさいみたいでね。頬を張られた

り頭を叩かれたりするのは当たり前なくらいかな。考えるとひどい父親よね? 一応

女の子なのに」


 「うん」「はい」


 「で、私のことはまるでゴミクズみたいに扱ってて、出来のいい弟が、その人にと

っては唯一の子供だったんだろうね」


 「「…」」


 そこには相槌を打たない僕ら。


 そんなはずはないだろ、なんて初対面の人に向って分かったような口は利かれたく

ないだろうと、そう思う前に、僕らは、そこで確信する。


 まるで他人事のように自分の父親を語る彼女は、やはり『チカラ』に囚われてい

る。父親の存在を『忘れている』。どうやら僕は、たまたま出くわした家出少女の、

出会った丸一日分と大切な記憶を消してしまった。


 「ごめん!!!」


 だから僕は、謝った。


 夕闇に染まる薄暗い空間で、空気をひび割るような声を張ってしまったことに一切

の後悔もないくらいに、僕は、誠心誠意、彼女に謝罪した。


 「君の…、君のお父さんの…、記憶を消したのは僕なんだ!」


 「なにを言ってるの?」


 「僕が、僕が、自分の都合で、自分勝手に君の大切なものを奪ったんだ!」


 『チカラ』を知らない彼女には、混乱してしまうような内容かもしれないが、冷静

に『チカラ』について説明する余裕は、僕には無かった。


 「白木くん…」


 心配そうにその様子を見つめる桃井さんをよそに、僕は、この何の役にも立たない

ような頭を、ただただ下げ続けた。

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